第36話 音なき反撃
「お疲れさまでした!」
撮影が終わり、スタッフに頭を下げる奏真は笑顔だった。
前はスタッフ達も明るく笑っていたが、今は仕事以外は付き合わないようによそよそしかった。
その様子に奏真は苦笑いを浮かべて現場を出る。
去る直前、声が聞こえた。
「奏真くん、雑誌記者に暴力振るったって……」
「そういうの、一番遠い人だと思ったのにね」
一瞬、足を止めた。
悔しさで奥歯を噛み締め、平然を装った。
スタジオのドアを押し開けると、夏の夕陽が差し込んだ。
眩しさに目を細め、ゆっくりと深呼吸をする。
熱気と喧騒の中で、誰も彼に声をかけようとしない。
スマホの画面には、未読の通知がいくつも並んでいる。
ニュースサイトの見出し。SNSのトレンド。
《俳優・音瀬奏真、記者への暴力疑惑》
実際には違うが、あれを暴力と言われたら反論出来ない。
葵の根も葉もない噂を嬉々と話す記者の胸ぐらを掴んだのは事実だからだ。
「あれ……?」
今見たばかりの記事が消えている。
SNSも奏真を誹謗中傷するアカウント全てが凍結されていた。
「一体誰が……」
スマホを見て呆然とする奏真の肩を芹沢がトンと叩く。
「……奏真。お前、ちゃんと守られてるよ」
「え?」
芹沢がスマホを見せると、そこには病院のベッドにも関わらず三台のノートパソコンを操る葵の映像があった。
「……え? は!? 葵くん、退院してないよね?」
奏真が思わ素っ頓狂な声を上げる。
画面の中では、葵が淡々とキーボードを叩き、複数の画面を同時に開いては、リンクをひとつずつ潰していく。
タグ管理、拡散経路の遮断、凍結申請。
すべての動作が、まるで訓練されたエンジニアのように正確だった。
「……喉潰しても、指は元気なんだな」
呆れ混じりに呟くと、芹沢が吹き出す。
「ま、あの一ノ瀬葵だからな。喋れなくても暴れる方法はいくらでもある。ただでは転ばないさ」
奏真はスマホの画面を見ながら頭を抱えた。
投稿の一つが更新される。
《該当人物を誹謗中傷する全ての投稿者に対し、法的対応を取らせて頂きます。
一ノ瀬葵 》
「……病室から法的対応宣言って、どんな怪物だよ」
「お前の暴力疑惑も、五分後には消えるな。もう“葵フィルター”が働いてる」
芹沢の言葉に、奏真は深くため息を吐いた。
「……ほんと、あの人にだけは敵わねぇ」
スマホの画面にもう一度目を落とすと、
そこには葵のメモ書き画像がアップされていた。
《俺の仲間を傷つけるな》
淡々とした文字なのに、圧がある。
その投稿の拡散数は、みるみるうちに跳ね上がっていた。
「……ありがと、葵くん」
小さく呟いたその声は、画面の向こうの誰かに届くように――
夏の夜の空気に溶けていった。
***
「あっははは! さすが葵、武器を取り出してきたか!」
ことのはプロのオフィス。
昼下がりの光がブラインドを抜け、壁に淡い縞模様を作っている。
瑠璃は腹を抱えて笑い、デスクの端に肘をついた。
「姉ちゃん、笑いすぎやろ」
呆れたように涼太がため息をつく。
けれど、その声の奥には安堵の響きがあった。
モニターには、SNSのトレンドが次々と更新されていく。
数時間前まで画面を覆っていた“暴力疑惑”の文字は、もうどこにもない。
湊はその光景を呆然と見つめていた。
「え、葵? どういうこと……?」
「ああ、湊は知らないんだ。葵の武器のひとつだよ」
瑠璃は笑いを収め、椅子を回してモニターを正面に戻した。
青白い光が頬を照らし、笑顔の奥に知る者だけの色が宿る。
「昔から、あの子は自分の情報を誰にも握らせなかった。アカウント、住所、連絡網、データの流通経路――全部、独自で管理してた。攻撃されない仕組みを最初から作ってたの。だから、触れた瞬間に反撃を食らう」
「……けど、それなら前に炎上したときも動けたんじゃ?」
湊が眉をひそめる。
たしかに、あのとき葵は沈黙を貫いていた。
燃やされながら、何ひとつ反論しなかった。
瑠璃は小さく首を振る。
「ううん。動けなかったんじゃなく、動かなかったのよ」
「……どういうことですか?」
「自分が叩かれることなんて、あの子はとっくに織り込み済み。『無駄に反応すれば燃料になる』って分かってる。だから、放置して、静かに風が止むのを待つ。でも、他人が狙われたときだけは別」
瑠璃の瞳が静かに光を帯びた。
「葵ってね、自分のためには動かないけど、誰かのためなら容赦しない。今回もそう。奏真くんが巻き込まれた瞬間に、あの子の中でスイッチが入ったのよ」
涼太が苦笑を漏らす。
「せやな。あいつ、昔からそうや。自分のことは後回しでも、人の痛みにはすぐ反応する」
瑠璃はくすりと笑った。
「あの子が本気を出したら、ネットのノイズなんて一晩で消える。でも、使うのは怒りじゃなくて、正確さ。それが葵のやり方」
モニターの画面には、既に沈黙の海が広がっている。
騒ぎは止まり、代わりに謝罪と応援がタイムラインを埋めていく。
まるで、最初からそんな炎上など存在しなかったかのように。
湊は、ただ息を呑んだ。
胸の奥が、ゆっくりと温かくなる。
「……ほんと、不器用ですよね。守り方まで」
「せやけど、そういう不器用な奴ほど、芯が強いんや」
涼太の声が低く響く。
瑠璃は静かにモニターを閉じ、深く息を吐いた。
ブラインドの隙間から射す陽光が、彼女の頬を照らす。
「さあ、次はこっちの番。葵を迎える準備しなきゃ」
その声には、戦う覚悟のような静けさがあった。
夏の午後の熱気が、部屋の中にゆっくりと広がっていく。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ブクマや評価をいただけると、とても励みになります。




