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第39話 音のある場所で

 朝から雪が降り積もる。

 軽い雪掻きを終えた葵は、身を縮こめたまま玄関に戻り、真っ直ぐキッチンへと向かう。

 ケトルの湯を沸かし、その間に濡れたコートを掛けた。


 湯が沸くまでのわずかな時間。

 外の白さが、窓越しにやわらかく部屋を照らしていた。

 冷えた指先をマグに当て、葵は小さく息を吐く。


 立ちこめる湯気とともに、静寂が満ちる。

 音のない世界の中、時計の秒針だけが淡々と時間を刻んでいた。


 彼はケトルのスイッチが鳴るのを待ちながら、炬燵に入るとスマホが鳴った。

 涼太からだった。


《今日、買い物行くやろ? 荷物持ちならいくやでもやるで!》


 そんなメッセージとやる気に満ち溢れるようなスタンプ。

 そんな熱烈なメッセージに葵は、《夕方》とだけ返した。


 カチリ、とケトルの湯が沸くと、マグカップに湯を注ぐ。

 立ち上る蒸気に喉が温かくなった。


 窓の外では、まだ雪が細かく舞っていた。

 遠くから、子どもの笑い声が微かに届く。

 白く染まる世界の中で、アオノネの屋根だけが静かに息づいていた。


 テーブルの上には楽譜。

 明日はクリスマス。イベントで歌う予定のある葵にとって最後の仕上げだった。


「明日、最後か」


 イベントの最後のプログラムに歌う。

 瑠璃が葵が歌いたいならと入院中、選択をくれた。


「俺は、歌いたい」


 たった一分であろうとも。

 医者に歌うことを止められても、歌は命だった。


***


 夕方。

 涼太と共にスーパーに行けば、見渡す限りの人。

 誰もがクリスマスに向けて買い物に来たのが分かる。


「うおぉ……予想してたけど、やばいやん。これ」


「さっさと買って帰る」


 カートにカゴを乗せて歩く葵に涼太は笑う。


「相変わらずやな。ま、それが一番や。帰りにケーキ貰いに行くしな」


 葵は眉をひそめ、無言のままカートを押す。

 通路には家族連れやカップルがひしめき合い、流れるBGMまで浮かれ気分だ。

 頭上のスピーカーからは定番のクリスマスソングが絶え間なく流れ、店内の喧騒が耳にまとわりつく。


「……うるさい」


「イベント前はこんなもんや。逆に静かやったら心配になるで」


 涼太は苦笑しながら、棚に並ぶ商品を次々とカゴに放り込む。

 惣菜、飲み物、菓子類――選ぶテンポはやたらと早い。


「お前、買い物っていうより狩りだな」


「狩りは鮮度が命や」


 軽口を交わしながら進むふたりの姿は、どこか穏やかだった。

 人の多さにも、年末の喧騒にも呑まれず、淡々とした日常の延長。


 カートの揺れる音が、クリスマスソングの合間に微かに混ざって響いた。


「……あ」


 葵がふと見たのは割引シールが貼られた照り焼き肉に手を伸ばす。


 その瞬間。


「……っ」


 人の波に流された。

 割引に目が眩んだ客たちの圧によって、葵の華奢な身体は流される。


「おおっ、葵! どこいくねーん!」


 慌てて追いかける涼太の手には、ちゃっかりと割引された照り焼き肉が取られていた。


「……人間の荒波」


「お前もその波のひとつやで。ま、流されたんはしゃあないやん。マダムパワーってやつやな」


 葵は整えた髪をわずかに乱しながら、肩で息をつく。

 人の熱気と肉の香りが入り混じり、冬だというのに店内は妙に暑い。


「……もう帰る」


「まだメインすら買えてへんやろ」


 涼太が笑いながら、割引ステッカーの貼られたパックを誇らしげに掲げる。

 その得意げな顔に、葵は無言で冷たい視線を向けた。


「……それ」


「葵、これほぐしてサラダに入れる気やったろ? 人数分買えんからな」


「……うるさい」


「ほんま、そういうとこ優しいな」


 軽口を交わす二人の間を、買い物袋を提げた人々が通り過ぎていく。

 周囲は笑い声と呼び込みの声で溢れ、誰もが浮かれていた。


 だが、葵の中でその喧騒は遠い。

 ふと、背後から聞こえるピアノ調のクリスマスソングに耳を傾ける。


 ――音。

 それは喧噪の中にも確かに息づいている。


 葵はわずかに目を細め、息を吐いた。


「……世の中、騒がしいほうがまだマシ」


「ん? なんや急に」


「別に」


 短く言い捨てて、葵は再びカートを押した。

 涼太は苦笑しながら、その背中に追いついていく。


 喧噪の中でも、どこか静かな二人の歩幅だけが、確かに揃っていた。


***


 アオノネに戻り、荷物を置くと冷蔵庫に食材やケーキをしまう。


「ホールケーキ、二つ買う意味……」


「選択肢は多い方楽しいやろ」


 涼太は買ってきたクリスマスリースを飾り付けて笑う。


「明日のイベントも選択肢の中にあったひとつやろ。提案は姉ちゃんやけど、決めたのは葵やし」


 葵は冷蔵庫の扉を閉め、無言のまま涼太の言葉を聞いていた。

 庫内の灯りが一瞬、彼の横顔を照らす。


「……うん」


 短く答えて、カウンターに肘をつく。

 冷たい金属の感触が手のひらに残った。


「ほんまにやるんやな」


 涼太が振り返ると壁に飾られたリースが、暖房の風でゆらりと揺れた。


「――怖くないんか?」


 その問いに、葵は少しだけ眉を寄せた。

 リビングの照明の下、沈黙が落ちる。


「……怖いに決まってる」


 呟くような声だった。

 けれど、その声音に震えはなかった。


「歌がなかったら傷つくことはなかった。でも、歌があるから、ここにいる」


 葵は視線を床に落とし、ゆっくりと息を吐く。


「怖いままで、立ちたい。歌がないと生きていけない」


 涼太はしばらく黙って葵を見ていたが、やがて小さく笑った。


「……葵らしいな。ほんま、強いやつや」


 その言葉に、葵は視線を上げる。

 涼太の手がリースを指で軽く弾くと、赤いリボンがきらりと光った。


「なら、明日は俺らが見届ける番やな。――お前の“再響”を」


 葵は返事をしなかった。

 ただ、ほんの少しだけ口元が緩む。


 静かなアオノネの空気に、笑い声のような暖かさが滲んでいった。


***


「と、いうわけで! メリークリスマス!!」


 サンタ帽を被った奏真が勢いよくクラッカーを鳴らす。

 続いて、葵以外の全員が一斉にクラッカーを鳴らした。


 パンッ、パンッ、と乾いた音と紙吹雪が部屋中に舞う。

 アオノネのリビングは一瞬で騒がしく、そして温かい空気に包まれた。


「……うるさい」


 葵は眉間に皺を寄せ、露骨に顔をしかめる。

 それでも、手は止めずに火にかけたスープを人数分取り分けていた。

 湯気が立ち上り、出汁の香りがふわりと広がる。


「なあ葵くん、それ怒りながらちゃんと世話焼いてるの、ギャップすごいよ?」


「黙れ。溢れる」


 奏真が笑い、湊が「はいはい」と手を振りながらテーブルを整える。

 涼太は、料理が並んだテーブルに皿を並べていく。


 葵がふと視線を上げると、テーブルの端に置かれたホールケーキが四つ。

 眉がぴくりと動いた。


「……何故ケーキが増えた」


「えっとー……俺が帰りに衝動で一個買って、瑠璃さんが差し入れしてくれて、元々のやつと合わせて――」


「四つ」


「うん! 豪華でしょ!」


「幸い味が被ってへんのが救いやな」


 涼太が苦笑しながらフォークを並べる。

 苺ショート、ガトーショコラ、チーズケーキ、そしてモンブラン。

 冷蔵庫の容量が心配になる光景に、葵は静かにため息を吐いた。


「……胃袋のキャパシティを考えろ」


「いいじゃん! クリスマスだし!」


「クリスマス限定で胃袋はでかくならん」


 奏真の明るい声とともに、クラッカーの残骸が床に散らばる。

 その中で、葵は呆れ顔のままも――どこか、ほんの少しだけ表情を緩めた。


 テーブルの上には、料理の香ばしい匂いと、温かなスープの湯気が立ちのぼる。

 部屋の隅では奏真がBluetoothスピーカーを繋ぎ、軽快なクリスマスソングを流していた。


「……音量下げろ」


「え? せっかくのパーティーだし、少しくらいは」


 葵の視線が鋭く刺さる。

 奏真は肩をすくめ、渋々ボリュームを下げた。


「そういや湊くん。これ、姉ちゃんから。社会人にしてはお子様すぎるチキンやって」


「誰が子供舌だ!」


 湊が突っ込みを入れ、涼太が吹き出す。

 湯気の向こうで彩がサンタ帽を被ってはしゃいでいる。


「見てください! 葵くん、リースの中心にケーキ置いたらめっちゃ映えます!」


「食い物でアートすんな」


 冷たい言葉とは裏腹に、葵は皿を受け取り、手際よくケーキを切り分ける。

 苺の赤、クリームの白、チョコの黒。

 それぞれが混ざり合って、まるでこの家の色のように賑やかだった。


「じゃ、改めて――」


 奏真が立ち上がり、グラスを掲げる。


「こうしてみんなに出会えて集まれたことに、乾杯!」


「乾杯!」


 グラスが軽くぶつかる音が、冬の夜に小さく響く。

 湯気と笑い声、甘い香りと少しの静けさ。

 そのすべてが、アオノネの中に溶けていった。


 葵はグラスを口に運び、アイスティーを一口。

 ふと視線を上げると、笑っている仲間たちの姿が目に映った。


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


 ――この音のある場所に、もう一度戻ってこられた。


 そんな実感が、静かに心に広がっていた。

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