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第35話 声のない約束

 面会時間の午後。

 湊は紙袋を片手に病室をノックした。


「……葵、入るぞ」


 葵は窓際のベッドでノートを開き、何かを書いていた。

 顔色はまだ白いが、以前よりずっと落ち着いている。


 湊は、紙袋をテーブルに置いた。

 底のあたりがうっすら濡れていて、白い紙がしんなりと沈んでいる。


「冷たいの、持ってきた。結露でちょっとびちゃってるけど」


 タオルに包んだペットボトルを取り出す。

 冷気とともに、淡い水滴が葵の指先に触れた。

 夏の湿気が、ふたりの間にこもる。


 葵は視線を一瞬だけ湊に遣り、無言でペットボトルを受け取る。


「で、これ。番組のプロデューサーに頼まれた」


 湊は小さなUSBメモリを取り出した。

 ノートPCに挿すと、黒背景に文字が浮かぶ。


 《Song by Aoi Ichinose》


 再生ボタンを押す。

 映像が始まると、葵の歌声に合わせて淡いイラストが流れた。

 派手な演出も、加工もない。

 ただ、葵の声の抑揚に寄り添うように、静かな色だけが動いていく。


 葵の瞳が、ほんのわずかに揺れた。

 光の反射が包帯の白に映り込み、呼吸が浅くなる。


「……MVっていうか、個人制作の映像だ。プロデューサーの姪が作ったらしい」


 湊が説明を終えると、葵はメモ帳に一行だけ書いた。


『許可出してない』


「だろうな」


 湊は苦笑しながら肩をすくめる。


「でも、見てたな。最後まで」


 葵は何も返さない。

 けれど、ペンのキャップを閉じる仕草が、ほんの少しだけ柔らかかった。


 ベッド脇のサイドテーブルを開け、葵は無言で一枚のクリアファイルを取り出した。

 中には数枚の契約書が挟まっている。


 それを湊の胸元に押し付けるように渡し、ペンでメモを走らせる。


『瑠璃に渡せ。所属だけはしてやる』


「……は?」


 湊は目を瞬かせ、慌ててファイルを開く。

 書類の表紙には、《ことのはプロダクション 専属契約書》の文字。


「えっ……これ、マジで? 葵が、事務所所属!?」


 思わず声が裏返る。

 病室の空気が静まり返るなか、葵はわずかに眉を動かしただけだった。


「……いやいやいや。あの葵が、誰かの所で? は!?」


 湊は半ば叫ぶように言うが、葵はメモ帳を再び開き、さらりと一行。


『過去にも事務所所属はしたことある。俺を何だと思ってる。殺すぞ』


「ひぇ……」


 素で出た湊の声に葵は睨んだ。

 そして、再びペンを走らせる。


『社会的に守ってくれるように利用するだけ』


 それを見て、湊は脱力したように椅子へ腰を下ろす。


「相変わらず言い方ひでぇな……。でも、まあ……それが葵だわ」


 葵は顔を上げないまま、喉に触れ、かすかに息を吐いた。


 湊は呆然とファイルを見つめたまま、頭をかく。


「……これから葵と同じ事務所か」


 苦笑いしながらも、目の奥にはどこか嬉しさが滲む。

 けれど、それを口にすれば絶対に睨まれると分かっていた。


 案の定、葵は小さくため息を吐き、メモ帳にペンを走らせる。


『うるさい。騒ぐな』


「はいはい……分かったよ。葵先生」


 湊は肩をすくめ、ファイルを大事そうに抱え込む。


「……でも、ありがとな。なんか、ちょっとホッとした」


 葵は返事をしない。

 ただ、少しだけ視線を外に向ける。

 窓の向こうでは、夏の日差しがじりじりとアスファルトを焼いていた。


***


 ことのはプロのオフィス。

 湊が契約書を持って駆け込むと、デスクにいた瑠璃が顔を上げた。


「瑠璃さん!」

「どうしたの、湊くん。そんな息切らして」

「葵が……サインした! っていうか、所属だけって言ってましたけど!」


 息を整えながら差し出した契約書に、瑠璃は目を通し、小さく笑った。


「ふふ。そう、葵らしい。“だけ”って言い方」


 ペンを取って自分の欄に署名を入れる。

 その横顔には、張り詰めていた糸がようやく緩んだような安堵が浮かんでいた。


「……ありがとう、湊くん。これで、葵の居場所が一つ守れた」

「はい。でも……あいつ、まだ歌うまではいかないです。喉、思ったより重いみたいで」

「分かってる。焦らせない。あの子は、自分でちゃんと立ち上がるわ」


 瑠璃は窓の外を見上げる。

 真夏の光がガラスに反射して、部屋の中を淡く照らしていた。


「その日が来たら、私たちが全部支える。彼の“一分”を、もう二度と壊させない」


 湊は黙って頷く。

 ファイルを抱えた腕の中で、紙の端がわずかに震えていた。


***


 その頃。

 病室のベッドで、葵は静かにノートにペンを走らせていた。


 ノートには五線譜を弾いた線に譜を丁寧に書き連ねる。

 普段と変わらない様子で、ノートパソコンに繋いだイヤホンを耳につけて、一音一音、確かめるように大切に譜面を埋めていく。


 喉の痛みも、世間のざわめきも、今は遠くにある。

 けれど、どこかで小さく、前へ進む音が聞こえた気がした。

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