第38話 再び灯る音
「こんにちはー!」
アオノネの玄関に、明るい女性の声が響いた。
茶髪のポニーテールが跳ねる。
見た目は大学生くらいの少女――新島彩。
肩にかけた鞄から、パソコンやスケッチブックが覗いている。
「……うるさい」
リビングの奥から聞こえた低い声。
眉間に皺を寄せながら、葵はマグカップに口をつけた。
蜂蜜を落としたホットミルクの甘さが、傷跡の残る喉をゆっくり温めていく。
「葵くんが目の前に……! えっ、うるさいって言われた!? ごめんなさい!! でもありがとうございます!!」
勢いのままに喋る彩を、葵は無表情で見やる。
「まずは荷物を置いて、手を洗え。話はそこからだ」
「は、はいっ!!」
彩は慌てて鞄を下ろし、洗面所へ駆けていく。
その背中を、葵は小さくため息をつきながら見送った。
「……本当に、うるさい」
ホットミルクの湯気が、静かな午後の空気に溶けていった。
***
「改めて、今回はMVの承諾ありがとうございます!」
彩は勢いよく頭を下げた。
その額にかかる髪がふわりと揺れ、緊張の息がこぼれる。
葵は何も言わず、湯呑みを手に取った。
中には、ほうじ茶の湯気。
香ばしい香りがテーブルの間を静かに満たす。
「飲め」
「は、はいっ! 頂きます!」
差し出された湯呑みを両手で受け取る彩。
湯気で指先を少し熱そうにしながらも、
その目はどこか嬉しそうに輝いていた。
葵は淡々とした表情のまま、湯呑みを置き直す。
それだけの仕草なのに、空気の温度がほんの少し柔らかくなった。
「えっと……イラストや映像についてですが、完成と同時に全て譲渡します。葵くんの音楽活動のお手伝いが出来るだけで、もう充分嬉しいので!」
彩は明るく笑った。
その笑みには、下心も打算もなかった。
ただ真っ直ぐな善意だけがそこにある。
けれど、葵はため息をひとつ吐き、湯呑みをそっと置いた。
瞳が鋭く細められる。
次の瞬間、彩の笑顔がわずかに凍った。
「才能や努力を、安売りするな」
「へ……?」
彩が瞬きをする。
その戸惑いに構わず、葵は視線を逸らさず続けた。
「自分が作ったものに、価値がないと思うな。少なくともクレジットには載せる。金も払う。……それが筋だ」
静かな声だった。
けれど、その言葉には、かつて自分が搾取され、
声を消費された者だけが持つ重みがあった。
彩は小さく息を呑み、胸の前で手を握る。
そして――そっと微笑んだ。
「……はい。じゃあ、仕事として、やらせてください」
葵は短く頷き、もう一度湯呑みに口をつけた。
香ばしいほうじ茶の香りが、張り詰めた空気をゆっくりとほぐしていった。
「えっと、それで……既存曲のMV、また作ってきました」
彩の声は少し上ずっていた。
期待と緊張が入り混じった笑顔。
だが、返ってきた葵の言葉は冷たい。
「許可を出した覚えはない」
「はい、ごもっともです。すみません」
「誰が謝れと言った」
低く落とされた声に、彩の肩がびくりと震える。
葵が無言で手を差し出した。
その指先の静けさが、言葉よりも強い圧を放つ。
彩は息を飲み、鞄の中からUSBメモリを取り出した。
手渡すと、葵は何も言わずノートパソコンを開く。
イヤホンを差し込み、デスクトップに現れたフォルダを開く。
――クリック。
再生された映像は、淡く始まった。
黒背景の中に、葵の過去の曲が静かに流れる。
アオノネの鍵を受け取り、再出発を決めた前日に上げた――あの曲。
派手な演出はない。
色彩は薄く、線は曖昧で、それでも存在感を放つ。
ひとつひとつのカットが、音の波に呼吸を合わせていた。
照明も効果も、何も足さない。
ただ、葵の“声”そのものを、映像が丁寧に包んでいた。
イヤホン越しに流れる自分の歌声。
画面に映るのは、どこか遠い記憶の断片。
凍った時間が、少しずつ解けていくような感覚。
葵は息を止めたまま、最後のフレームまで見届けた。
再生が終わる音が、やけに静かに響く。
イヤホンを外し、再生が止まったノートパソコンを閉じる。
葵は無言のまま立ち上がり、リビングを抜けてキッチンへと向かった。
「え、あの……」
彩の戸惑い混じりの声が背中に届く。
葵は返事もせず、冷蔵庫を開けた。
庫内の明かりが淡く彼の横顔を照らす。
野菜と卵を取り出し、手際よくまな板に並べる。
彩はぽかんと口を開けたまま、その様子を見つめる。
「えっと……何を……」
「これ見てたら腹減った」
葵が淡々と言い放つ。
切り出したネギの音が、トントンと静かな部屋に響いた。
「えっ!?」
予想外の言葉に、彩は完全に固まった。
真剣に見入っていたはずの映像が、たった一言で吹き飛ぶ。
しかし、葵の表情には微かに柔らかいものがあった。
冷たさでも怒りでもなく――
どこか満足げに、いつもの無愛想な声が続く。
「……腹減る映像を作るってのは、悪くないセンスだ」
彩の頬が一気に赤く染まる。
「えっ、え、褒められてます!? 今のって褒め言葉ですか!?」
「うるさい。皿出せ」
短く言い捨てて、葵は鍋を火にかけた。
香ばしい匂いが立ち上る。
ほんの数分前まで張り詰めていた空気が、ゆるやかに、柔らかくほどけていった。
***
食事を片付け終えたあと、葵はテーブルの上にそっと薄い封筒を置いた。
中にはCD-Rと、手書きの歌詞カードが一枚。
「……これが新曲」
彩は息をのみ、そっとディスクを取り上げる。
指先が少し震えている。
「外部に漏らしたら殺す」
短く、無表情に告げられたその言葉に、彩の目が大きくなる。
「ひぃっ! 漏らしませんよ!! 約束します、絶対に! 葵くんの声、そのまま大事にしますから!」
必死の平静を装って両手を胸に当てる彩に、葵は淡く眉を上げるだけだった。
だが、その瞳には──ほんの一瞬だけ、柔らかさが宿った。
「クレジットと請求は忘れるな。あと、映像は音を邪魔するな」
簡潔な要求が続く。
彩は即座に頷き、メモ帳を取り出して箇条書きで書き留めた。
「了解です! クレジット、きちんと入れます。使用料も請求しますし、音を邪魔しないのは私の得意分野ですから!」
彩の声は弾んで、再生ボタンを押したくて仕方がない様子だった。その衝動を抑えつつ、彼女はディスクを大事そうに胸に抱えた。
「で、いつ渡す?」
「私、今日から作業入ります! 納期は葵くんの都合に合わせます。音源は……これ、預かって、作業コピー作ってもいいですか?」
「コピーするなら、作業用だけ。原盤はここに置いとけ」
「わかりました!」
彩の真剣な眼差しに、葵は小さく鼻を鳴らした。
「……言葉で感謝はいらん。結果で返せ」
「はい! 結果で返します!!」
彩は封筒を抱えてはしゃぐように立ち上がると、慌てて自分の鞄を探り、スマホを取り出した。
「進捗は逐一報告します。あ、それと完成前に一回だけプレビュー見てほしいです! 演出のニュアンスとか、微調整したいので!」
葵はつい口元を緩めそうになるのを必死で押さえ、短く頷いた。
「一回なら見る」
「やった! じゃあ今日から作業開始します! 失礼します!」
弾む足取りで彩はリビングを出ていく。
玄関のドアが閉まると、部屋に静けさが戻った。
葵はゆっくりと電子ピアノの前に座り、封筒のあった場所を一瞥する。
鍵盤に触れると指先から柔らかな音がこぼれた。
窓の外、冬の空が淡く明るくなっていく。
音はまだ小さかったけれど、その一音一音が確かに前へ向かう合図のように感じられた。




