第8章「走れ」
追いつかれたら、終わり。
立ち止まれば、喰われる。
逃げるしかない時もある――
生きるために。
ジョンが気を失った直後、サミは彼を丁寧に抱きかかえ、まるでただ木陰で眠っているだけのように木にもたれさせた。
だがその時――森の奥から響いた音が、首筋の毛を逆立たせた。
サミは真剣な表情で再び杖を手に取り、焼いた肉とウサギの残骸を魔法のバッグにしまい、チップを見た。
「大丈夫か? まだ動けるか?」
怯えたチップは、ようやく終わったと思っていた……。
だが近づく不気味な音からして、まだ終わっていないのは明らかだった。
それでも、ニナが自分を見ているのを感じ、そしてサミの強さを信じて――必死に強がった。
「ア、アハハ……今、ちょうどエンジンが温まってきたとこ!」
だがその体は明らかに限界で、脚は震え、思うように動かない。
森の奥から響く音はさらに大きくなった。
一体ではない……複数だ。
重い足音、押し殺された唸り声、幾重にも重なる咆哮。まるで悪夢のような残響。
サミは深く息を吸い込み、叫んだ。
「――走れ!」
杖をジョンの服に通し、まるで洗濯物を運ぶように肩に担いだ。
表情を変えぬまま、ニナもすぐに後を追って走り出した。
チップは一瞬立ち尽くし、目を丸くした。
(な、なんだって……? サミが、逃げてる……?)
疲労困憊のまま、どうにか走り出すが、足が思うように動かない。
その時、サミが低い声でつぶやいた。
「その短い足じゃ……手伝いが必要か?」
チップは顔を真っ赤にし、鼻息を荒げて叫んだ。
「だ、誰がチビだってのよっ!」
怒りで覚醒したのか、信じられないスピードでサミを追い越して走り出す。
サミは口元を緩めて笑った。
「ほぉ……やればできるじゃないか。」
走りながら、チップは後ろを振り返り叫んだ。
「ちょ、ちょっと! 本当に追ってきてるの!? 何も見えないけど!」
「……だが、すぐに現れる。」
サミが答えた、その瞬間。
森の左右から、あのフリンクにそっくりな丸い影が次々と飛び出してきた。
数は……二十体。いや、それ以上。
地面が揺れ、道が尽きかけている。
「右へ曲がれ!」サミが叫ぶ。
「前にはデカい川があるぞ!? 道なんてもう――」
「それでも行くしかない。」
道を曲がると、濃い霧の向こうに激流が見えた。断崖絶壁、落ちれば終わりだ。
「こ、これで終わりかああああっ!!」チップは絶望の叫びを上げた。
しかしサミはすでに行動していた。
ジョンを縛ったまま杖に通し、全力で投げた。
杖は回転しながら空を飛び、対岸の木に突き刺さった。ジョンはそのままぶら下がる。
「な、なにぃぃぃ?!」チップは目を見開いた。
次の瞬間、サミはニナを背負い、大きな木の枝に飛び乗った。
足にオーラを集中させ、枝をしならせ――
「行くぞ!」
バンッ!
枝が弾けるように跳ね、二人を霧の向こうへと打ち出した。
チップは崖の前に取り残されたまま、唖然とする。
「え、えええっ!? オ、オレは!? どうすりゃいいのっ!?」
左右を見渡すと、森の影からフリンクたちの目が光っていた。
……その時気づいた。
自分の腰に、サミがこっそり結んでいた魔法のロープが。
――ドンッ!!!
「うわああああああああああああっ!!」
ロープに引っ張られ、チップはマスコットのように宙を舞った。
手足をバタつかせ、絶叫しながら、空中で回転していく――
「だれか止めてぇぇぇ!!」
霧の向こうに消えていく彼の後には、光の軌跡と絶望の叫びだけが残された。
チップは川の向こう岸に着地すると、膝から崩れ落ちた。
「うぅぅ……うぷっ……もうダメ……」
容赦なく吐き出し、全身を震わせながら赤ん坊の羊のようにガクガクと足を震わせていた。目はぐるぐる回っている。その間に、サミは木に突き刺さった杖のもとへ向かっていた。
「これで…一旦は安全だな。」
そう呟きながら、杖に括りつけられていたジョンを引き抜き、彼の背を木に預けるようにして座らせた。そして、手早く焚き火の準備に取り掛かる。
ボロボロのチップは、ふらふらと焚き火のそばまで這って行った。
「強いのは分かってるけど……でも、なんで逃げたんだよ?」
サミは焚き火の火を見つめながら答えた。
「……それが、戦略だよ。
俺なら何体かは倒せただろう。だが、その分、音が出る。音はさらに強い捕食者を呼ぶ。
仮に全部倒しても、スタミナが切れれば終わりだ。
引き際を知るのも、力のうち。
無駄死にするヒーローなんて……ただのバカだ。」
チップは黙り込んだ。そして小声で呟いた。
「……じゃあ、俺って、いつもヒーローだったんだな。」
サミはチラッと横目でチップを見た。冗談か本気か分からず――つい、吹き出した。
「ぷっ……ハハハ……小さな英雄様だな。」
「はああああ!?じゃあオレはもう寝る!食って寝て回復してやるからな!!」
真っ赤な顔でプンプンしながら、魔法の毛布に包まって草の上に転がった。
その後、ニナがジョンのそばに静かに近づき、そっと膝をついて彼の容態を確認した。そして立ち上がると、冷静に告げる。
「彼は極度の疲労状態です。肉体の限界を超えたことで意識を失ったようです。」
「うーん……たしかにな。」
サミは頷きながら答えた。
「オーラとマナを同時に使った。理論上は不可能なはずだ。でも、奴はやってのけた。
その代償だろうな。しっかり休めば……多分、戻ると思う。」
そしてサミは二人に向き直った。
「今日は俺が見張る。お前らは休め。」
その夜は静かだった。魔獣も、奇襲も、何も起こらなかった。
夜が明け、皆が目覚めた――ジョン以外は。
サミは遠慮なくジョンを再び杖に括りつけ、まるで古びた荷物のように肩に担いだ。
「よし、街へ行くぞ。」
その光景を見ていたチップは数秒黙り込んでから、吹き出した。
「な、なんだよその姿!ただのボロ布じゃねーか、アハハハ!」
ニナも、無表情ながらも、ジョンが杖に揺られている様子を見つめていた。だが、その目にはどこか不思議な光が宿っていた。まるで、心の中では微笑んでいるかのように。
「ボロッボロだな〜」と、チップは再び笑った。
――その時。
ジョンの目が、ゆっくりと開いた。
まだ杖に括りつけられたまま、彼はチップを睨みつける。
「な、なんだって!?生きてたのかよ!?」
チップが驚いた声を上げると、すぐにサミが気付き、間髪入れずに杖を解いた。
「お、ついにお目覚めか、眠れる森の美女さんよ。」
ボフッ!
ジョンは見事に顔面から地面に落ちた。
「街はもうすぐだ。」サミが静かに言った。
ジョンはふらつきながら立ち上がった。
「な、何があったんだ……?」
その問いに対し、チップは嬉々として語り始めた。ジョンが倒れてからの出来事――フリンクの群れ、逃走、ジャンプ、そしてあの“羊ロケット”ばりの空中飛行まで――すべてを。
話を聞き終えたジョンは、顔を真っ赤にして叫んだ。
「は、早く行こう!街へ!」
恥ずかしさを隠すように先を歩き出したが――
その数歩後、丘の上に辿り着いた彼らは、ついに街を目にした。
中心には、黒い巨大なオベリスクが聳え立ち、石造りの家々、入り組んだ道、旗を掲げた塔が並んでいた。朝日がそれらを黄金色に照らし出す。
ジョンはその光景に見とれ、足を止めた。
「……ファンタジーの物語って、こういう感じなんだな……」
自然と口元に笑みがこぼれる。
「……いいな。」
そう呟きながら、ジョンはチップ、ニナ、そしてサミと共に、街へと歩みを進めた――
チップ「はぁ〜、やっと着いた〜……あの川、もうトラウマ確定だよ……」
チップ「でもさ、あの飛び方……ちょっと可愛くなかった? ね? ニナ?」
ニナ「……記録を保存しました。」
チップ「は!? やめてやめて! 今のログに残すの!? それプライバシーの侵害だよっ!」
ジョン「『羊型ミサイル』ってタグ付けとけ。あとで見返す用にな。」
チップ「だれがミサイルだってぇぇぇぇ!?!?」
チップ「ていうか! なんでいつもボクだけこんな目に……!」
サミ「……小さいのは投げるのが基本だろ。」
チップ「またチビ言ったあああああっっっ!!!!」
* * *
(ジョンが遠くに見える町を見つめながら、静かに呟く。)
ジョン「……マルシカ、か。ついに着いたな。」