第8話 突きつけられた請求書
地響きのような軍靴の音が、荒野の逃走劇を強制的に停止させた。
「ひぃっ!? な、なんだあの旗は!?」
私の鍬とベア吉の咆哮に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとしていたジェラルド王子と騎士たち。
彼らが悲鳴を上げて馬を止める。
彼らの行く手を、黒い壁が塞いでいた。
整然と並んだ重装歩兵の盾。
荒野の風にはためく、双頭鷲の紋章旗。
そして、その中央で悠然と騎乗している、黒マントの男。
ガルディア帝国皇帝、アレクセイ・ガルディア。
「逃がすな。包囲しろ」
アレクセイの静かな、しかし絶対的な命令が響く。
その瞬間、左右の岩陰から弓兵と魔導師部隊が一斉に姿を現した。
総勢、五百は下らない。
三十人のボロボロな騎士団など、一瞬で磨り潰せる戦力差だ。
「ガ、ガルディア軍だと!? なぜこんな所に……!」
ジェラルド王子が顔面蒼白で叫ぶ。
無理もない。
彼らにとってここは「王国のゴミ捨て場」であり、まさか他国の大軍が展開しているなど想像もしていなかっただろう。
アレクセイは馬を進め、私の隣までやってきた。
彼は馬上から私を見下ろし、口元だけで優しく笑った。
『怪我はないか?』という無言の問いかけだ。
私は小さく頷いて返す。
それ確認すると、彼は氷点下の瞳で王子を見下ろした。
「オルド王国の王子とお見受けする。我が国の『最重要通商パートナー』であるエレノア殿の領地で、随分と野蛮な振る舞いをされているようだが?」
「ぐっ……! こ、ここは王国の領土だ! 貴様らこそ不法侵入ではないか!」
ジェラルドが震える声で吠える。
まだ状況が理解できていないらしい。
アレクセイは溜息をつき、腰の剣に手をかけた。
「警告する。これ以上の狼藉は、帝国への宣戦布告とみなす。……今ここで、灰になりたいか?」
チャキッ、と剣が鞘から数センチ抜かれる。
それだけで、周囲の空気が凍り付いたような殺気が溢れ出した。
騎士たちは馬から転げ落ち、地面に額をこすりつけて命乞いを始めた。
ジェラルドも腰が抜けて、パクパクと口を開閉しているだけだ。
勝負あり。
武力による制圧は完了だ。
アレクセイが私を見た。
「エレノア。こいつらの生殺与奪は君に任せる。斬れと言うなら、俺がやる」
甘い誘惑だ。
ここで「やってしまいなさい」と言えば、これまでの恨みは晴らせるかもしれない。
でも、それではただの虐殺だ。
私は農家であり、経営者。
暴力よりも、もっと効果的で、もっと彼らが苦しむ方法を知っている。
「いいえ、陛下。剣を汚す必要はありません」
私は鍬を地面に突き立て、懐から一冊の帳簿を取り出した。
そして、アンナ(怯えて馬車の影に隠れていた)を指差した。
「そこのあなた。筆記用具を持ってきなさい。今すぐ」
「は、はいぃぃ!」
アンナが涙目で飛んでくる。
私は馬車のボンネットを机代わりにして、羊皮紙を広げた。
「ジェラルド殿下。命はお助けします。ですが、タダというわけにはいきません」
「な、何を……」
「精算ですよ。これまでのツケを払っていただきます」
私はサラサラとペンを走らせた。
「まず、本日の不法侵入および威力業務妨害による損害賠償。騎士たちの馬蹄で荒らされた土壌の回復費用。精神的苦痛への慰謝料。……しめて、金貨五千枚」
「ご、五千だと!? ふざけるな! そんな大金、今の国庫にあるわけがないだろう!」
ジェラルドが叫ぶ。
知っている。今の王国にそんな支払い能力はない。
「おや、払えないのですか? 王族ともあろうお方が?」
「ぐぬぬ……!」
「では、次です。私がこの地を開拓するのにかかった費用。および、私が実家にいた頃に私財を投じて行った領地改革の立替金。これらも返還していただきます」
私はさらにゼロを書き足した。
「さらに、私への冤罪(横領罪)によって傷つけられた名誉の回復費用。……合計で、金貨二万枚になりますね」
「に、二万……!?」
ジェラルドの目が飛び出る。
国家予算並みの金額だ。
もちろん、払えるはずがない。
彼は絶望的な顔でアレクセイを見たが、皇帝陛下は腕を組んで「正当な請求だ」と頷いているだけだ。
「払えませんよね? 現金では」
私はニッコリと微笑んだ。
本題はここからだ。
「ですので、代わりの資産で手を打ちましょう」
私は別の羊皮紙を取り出した。
あらかじめ用意しておいた、『鉱山採掘権譲渡契約書』だ。
「王国の北にある『白銀鉱山』。あそこの採掘権と管理権を、今後五十年にわたり帝国へ譲渡してください。それで借金をチャラにします」
「は、白銀鉱山だと!? あそこは王家の重要財源だぞ! それを渡せば、王国は……!」
「終わり、でしょうね」
私は冷たく言い放った。
あの鉱山は、ミスリルが採れる重要な場所だが、最近は採掘量が落ちている。
帝国に渡せば、彼らの技術で復活するだろう。
王国は貴重な資源を失い、経済的に帝国の属国同然となる。
でも、それが自業自得というものだ。
「嫌なら断ってもいいですよ? その代わり……」
私はチラリとアレクセイを見た。
彼は待ってましたとばかりに剣を抜き放ち、刀身に魔力を纏わせた。
「交渉決裂なら、戦争だ。今すぐ王都へ進軍し、力ずくで奪い取るまで」
「ひぃぃぃ! わ、わかった! サインする! サインすればいいんだろう!」
ジェラルドは泣き叫びながらペンを奪い取った。
手が震えてインクが飛び散るが、なんとか署名をする。
王族の署名が入った以上、これは国際的な効力を持つ公文書だ。
「はい、契約成立です」
私はインクが乾くのを確認し、書類をアレクセイに渡した。
彼は満足げにそれを受け取り、懐へしまう。
「賢明な判断だ。……もっとも、これで王国の寿命は尽きたも同然だがな」
ジェラルドはその場に崩れ落ちた。
鉱山を失ったと知れれば、彼は廃嫡どころか、国民から石を投げられるだろう。
死ぬよりも辛い、地獄の日々が待っている。
「さあ、お帰りください。二度と私の土地に足を踏み入れないで」
私はシッシッと手を振った。
騎士たちは慌てて王子を馬車に押し込み、逃げるように去っていった。
スパイのアンナも、もはや私を見ることもできず、馬車の後ろを走って追いかけていく。
後に残されたのは、静寂と、勝利の余韻だけ。
「……見事だったな、エレノア」
アレクセイが馬から降り、私に歩み寄ってきた。
その手には、いつもの冷徹さではなく、温かな称賛が込められている。
「剣を使わずに国を一つ落とした。君は、俺よりも恐ろしい支配者かもしれない」
「褒め言葉として受け取っておきます」
私は肩をすくめた。
でも、膝が少し震えていた。
強がってはいたけれど、元婚約者に引導を渡すのは、それなりにカロリーを使う。
ふわり。
アレクセイのマントが、私の肩にかけられた。
「よく頑張った。……腹、減っただろう?」
「ええ。ペコペコです」
彼の不器用な優しさに、張り詰めていた糸が切れた。
私は彼を見上げ、心からの笑顔を向けた。
「今日は特別メニューにしましょうか。お祝いですから」
「それは楽しみだ。……俺も手伝おう。熊と一緒に」
そう言って笑う覇王様の顔は、やっぱりとても格好良かった。
王国の没落が決定的になった日。
けれど、ここオイレンベルク農園では、いつものように美味しい夕食の煙が立ち上るのだった。
【第9話へ続く】




