第3話 その野菜、宝石よりも輝いて
私は震える指先で、その真っ赤な果実をそっと包み込んだ。
パンッ、と皮が張り詰め、指に吸い付くような瑞々しさ。
朝露を弾いて輝くその姿は、王宮で見たどんな宝石よりも美しい。
「……できた」
荒野に来てから、早三ヶ月。
岩を砕き、土を耕し、毎日魔法水を撒いて育ててきた愛娘がついに成人(収穫)を迎えたのだ。
私はハサミを入れ、ヘタの上をパチンと切った。
ずしりとした重みが掌に伝わる。
「採れた……! 初収穫よ、ベア吉!」
私が振り返ると、背後でカゴを背負って待機していた巨大な赤熊――ベア吉が『ヴォフッ!』と歓喜の声を上げた。
彼は涎を垂らして私の手元をガン見している。
「ふふ、わかってるわよ。まずは味見ね」
私は袖でトマトをキュッキュと拭くと、そのままガブリと噛みついた。
プチッ。
弾ける音と共に、口内が大洪水になった。
強烈な甘み。
それを追いかける爽やかな酸味。
そして何より、噛むたびに溢れ出す濃厚な旨味ジュース。
青臭さは微塵もない。まるで極上のフルーツだ。
「んんっ……!!」
あまりの美味しさに、私は膝から崩れ落ちそうになった。
前世の記憶にある最高級トマトすら凌駕している。
やはり、この土地の魔力水と、私の土魔法による土壌改良が効きすぎたらしい。
「ベア吉、口開けて!」
『アーン』
私が放り投げたトマトを、ベア吉が空中でパクりとキャッチする。
もぐもぐと咀嚼した瞬間、熊の目がカッと見開かれた。
そして両前足を頬に当てて、『クゥゥゥ〜ン!』と悶絶している。
どうやら魔獣の舌にもクリティカルヒットしたようだ。
「最高ね。これなら、市場に出しても即完売間違いなしよ」
私は次々とトマトを収穫し、ベア吉の背中のカゴへ入れていく。
トマトだけじゃない。
隣の畝では、「蜜カボチャ」がゴロゴロと実り、その奥ではジャガイモが土の中で眠っている。
三ヶ月前は死の荒野だった場所が、今は緑と赤と黄色の楽園だ。
「よし、今日は収穫祭よ! お昼はトマトと夏野菜の煮込み(ラタトゥイユ)にするわ!」
私は仮設のキッチン(岩をくり抜いて作った竈)へ向かった。
ベア吉が嬉しそうにスキップしながらついてくる。
その足取りで地面が揺れるけれど、ご愛敬だ。
***
グツグツグツ。
鍋の中で、トマトとズッキーニ、ナスが踊る。
味付けは岩塩と、荒野で見つけた香草のみ。
水を一滴も使わず、野菜の水分だけで煮込むのがポイントだ。
香ばしく甘い湯気が立ち上り、風に乗って荒野へ流れていく。
「そろそろいいかしら……」
お玉で味見をしようとした、その時だった。
ガサッ。
畑の向こうの茂みが、不自然に揺れた。
ベア吉がピタリと動きを止め、低い唸り声を上げる。
野生の勘が警鐘を鳴らしている。
魔物か?
いや、気配が違う。もっと弱々しい。
私はベア吉を手で制し、愛用の鍬『あかつき丸』を引き寄せて立ち上がった。
「誰? そこにいるのは分かっているわ」
声を張り上げる。
すると、茂みからズルズルと何かが這い出てきた。
「……み……ず……」
人間だ。
泥だらけのローブを纏った、若い男。
フードが脱げ、灰色の髪が汗で張り付いている。
顔色は死人のように白く、目は虚ろだ。
腰には短剣を差しているが、それを抜く力も残っていないように見える。
(遭難者? こんな国境の僻地まで?)
ここは街道からも外れている。
迷い込んだ商人か、あるいは訳ありの旅人か。
どちらにせよ、放ってはおけない。
「大丈夫ですか?」
私は警戒を解かずに近づいた。
男は私を見ると、何か言おうとして喉をヒューヒューと鳴らし、その場に突っ伏してしまった。
完全にエネルギー切れだ。
おまけに、微かに魔力欠乏の気配もする。
「ベア吉、運ぶの手伝って。そこの木陰へ」
『ヴォフ』
ベア吉が器用に男の襟首を咥え、ひょいと持ち上げる。
男はされるがままだ。
木陰に寝かせ、私は水筒の水を含ませた布で彼の唇を湿らせた。
少しだけ意識が戻ったのか、男の睫毛が震える。
「……ここは……天国……?」
「残念ながら、荒野のど真ん中よ。でも、美味しいものはあるわ」
私は鍋から煮込みを皿に盛り、冷ましておいた一番立派なトマトを添えた。
男の上体を起こし、スプーンを差し出す。
「食べられる?」
「……い、いい匂いだ……」
男は震える手でスプーンを掴もうとしたが、力が入らないようだ。
仕方ない。
私はため息を一つついて、彼の口元へスプーンを運んだ。
「はい、あーん」
「!?」
男が驚いたように目を見開く。
20代半ばくらいの、なかなか整った顔立ちをしている。
こんな美形に行き倒れさせるなんて、世の中世知辛いものだ。
男はおずおずと口を開け、煮込みを一口食べた。
その瞬間。
彼の体から、バチバチッという静電気のような音が微かに聞こえた気がした。
「――っ!!」
男がガバッと目を見開き、私を凝視する。
そして、次は自分でスプーンを奪い取り、猛烈な勢いで食べ始めた。
「うまい……なんだこれは……体が、熱い……!」
「よく噛んでね。お代わりはあるから」
彼は皿を舐めるように平らげ、さらに生のトマトにかぶりついた。
果汁が滴るのも構わず、一心不乱に食べる。
その様子は、まるで砂漠で水を飲む遭難者そのものだった。
一個食べ終わる頃には、彼の顔色は見違えるほど良くなっていた。
青白かった肌に血色が戻り、目の下の隈も消えている。
何より、瞳に宿る光が鋭さを取り戻していた。
(すごい回復力……若さね)
私は感心しながら、空になった皿を受け取った。
「落ち着いた?」
「……あ、あぁ。すまない、取り乱した」
男は口元を拭い、居住まいを正した。
その仕草には、隠しきれない育ちの良さと、隙のない身のこなしが滲んでいる。
ただの商人じゃなさそうだ。
「助かった。俺はハンス。……しがない旅の者だ」
「私はエレノア。ここで農業をしているわ」
農業、と言った瞬間、ハンスと名乗った男は周囲を見渡して絶句した。
彼の視線の先には、整然と並ぶ畝と、巨大な熊が水やりをしているシュールな光景がある。
「ここを……君一人で? ここは魔の森の隣だぞ?」
「一人じゃないわ。ベア吉がいるもの」
『ヴォフ!(俺だ!)』
「……熊を使役しているのか。それに、このトマト……」
ハンスは自分の掌を見つめ、独り言のように呟く。
「魔力回路の滞りが消えた……? 古傷の痛みもない。たった一個で、上級ポーション並みの効果だと……?」
「何か言った?」
「い、いや! なんでもない!」
ハンスは慌てて首を振った。
そして、探るような目で私を見た。
「君は……何者なんだ? これほどの治癒効果がある作物を育て、魔獣を手懐けるなんて。どこの国の錬金術師だ?」
「ただの農家よ。ちょっと土魔法が得意なだけの」
私はニッコリと笑って誤魔化した。
元公爵令嬢だなんて言う必要はない。今はただの農家なのだから。
ハンスはしばらく私をじっと見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……そうか。ただの農家、か」
彼は懐を探り、小さな銀貨を三枚取り出してテーブルに置いた。
「食事代だ。命拾いした礼には足りないが、今はこれしか持ち合わせがない」
「そんな、いいのよ。余り物だし」
「受け取ってくれ。俺のプライドの問題だ。……それに、また食べに来たいからな」
ハンスは少しだけ口角を上げて笑った。
さっきまでの死にそうな顔とは別人のような、精悍な笑顔だった。
「ごちそうさま。エレノア嬢、あんたは凄いよ」
そう言い残すと、彼は風のように立ち去っていった。
足取りは軽く、現れた時のような迷いは微塵もない。
あっという間に荒野の彼方へ消えてしまった。
テーブルに残された銀貨が、午後の日差しを浴びてキラリと光る。
「……お客さん第一号、ね」
私は銀貨を拾い上げ、胸ポケットにしまった。
初めて自分の作ったもので得た対価だ。
王宮でドレスを着ていた時には感じたことのない、じんわりとした温かさが胸に広がる。
「また来るって言ってたわね」
あんなに美味しそうに食べてくれるなら、大歓迎だ。
次はもっとメニューを増やしておこう。
カボチャのポタージュなんかもいいかもしれない。
私は上機嫌で鼻歌を歌いながら、鍋の後片付けを始めた。
その頃。
荒野を疾走するハンスが、懐に隠した通信機に向かって、震える声で報告を入れていることなど、私は知る由もなかった。
『緊急報告。国境座標X-204にて、特級危険指定……いや、特級保護対象を発見。至急、皇帝陛下へ親展を』
『対象は女性。名はエレノア。……彼女の作る野菜は、帝国の食料事情、いや、世界の常識を覆す可能性があります』
それは、私が知らぬ間に世界を巻き込み始めた、最初の狼煙だった。
【第4話へ続く】




