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第37話 音の帰る場所

 ――数ヶ月後。


 カタカタと、キーボードの打鍵音が病室に響く。

 首の包帯はもう外され、ベッド脇には片付けられた荷物が並んでいた。

 リハビリの日々は終わり、今日が退院の朝だ。


 コンコン、と扉をノックする音がした。

 葵は手を止め、ノートパソコンを閉じる。


「入るぞ」


 低い声とともに入ってきたのは、雁木だった。

 指で車の鍵をくるくると回しながら、片手に小さな荷物を提げている。

 いつもの無骨な雰囲気のまま、無言で葵を見やった。


 葵はリュックにパソコンをしまい込み、ゆっくりと立ち上がる。


「まだ入院しててもバチは当たらねぇぞ」


 雁木の軽口に、葵は何も言わない。

 ただ一瞬だけ横目を向け、そのまま病室を出ていった。


 閉じかけた扉の向こうで、雁木がふっと息を吐く。


「……ったく、相変わらずだな」


 エアコンの風が、静まり返った病室のカーテンを揺らした。


***


 外の景色は、すっかり冬に変わっていた。

 雪化粧の街を、白い息を吐く人々が行き交う。

 通りにはクリスマス前のイルミネーションが輝き、灯影市はいつにも増して賑わっている。


 完全に浮かれた街だ。

 ネオンと音楽と笑い声が、冷えた空気の中を踊っていた。


「クリスマスねぇ。大人になった俺らにとっちゃ、酒飲んでケーキ食って寝るだけだってのに、みんな浮ついてんな」


 車を走らせながら、雁木は皮肉まじりに笑う。

 助手席の葵は窓の外を眺めていた。


「表現できる舞台があるなら、集まって当然」


「ほう。流石、歌うやつは言うこと違うな」


「黙れ」


 葵は短く言い捨て、ラジオのスイッチを押す。


『皆さん、クリスマスの準備は万端ですか? 灯影東スーパーでは、二十四日・二十五日、イベント盛り沢山! 小学生以下のみんなはサンタブーツでお菓子の詰め合わせも出来ますよ!』


 湊の明るい声が、ラジオから弾けた。


「……湊の声は、やっぱり耳障り。なのに、心地いい」


 ぽつりと呟いた葵は、ラジオを止め、車載のテレビをつける。


 画面の中では、奏真がトーク番組に出演していた。

 ゲスト席の中心で笑いながら、周囲を盛り上げている。


『クリスマスは仕事ですか? ま、俺もなんですけどね! でも、仕事終わった後にサンタ待ちながらワイワイするんで! こういうとき、シェアハウスにいてよかったって思えるんですよね〜!』


 会場に笑い声が広がり、観客席から黄色い声援が飛ぶ。


「……どこにいてもうるさい」


 葵はぼそりと呟き、すぐにテレビを消した。

 再び車内に静寂が戻る。


「お前ら、パーティーでもすんのか」


「……しない。あいつらがはしゃいで巻き込んでくるだけ」


 窓の外では、街の明かりが車体に反射して流れていく。

 葵の横顔に、その光が一瞬だけ映り、すぐに闇に溶けた。


「……で、お前はどうすんだ。パーティーに巻き込まれて終わるだけか」


 雁木の言葉に葵は目を伏せた。


「……歌う。クリスマスのイベントのプログラムのひとつに入った」


 唐突に落とされたその言葉に、雁木がハンドルを切る手を止めた。

 信号の赤が、車内をわずかに照らす。


「……ほう」


 短い相槌。

 それ以上、何も聞かない。

 けれど、葵の横顔をちらと見たその視線に、確かな理解が滲んでいた。


「一分だけだ。それ以上は歌えない」


 葵の声は低く、静かだった。

 それは自己制限ではなく、覚悟の宣言に近い。


 雁木はゆっくりと息を吐き、フロントガラス越しに雪混じりの街を見やった。

 遠くで光るイルミネーションが、まるで拍手のように瞬いている。


「……上等だ。それで十分だろ」


 葵は何も言わず、窓の外に視線を戻した。

 通り過ぎる人々の笑い声。

 どこからか流れるキャロル。


 世界は騒がしい。

 それでも、その中心で彼だけが、静かに“歌う準備”をしていた。


***


 改装されたアオノネの前に車を停め、雁木が軽くクラクションを鳴らす。

 荷物を肩にかけて外に出た葵を、玄関先で待っていたのは涼太だった。


「葵! ほんま、退院できたんやな!」


 声に嬉しさが滲んでいる。

 白い息が夜気に溶け、街灯の下で笑顔が明るく浮かんだ。


「これが病院抜け出したように見えるか」


 葵は淡々と返す。

 それでも、声のトーンはどこか柔らかかった。


 相変わらずの口調にも気に留めず、涼太は自然な所作で葵の荷物を持ち上げる。


「ま、寒いし中入りや。喉、冷えるで」


「お前の家じゃない」


 素っ気なく言いながらも、葵は靴を脱ぎ、玄関に足を踏み入れる。

 暖房の匂いと、どこか懐かしい空気が迎えてくれた。


 帰ってきた。

 その事実が、葵の胸に静かに落ちた。


 雁木が外で煙草に火をつける気配がして、扉の向こうに白い煙が流れていく。

 葵はリュックを下ろし、短く呟いた。


「……思ったより、悪くない」


 その小さな言葉に、涼太は笑みをこぼした。


「せやろ。お前の居場所やからな」


 居場所――その言葉に、胸がズキンと痛んだ。

 異能の暴走で、この家を壊したのは自分だ。

 割れた窓も、吹き飛んだ玄関も、すべて自分の声が引き起こした。


 それでも、今、ドアをくぐった瞬間――

 暖かな空気が頬を撫で、「おかえり」と囁かれた気がした。


 誰も責めない。

 何も問わない。

 ただそこに在るだけの“居場所”が、確かにここにあった。


 葵は小さく息を吐き、視線を落とした。

 心の奥で、まだ小さく疼く痛みを抱えたまま。


「ただいま」


***


 部屋に戻った葵は、電子ピアノをケースから取り出し、静かにリビングへ運んだ。

 その姿を、涼太は何も言わずに見ている。

 葵はコンセントを差し込み、椅子に腰を下ろすと、鍵盤に指を添えた。


 歌わない。

 けれど、音を出すことは出来る。


 ぽろん、と柔らかな音が空気を震わせた。

 優しい旋律が次第に広がり、冷えたリビングをゆっくりと満たしていく。

 その音には痛みも怒りもなく、ただ穏やかな息づかいだけがあった。


 鍵盤を見つめる葵の目も、どこか和らいでいた。

 まるで、この家全体を撫でるように、指先が音を紡ぐ。


 ――ガチャリ。


 玄関の扉が開いた。


「たっだいまー! 葵くん、帰ってき――」


 明るい声を上げた奏真が、途中で言葉を失う。

 続いて入ってきた湊も、リビングに流れる音に足を止めた。


 葵の指が奏でる旋律は、静かに、しかし確かに彼らを迎えていた。

 いつもなら少しの物音でやめる葵が、今日は止まらない。

 指先から伝わる感情はただひとつ――


 触れていたい。音と、ここにいる人たちと。


 その想いが、音に溶けていく。

 息を潜めた三人の中で、葵だけが世界とつながっていた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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