プロローグ
目が覚めたような感覚で私の人生は始まった。幼稚園で、小学校で。必ず誰しもが無意識のうちに日々供給されているはずのものを、自分が持っていなかったことに気付いたからだと思う。
「はい500円。十分でしょ。」
「……うん。」
母から毎日持たされる食費扱いの500円玉。給食を抜いた朝と夜はこのワンコインで何とかしなければならない。乱暴に手渡されるその生命線は、手に張り付いて剝がれないんじゃないかってくらい冷たくて。
唯一の親友であるクマのぬいぐるみ、名前はクルミ。この子だけが家では私を温めてくれた。
小学校の頃はまだマシだった。自然と友達の出来る環境に、子供みたいな笑顔が自分でもできていたと自負できる。
けれど中学校はそうは行かなかった。引っ込み思案の私には、自分から話しかけに行かなきゃいけないと言うのはどうも難しく、運悪く周りの人間も話しかけてはこなかった。
(あの子も、あの子も。なんであんなに笑ってるんだろ。何が面白いのかな。)
遠くから聞いていても、彼女らの話は一切愉快とは思えなかった。あの輪の中でしか笑えないような、そんなルールでもできているみたいに私から笑顔は無くなって行った。
学校という居場所を失ってからのある秋の日。その日はやけに激しい篠突く雨だった。穴の開いたビニール傘では防ぎきれず、少し髪を痛め学校から帰ってきた私の目に映った光景は、理解するまで1分はかかった。
「……なんもない。」
13年間過ごしてきたアパートには最低限の家具だけが残り、ほとんどの物が無くなっていた。よくわからない数字が書かれたメモのいっぱい張られたコルクボードも、やけに高そうでキラキラしてた服も、お母さんも。
ただ、机の上にクマのクルミだけが横たわっていた。
「ごめんね、1人にさせて。最後まで一緒に行よう。ね。」
いつかこういう日が来るのは何となく気づいていた。一度、知らない男の人が家から出てきたのを遠目に見えたことがある。怖くてもちろんお母さんに聞くことはできなかったけど、昔より荒々しくなった性格で十分に理解はできた。
中学生というには、少し早く大人になりすぎていたのかもしれない。
もっと暴れて、あんな大人を見限って逃げてしまえばよかった。
だけどしなかった。他人ではなかったから。
「……あんなのでも私にとってはお母さんだった、のか。」
私はクルミを抱き上げて、屋上への階段を上る。
人生に句点を打とう。心残りは一ミリもない。ただ、もし挙げるとするならば。
「…ぬいぐるみは死なないか。」
この温もりを置いて先に逝くことくらいだった。




