第40話 声の再響
クリスマス当日。
朝から雲ひとつない晴天で夜になっても雪ひとつ降っていない。
イベント会場には多くの人が集まり、広場にはアーティストたちや聖歌隊の子どもたちの声が響いている。
笑い声と音楽が交じり合い、冬の空気を温めていた。
その喧噪の中で、葵はそっと胸元を押さえた。
心臓が、ぎゅっと締めつけられる。
また、あのときみたいに――惨めな姿を晒したくはなかった。
葵の出番は、イベントの最後のプログラムだった。
たった一分の歌。
その一分が終われば、夜空に花火が上がる予定だ。
この一分に、すべての責任を背負う。
最後を締めくくる声として、誰にも恥じないように。
「葵」
呼ばれて振り返ると、瑠璃が手を振っていた。
「……何故いる」
「そりゃあ、ことのはプロの社長ですから。で、葵は所属アーティスト」
軽く笑いながら瑠璃が近づいてくる。
葵は無言のまま、その瞳をじっと見つめた。
「うんうん、大丈夫そう。もし苦しそうだったら、出場キャンセルにしようと思ってたけど」
「ドタキャンは迷惑すぎる」
「ふふ、ほんと葵はそういうとこブレないね。……でもね、あたしは百の他人より、うちの子たちを守りたいんだよ」
瑠璃の声音は穏やかだった。
けれどその言葉の奥には、確かな覚悟と、守る者の優しさが滲んでいた。
「聖歌隊への楽曲提供もしたらしいね。無理してないかなって思ってたけど……杞憂だったみたい」
瑠璃が笑みを浮かべる。
葵はマイクを握る手を一度見下ろし、淡々と答えた。
「音がないと、逆に死ぬ」
「あははっ。ほんと、葵らしいね」
瑠璃は肩をすくめ、軽く手を振った。
冬の光が髪を照らし、金の粒のように反射する。
「奏真くんたちも見に来てるからさ――最強の“一分間”、ぶちかましてきなよ」
葵は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
冷たい風がマイクスタンドの足元を通り抜け、胸の奥で何かが燃える音がした。
ステージでは、聖歌隊の子どもたちが澄んだ声で歌っていた。
冬の空気を震わせるその歌声が、会場をやわらかく包み込んでいる。
次が、葵の番だ。
葵は深く息を吸い込み、胸の奥で高鳴る鼓動を押さえた。
「……行く」
短く告げる声は、静かで、それでも揺るぎなかった。
聖歌隊の最後の和音が響き終わり、拍手が広がる。
葵はその音の波に背中を押されるように、ゆっくりと顔を上げた。
「うん、いってらっしゃい」
瑠璃が穏やかに微笑む。
葵の背を見送るその目は、誇らしさと祈りを宿していた。
ステージへと歩く葵の姿は――
まるで、戦地へ向かう兵士のように、静かで、そして決然としていた。
聖歌隊の子どもたちが退場し、拍手が静まっていく。
代わりに、葵がステージの中央に歩み出た。
観客席のざわめきが、瞬く間に広がる。
「本物だ」「退院したって……」「喉、大丈夫なのか?」
そんな声が、冬の空気の中で細い糸のように交錯した。
マイクを握った葵は、一歩だけ前に出る。
吐息が白く揺れ、会場の空気が緊張で張り詰めた。
「……俺にとって、このステージは本当の再出発だ」
その言葉が、静寂を切り裂く。
奏真たちは、客席の最前列で息を飲んだ。
(葵くん……)
誰もが祈るようにその姿を見つめる。
ステージの上で孤独に立つ彼から、視線を外すことができなかった。
葵は、ゆっくりと目を閉じる。
「……どんな感情であれ、響けばそれでいい」
その一言が放たれた瞬間、会場の空気が変わった。
観客も、照明スタッフも、音響ブースの誰もが息を止める。
沈黙の中で、葵が静かに息を吸った。
冷たい空気が肺を満たし、喉の奥を通り抜ける。
詠言ではない。
異能ではない。
これは、一ノ瀬葵という人間の“声”そのものだった。
マイクを通して響く、最初の一音。
それは決して大きくはなかった。
けれど、凍えるような冬の空気を、たしかに震わせた。
静寂が、広がる。
まるで世界が、この一瞬のために息を止めたように。
葵の声は、透明で、脆く、それでいて強かった。
壊れかけた喉から絞り出すような声なのに、どこまでも澄んでいて、痛みすら音に変えていく。
――光が揺れる。
舞い落ちる雪が、ステージライトに照らされて金色に滲んだ。
『手を伸ばす この声が届くなら』
歌詞が、冬空へと吸い込まれていく。
観客の誰もが息を呑み、動けなかった。
奏真が胸に手を当てる。
湊は、息を詰めたまま瞬きを忘れていた。
涼太は、笑っていた。泣きながら。
それは一分にも満たない短い歌。
けれど、その一分の中に、
葵の過去と痛み、そして願いのすべてが詰まっていた。
『生きて、また声を 誰かの心に残せたら』
最後の音が、雪の向こうに溶けていく。
風が、そっと葵の髪を揺らした。
沈黙。
そして、爆発するような拍手。
観客の誰もが立ち上がり、その姿を見つめていた。
葵はマイクを静かに下ろし、
ほんの一瞬だけ、空を見上げる。
その瞬間、夜空に花火が上がった。
光の花が咲くたびに、葵の頬を照らす。
彼はその光の中で、口を動かした。
――ありがとう。
声にはならなかった。
けれど、その唇の動きだけで、充分に伝わった。
拍手の中、葵はゆっくりとステージを降りた。
彼の“再響”は、確かにそこにあった。
***
アオノネに戻った葵は、カバンを玄関に置き、そのままソファへと身を沈めた。
肩の力が抜け、深く息を吐く。
(歌い切った。誰も、あの目をしなかった)
胸の奥に静かな余韻が残る。
いつの日か、一分しか歌えないという理由で嘲られ、その声ごと人間性まで否定されたあの日。
そして、数ヶ月前の事件。
もう二度と戻れないと思っていた場所に、自分は確かに立っていた。
「……届いた」
小さく呟いた声は、暖かく、そして安堵に満ちていた。
葵はわずかに口元を緩め、ゆっくりと目を閉じる。
そのとき、玄関の扉が開いた。
冷たい夜気と一緒に、賑やかな声が流れ込む。
「葵くん、即帰るとかある!? 普通、合流とかして――」
勢いよく駆け寄ってきた奏真が、途中で言葉を飲み込んだ。
そして、ふっと柔らかく笑う。
「湊、毛布持ってきて」
「え? ……ああ、そういうことか」
湊も笑みをこぼしながら階段をのぼる。
二人を穏やかに笑わせたのは――
ソファに沈み込むように眠る、葵の無防備な寝顔だった。
照明の灯りに包まれたその横顔は、
穏やかで、どこまでも静かに安らいでいた。




