第2話 魔熊(ベア)は耕運機の夢を見るか
カーン、カーン、という硬質な音が、早朝の荒野に虚しく響いていた。
私は朝日が昇ると同時に地下の寝床から這い出し、日課のラジオ体操(前世の記憶に基づく柔軟運動)を済ませて、さっそく作業に取り掛かっていた。
目の前には、見上げるような巨岩の群れ。
普通なら絶望的な光景だ。
でも、今の私には宝の山に見える。
「よいしょっと!」
私は鍬の平らな部分で、手頃な岩を叩いた。
ただ叩くだけじゃない。接触の瞬間に魔力を流し込み、岩石の分子構造に干渉する。
『風化促進』
ボフッ。
硬い岩が一瞬で崩れ、サラサラの砂と土に変わった。
土魔法の応用だ。
岩石に含まれるミネラル分を残しつつ、植物が根を張れる粒子の細かさに分解する。
これを繰り返せば、肥料いらずの最高級の土壌が出来上がるはずだ。
「ふう。いいペースね」
額の汗を拭う。
ドレスの袖を引きちぎった腕は、貴族令嬢にしては健康的すぎるけれど、労働の証だと思えば愛おしい。
昨日掘り当てた地下水を一口飲む。
魔力を帯びた冷たい水が体に染み渡り、疲労がスッと抜けていくのが分かった。
「水よし、土よし。あとは……」
労働力だ。
私一人でできる範囲には限界がある。
重い岩を動かしたり、広範囲を耕したりするには、どうしても人手が――いや、手足が足りない。
「どこかに働き者の農夫でも落ちてないかしら」
そんな都合のいいことを呟いた、その時だった。
『グルルルルゥ……』
背後から、地響きのような唸り声が聞こえた。
空気がビリビリと震えるほどの重低音。
野生動物のそれではない。
私はゆっくりと振り返った。
そこには、小山のような「赤」があった。
体長は優に四メートルを超えているだろうか。
燃えるような赤い毛並みに、丸太のように太い腕。
口元からは長い牙が覗き、涎を垂らしている。
レッドベア。
別名、灼熱の暴君。
Aランク指定の危険な魔獣だ。
普通の騎士団なら、一個小隊で挑んでも全滅しかねない相手である。
熊は充血した目で私を睨みつけ、ゆっくりと立ち上がった。
その影が私をすっぽりと覆い隠す。
「……なるほど」
私は冷静に状況を分析した。
空腹そうだ。
そして、筋肉質で、スタミナがありそう。
(いい体してるじゃない)
熊が右腕を振り上げた。
鋭い爪が朝日にぎらりと光る。
殺気と共に、轟音のような咆哮が放たれた。
『グオオオオオオオ!!』
鼓膜が破れそうな大音声。
熊の豪腕が、私の頭上へと振り下ろされる。
死を確信させる一撃だ。
私は、鍬を構えた。
逃げる? まさか。
これは向こうからやってきた、千載一遇のチャンスだ。
「採用面接、開始!」
私は一歩も退かず、振り下ろされる爪に対して、鍬を下から思い切りカチ上げた。
ガギィィィン!!
金属音が火花を散らす。
私の鍬『あかつき丸』はミスリル製だ。魔獣の爪ごときで欠けたりしない。
熊の腕が弾かれ、体勢が大きく崩れる。
その隙を、私は見逃さない。
「失礼します!」
踏み込む。
ドレスの裾を翻し、懐へ。
土魔法で足元のグリップを強化。
遠心力と体重、そして強化魔法を乗せた鍬の平打を、熊の鳩尾へ叩き込む。
ドゴォッ!!
重たい打撃音が響いた。
内臓を揺らす衝撃。
巨体が一瞬宙に浮き、そのまま白目を剥いて後ろへ倒れた。
ズズーン……。
土煙が舞う。
一撃KOだ。
加減はしたけれど、死んでいないか少し心配になる。
私は倒れた熊の鼻先に耳を寄せた。
スピースピーと、いびきが聞こえる。
よし、気絶しているだけだ。丈夫で助かった。
「さてと」
私は水筒の水を手に取ると、熊の口元へ少し垂らしてやった。
魔力を含んだ水は、魔獣にとっても極上の回復薬になるはずだ。
ピクリ、と熊の耳が動く。
ゆっくりと目が開いた。
焦点の合わない目が、目の前に立つ私を捉え、ビクッと体を震わせる。
「おはよう。気分はどう?」
私はにっこりと微笑みかけた。
熊は後ずさりしようとするが、背後は岩壁だ。
「グルゥ……?」と情けない声を漏らす。
私はポケットから、残りの乾パンを取り出した。
水筒の水に浸して柔らかくしてから、熊の鼻先に差し出す。
「お腹、空いてるんでしょう? あげる」
熊は警戒していたが、鼻をヒクつかせると、たまらず乾パンにかぶりついた。
ガツガツと食べる。
魔力水のおかげか、みるみるうちに毛艶が良くなっていくのが分かる。
食べ終わると、熊は私を見た。
先ほどの殺気は消え、どこか媚びるような、あるいは畏怖するような目つきに変わっている。
魔獣は本能に忠実だ。
自分より強い者、そして自分に利益(餌)をくれる者には従う習性がある。
私は鍬を肩に担ぎ、問いかけた。
「美味しかった?」
『クゥン』
熊が頷くように鳴く。
よし、交渉の余地ありだ。
「これからは、働いた分だけ美味しいものをあげるわ。この水も、そのうち出来る野菜もね」
私は荒れ地を指差した。
「条件はシンプル。私と一緒にここを耕すこと。岩をどかして、土を運ぶの。やる?」
熊は私の顔と、輝く鍬と、そしてまだ口に残る水の味を交互に見比べた。
そして。
『ヴォフッ!』
短い鳴き声と共に、熊はお腹を見せるようにゴロンと寝転がった。
服従のポーズだ。
契約成立ね。
「いい子。名前が必要ね……赤くて大きいから、『ベア吉』でいいかしら」
安直すぎるネーミングだが、熊――ベア吉は嬉しそうに尻尾を振った。
私はその硬い毛並みをワシャワシャと撫でる。
想像以上の剛毛だけど、温かい。
「よし、ベア吉。さっそく仕事よ。あそこの一番大きな岩、動かせる?」
私が指差すと、ベア吉はむくりと起き上がり、四足歩行で岩へ向かった。
そして、私なら魔法を使わなければ動かせないような巨岩を、軽々と持ち上げてみせた。
「すごい! さすが重機並みのパワー!」
私は手を叩いて称賛した。
ベア吉が得意げに鼻を鳴らす。
一人と一匹。
荒野に、頼もしい開拓チームが誕生した瞬間だった。
その様子を、遠くの岩陰から見ていた人影が、信じられないものを見る目で硬直していたことなど、今の私たちは知る由もなかった。
帝国の密偵は、震える手で報告書にこう書き記したという。
『対象、魔獣を徒手空拳で制圧。現在、熊を使役して整地中。危険度、測定不能』と。
【第3話へ続く】




