自分のための物語
個人向けに作成しています。
横浜の古いアパート、3階の角部屋。
窓の外では、2026年の2月とは思えないほど冷たい雨が降り続いていた。
テーブルの上には、開封されて10年近く経つ『カタン』が広げられている。
六角形のタイルは角が少し欠け、木製の開拓者は何度か塗り直された跡がある。
赤・青・白・橙の4色のうち、今夜は橙だけが動いている。
プレイヤーは一人。
佐々木灯、29歳。
残りの3色は、昔の「約束の相手」が置いたままの駒だ。
「あーあ、また羊ばっかりか……」
灯はサイコロを振った。
出目は4と6。合計10。
橙の開拓地が建つ丘のタイル(羊)が光るように揺れた気がした。
彼女は資源カードを一枚引く。
羊×1。
また羊。
この半年で、羊のカードだけが30枚近く溜まっている。
「交易……してくれる人、いないよね」
誰もいないテーブルに向かって呟く。
昔はここに4人がいた。
大学時代のサークル仲間。
毎週金曜の夜、この部屋でカタンをやって、笑って、時には本気で喧嘩して。
でも、最後のゲームの夜——
橙のプレイヤー、悠斗が言った。
「俺が10点取ったらさ、灯にプロポーズするわ」
みんな笑った。
灯も笑った。
でもそのゲーム、悠斗は本当に9点まで行った。
最後のサイコロが、灯の「盗賊」を動かしてしまった。
橙の街が奪われ、悠斗は「ま、いっか」と笑って、そのままゲームを降りた。
次の週、悠斗は交通事故でいなくなった。
それから灯は、毎月この日だけ、
4人分の席を用意して、一人でカタンを続けている。
他の3色は、悠斗が最後に置いた位置のまま。
誰も動かさない。
今夜、橙は9点。
あと1点で勝利。
でも必要なのは「小麦2+鉱石3+羊1」での都市化。
手元にあるのは羊が山ほどと、木材が2枚だけ。
灯はため息をついて、資源取引の宣言をする。
「羊3枚で……小麦1枚、誰かくれない?」
静寂。
すると、ふと——
青の開拓地が、かすかに動いた気がした。
「……1:1でいいよ」
声がした。
低くて、少し掠れた、聞き慣れた声。
灯は顔を上げた。
誰もいないはずの青の席に、
ぼんやりとした輪郭が浮かんでいる。
Tシャツにジーンズ、いつもの少し猫背の姿勢。
「悠斗……?」
「遅くなってごめん。
ちょっと道、混んでてさ」
幽霊みたいな彼は、苦笑いしながら資源カードの山を指差した。
「羊3枚で小麦1枚、交換成立な」
灯の手が震えた。
カードを差し出す。
確かに、青の側から小麦カードが一枚、滑るように移動してきた。
「なんで……今?」
「約束してたろ。
俺が10点取ったら、って。
でも俺、9点で終わっちゃったからさ。
代わりに、お前が10点取ったら——
俺の分まで、ちゃんと笑ってくれよって思ってた」
灯は泣きながら、都市化のカードをプレイした。
橙の開拓地が街になり、勝利点10。
ゲーム終了の瞬間、
部屋中のタイルが、ほのかに暖かい光を放った。
悠斗の輪郭が、ゆっくり薄れていく。
「最後にもう一個、取引いい?」
「……何?」
「俺の最後の羊一匹を、お前にあげる。
だからさ——
これからは、誰かと一緒にカタンやってくれ。
俺の席は、もう空けておいてもいいから」
灯は首を振った。
でも、声は出なかった。
最後に悠斗が笑った。
あの、ちょっと意地悪で、でも優しい笑顔。
「次は、新しい誰かと、
ちゃんと4人でやってみて。
……俺、見てるから」
光が消えた。
テーブルには、いつものカタン。
ただ、橙の街の隣に、
青の開拓者駒が一つだけ、
まるで「またね」と言うように、
そっと寄り添うように置かれていた。
灯はそっとその駒を手に取った。
「……うん。
次は、ちゃんと誘ってみる」
雨が止んだ。
窓の外に、横浜の夜景が少しだけ明るく見えた。
ボードゲーム大好きなので、題材として選ぶことが多くなるかな




