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第13話 居場所

 スタジオ帰りの湊と、病院帰りの葵が、ちょうど商店街で顔を合わせた。


「あっ……」


 声を出したのは湊の方だった。

 葵は相変わらず静かな様子で、湊をただ見据えている。


「俺、仕事帰り。葵は?」

「別に。関係ない」


 素っ気ない返事。

 けれど、その声音にはいつもと違う硬さがあった。

 必要以上に話さないのは葵らしい。

 だが今回は――「話す必要がない」ではなく、「話したくない」という拒絶の匂いが滲んでいた。


「買い物行く。お前も来い」


 そう言って、返事を待たずに足を向ける葵。


「は? いや、せめて返事聞いてから動けよ!」


 慌てて湊は葵の背を追いかける。

 賑やかな商店街のざわめきに、二人のやり取りが自然と溶け込んでいった。


 ――なんてことのない日常。

 けれど、その一歩一歩が湊にとっては、戻ってきてほしかった生活の証に思えた。


***


 スーパーの自動ドアを抜けると、蛍光灯の明るさと人々のざわめきに混じって、軽快なアナウンスが流れてきた。


『――ただいま夕方のタイムサービスを開催しております! 午後七時まで、豚肉が大変お買い得ですよ!』


 ふいに耳に飛び込んできたその声に、湊は目を瞬かせる。


「あっ、これ……俺の声だ」


 少し照れくさそうに笑いながら呟いた。

 先日、ラジオ局のついでに収録を頼まれていた店内放送の録音だった。

 こうして日常の風景に自分の声が馴染んでいるのは、なんとも不思議な気持ちだ。


「……そうか」


 葵は足を止め、周囲を見回す。

 買い物客は誰ひとり特別な反応を示さず、その声を当たり前のように受け取っている。


「……耳障りじゃない」


 ぽつりと落とされた一言に、湊の心臓が跳ねた。


「へ? 今、なんて」

「普通に聞ける。……自然に、買い物の中に溶ける声」

「……それ、褒めてる?」

「事実を言った」


 湊は俯き、思わず笑ってしまう。


「ラジオだと耳障りなんだろ?」

「聞く環境による。……お前の声、ラジオでは残る。けど、こういう場所だと馴染む」


 塩対応のはずなのに、不思議と一番心に残る言葉だった。


「……ありがとな」


 買い物カゴに商品を入れる葵の横顔は、相変わらず無表情に見える。

 けれど、その言葉が嘘じゃないと、湊には確信できた。


***


 湊が鍋をかき混ぜると、豚肉と豆腐から甘辛い匂いが立ち上がった。

 湯気に包まれるたび、ここが自分の台所じゃないことを思い知らされる。

 それでも「手を動かしていい」と言われているだけで、少し安心する。


 横では葵が、淡々と漬物を切っていた。

 リズムよく包丁を動かしながらも、視線は一度も湊に向かない。

 拒絶ではなく、許容。だが、それ以上でもない。

 その距離感が、逆に「追い出されていない」証明に思えて、湊は胸の奥で小さく息をついた。


「ただいまー!」


 玄関から声が響き、奏真が勢いよく戻ってきた。

 袋を下げてキッチンに顔を出し、ぱっと表情を輝かせる。


「うわっ、めっちゃいい匂い! すき焼き……じゃない。肉豆腐だ!」

「……豚肉が安かっただけ」

「葵が選んだ」

「いや、作ってんのは湊じゃん。すげーな!」


 その言葉に、湊の手が一瞬止まる。

 褒められることに慣れていない。けれど、心の奥底で確かに嬉しかった。


 奏真はにやけながら袋を掲げた。


「デザートにプリン買ってきた。三人で分けよ!」

「子どもか」

「でも、甘いのは嫌いじゃない」


 気づけば自然に笑いがこぼれていた。

 ほんの少し前まで絶望の淵に立っていた自分が、今こうして誰かと笑っている。

 その事実に、胸の奥が熱くなる。


 葵は相変わらず表情を崩さず、ただ漬物を器に移す。

 けれど、その横顔は「追い出さない」と告げているように見えた。


 ――居場所がある。

 それだけで、声を失いかけた心がわずかに満たされていく。


「湊」


 葵が短く名前だけを呼ぶ。

 顔も向けず、ただ静かに。


「明日、因課行く。お前の異能登録とか、担当の話とか」

「あ……うん。葵も?」

「本当は奏真に付き添いさせたいけど、頼まれたのは俺」


 心底面倒くさそうに溜息を吐いて、葵は自分の茶碗に米をよそう。


「明日、昼前に行くから。仕事ないだろ」

「ああ、うん。明日はオフ。何で知ってんの?」


 問い返した湊を一瞥し、葵は平然と答える。


「曜日。お前の声聞かないの、木曜日」


 その瞬間、奏真が麦茶を吹きかけそうになって、慌てて口を押さえた。


「ぷっ……ははっ! 何それ、葵くんめっちゃリスナーじゃん!」

「確認してるだけ」

「いやいや、言い訳苦しいって! 俺だって毎週聴いてるけどさ、葵くんも好きなんだ、湊のラジオ」

「違う。習慣だ」


 湊は一瞬呆気に取られ、次に肩を揺らして笑い出した。

 耳障りだの煩いだの言いながら、結局は欠かさずラジオを聴いている――その事実が可笑しくて、そして妙に心強い。


「……ありがとな、二人とも」

「俺は普通に楽しんでるだけ!」

「俺は習慣」


 素っ気ない葵と、楽しげな奏真。

 対照的なのに、不思議と噛み合っていて――湊の胸の奥には、確かにあたたかな安堵が広がっていった。


***


 異能管理課・灯影市支部。

 昼下がりのロビーは、役所らしいざわつきに包まれていた。

 窓口に並ぶ異能者や職員たちの声が交錯する中、湊は場違いなほど落ち着かない様子できょろきょろと周囲を見回していた。


「なあ葵……ほんとにここで合ってんのか? 雰囲気、普通の役所なんだけど」

「合ってる」


 素っ気なく答える葵の背中を追いながら、湊は不安そうに眉を寄せる。

 そのとき――


 ぐい、と首根っこを掴まれた。


「おい」


 低く落ちた声。

 振り返れば、黒スーツに乱れたネクタイ姿の男――雁木が立っていた。


「此処で待てって言ったろ。勝手に動くな」


 抑えられた声量なのに、背筋を撫でるような鋭さがある。

 葵は眉ひとつ動かさず、淡々と返した。


「登録窓口に行こうとしただけ」

「案内を待て。お前が勝手に歩くだけで注目が集まる」

「知らん」


 互いの視線がわずかに交錯する。

 声を荒らすわけではないのに、火花を散らすような緊張が流れる。


「……相変わらず噛みつくな」

「お前も」


 雁木がわずかに手を離すと、葵は何事もなかったかのように歩き出した。

 湊は慌ててその背を追い、気まずそうに雁木へ会釈をする。


 ――そこへ、柔らかな声が割って入った。


「登録ならこちらでお受けします。飯塚湊くんですね」


 振り返った瞬間、湊の目が大きく見開かれる。

 整った微笑みと、柔らかく落ち着いた声。

 雁木と葵の鋭い空気を一瞬で中和するような存在感。


「……あんた」


 声が震える。

 思い出すのは、あの朝。

 崩れ落ちていた自分に、唯一「大丈夫?」と寄り添ってくれた、あの時の姿。

 ただ一言で救われたのを、湊は忘れていなかった。


「あの時……俺に声をかけてくれた……」


 夕陽は驚いたように目を細め、すぐに頷いた。


「うん、覚えてるよ。……ゆっくり話そう。葵くんも、雁木さんも一緒に」


 柔らかな所作で、応接室へと案内する。

 その背中に従うと、不思議なほど胸のざわめきが和らいでいくのを湊は感じていた。


***


 応接室に通されると、柔らかな照明と落ち着いた内装に、ロビーの喧騒は嘘のように遠のいた。

 湊は緊張で背筋を伸ばし、所在なげに膝の上で手を握りしめる。


「改めて。異能管理課・登録管理担当、朝比奈夕陽。固くならずにお菓子食べながら聞いてね」


 テーブルには、チョコレートや飴、煎餅などを詰め込んだバスケットと、缶コーヒーやジュースが並んでいた。


 ――因課のマニュアルにはこう書かれている。

 “緊張をほぐすのが体にも心にも優しい。事務処理や打ち合わせをやるなら尚更リラックスさせること。必ず三種類以上の菓子と飲み物を出すこと。常に精神をリラックスさせること。”


「ったく、ホワイトすぎるのも困ったもんだぜ」


 雁木が煙草を取り出そうとした瞬間、葵が鋭く睨む。


「吸うな」

「……へいへい」


 湊は恐る恐るバスケットから包みをひとつ取り、チョコを口に含んだ。

 ほのかな甘さが舌に広がる。強張っていた肩が、ほんの少しだけ緩んだ。


「ね、ちょっと落ち着くでしょ?」


 夕陽の声は、穏やかで寄り添うようなものだった。

 だが一方で、雁木は椅子にふんぞり返り、険しい目を湊に投げ続けている。


「……お前が横にいると、リラックスの意味がなくなる」

「職務だ」

「朝比奈を見習え」


 葵の淡々とした切り返しに、湊は思わず苦笑を漏らした。

 しかしその笑みもすぐに消える。夕陽へ向けられた視線が、不安を押し出すように揺れたからだ。


「……俺、ほんとに登録……しなきゃいけないんですか」


 湊の問いに、夕陽は真剣な眼差しで頷いた。


「うん、義務だから。でもね、これは縛られるんじゃなくて“守られる”ってことでもあるんだ。暴走の記録があるなら、余計にね」


 雁木が低く付け加える。


「守られるかどうかは、こっちの匙加減だがな」


 その言葉に再び湊の肩が強張った瞬間、葵の冷たい声が割って入る。


「脅すな」

「脅してねえよ」

「態度がチンピラ」


 静かに鋭く放たれた一言に、雁木が目を細める。

 夕陽はそんな二人を見て、くすりと小さく笑った。


「ね、味方もいるから大丈夫。というかーー」


 次の瞬間、夕陽は湊の手をがしっと握り、瞳を輝かせた。


「やっぱり湊くんの声、最高だね!! 体に吸い込まれる感じの声! 推しと話が出来るって、世界一の幸せものが此処にいます!!」

「は……?」


 急にボルテージが跳ね上がった夕陽に、湊は目を瞬かせて固まった。

 応接室の空気が、一瞬で妙な方向に転がっていった。


「あ、驚かせてごめんね。俺、湊くんのラジオ大好きでさ! あの大きいスーパーの店内放送も食欲沸くし、こないだコンビニの――」


 目を輝かせ、勢いよくまくし立てる夕陽。

 そのテンションに湊は完全に固まっていた。


「……朝比奈」


 低く落ちた雁木の声が、応接室の空気を一変させる。

 ほんの一言なのに、場の温度が数度下がったようだった。


「こ、こほん。えっと……」


 夕陽は慌てて姿勢を正し、咳払いで気を取り直す。

 一瞬の沈黙が訪れたあと、彼は柔らかな笑みを浮かべ直した。


「そういうわけで……ファンです」


 茶目っ気を含んだ小声で本音をこぼし、そして真剣な声音に切り替える。


「飯塚湊くん。異能名《声律》。本日から担当する朝比奈夕陽です。……よろしく」


 その表情は、陽の光を浴びたように穏やかで優しかった。

 湊は息をのんでから、ぎこちなくも頭を下げる。


「よ、よろしく」


 声は震えていたが、その響きには確かに芯があった。


 テーブルの上に広げられた書類。

 夕陽はペンを指に挟み、優しい笑みを浮かべたまま説明を始めた。


「まずは基本的なことから。飯塚湊くん、年齢は?」

「……二十四」

「異能の覚醒は、いつ、どんな状況で?」

「……クラブで。襲われて……気が付いたら、声で爆発が起きてた」


 湊の肩が小さく震える。

 思い出すだけで胸が締め付けられる。

 男達の嘲笑、体が動かなくて、喉を潰されそうになって……それでーー


 すかさず夕陽は柔らかい声で続けた。


「ありがとう。つらい話を言葉にするのって、それだけで大変だよね」

「……」


 湊は黙ったまま頷いた。


「能力の性質については確認済み。《声律》……喋る、叫ぶなど発声トーンによって効果が変化。範囲型の攻撃、支配の異能。現状は暴走が確認されている。制御できる範囲は?」

「まだ分からない。叫ぶと全部……壊れる」

「つまり今は“任意で止めることは難しい”と」

「……はい」


 夕陽は書類にさらさらと記入し、顔を上げて微笑んだ。


「大丈夫。制御訓練はこっちで用意するから。君ひとりで背負う必要はないよ」


 その言葉に、湊の瞳がわずかに揺れた。

 押し殺していた呼吸が、少しだけ緩む。


 だが隣の葵は、書類を睨むように見下ろして口を開いた。


「……制御訓練なんて無駄。酷使して喉が潰れたらどうする」

「葵……」


 湊が思わず葵を見やる。

 夕陽は葵を真っ直ぐ見つめ、静かに言葉を返した。


「無理はさせない。でも、声を守るためにも必要な最低限の制御は教えるよ。暴走すれば、湊くん自身が一番傷つくから」


 葵はしばし黙り込み、やがて目を細める。


「……そうか」


 短い返答。

 納得したようにも、まだ釈然としないようにも聞こえた。


 湊は不安そうに二人を交互に見つめる。

 その視線に気づいた夕陽は、柔らかい微笑みで間を繋いだ。


「大丈夫。俺がついてる。訓練は君の声を奪うためじゃなく、守るためにあるんだ」


 そう言い切ってから、夕陽は手元の端末を操作し、小さなカードサイズのものを取り出した。


「――これが、登録証」


 テーブルに置かれたのは、まだ真新しいカード。

 光沢のある表面に「飯塚湊」の名と、異能名《声律》が刻まれている。


 湊は一瞬、指先を伸ばすのをためらった。

 触れれば、自分が異能者として生きていくことを認めることになる。


 だけど――


「……俺の、居場所」


 小さく呟いて、震える手でカードを取った。

 冷たいはずのそれは、不思議と温もりを帯びているように感じられた。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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