転生悪役令嬢はスポットライトを望まない
世界中のスポットライトを一心に受け止めているような、世界の真ん中で輝く女の子がいた。
季節外れの編入生は瞬く間に王立学園中の注目を集め、良い噂も悪い噂も彼女の話を聞かない日はなかった。建国の伝説にある聖女の再来かもしれない、というとんでもない噂すらまことしやかに囁かれているような、もう絶対に関わりたくないとんでもない女の子だ。前代未聞、聖魔法と闇魔法を含む全属性の魔法に適性を持ち、平民にも貴族にも分け隔てなく接して虜にする、王国では見かけない美しいピンクブロンドの髪を持つ世紀の美少女。
間違いなく、今年のこの世界の主役は彼女だった。
主役と書いて『ヒロイン』と読むのは、私にはそんな彼女に強い既視感があったためだ。
乙女ゲームか、恋愛小説か。漫画かもしれない。もしかするとファンタジーものかもしれないし、剣と魔法の物語なのかも。とにかく私は彼女が主役のフィクションの世界に『転生』したのだと、そう信じるには十分過ぎるほどにはインパクトのある登場だった。
あんなふうにすべてのスポットライトが当たるようにできている人間がいると、外からは世界はこんなにも薄暗く見えるんだな。
この国の王太子殿下や文武の双璧を担う二大公爵令息や教皇の息子、おまけに教師までもがこぞって周りを取り囲む彼女を見た時にそんな感想を抱いた私の脳裏には、『日本』で過ごした前世の記憶の断片が浮かび上がってきていた。あいにく彼女みたいな派手な女の子が登場する作品に心当たりはなかったけれど、とにかくそういう『フィクション』があったことだけは心の片隅にこびりついていた。
『日本』での家族の顔もあいまいで、自分がどう生きてどうして死んだのかも思い出せないけれど、数え切れないほど読んだそういう甘い夢に満ちた物語たちの記憶だけは鮮明だったのだ。体がすっと冷えたような心地がした。
自分の立ち位置が『当て馬』か『モブ』だと気づいてからは、どれだけ彼女の周りが賑々しくとも慌てず、騒がず、ひっそりと、とにかく息を潜めて過ごしていた。もしかするといつかよくある『物語の強制力』が私を破滅か断頭台に追いやるのかも知らないけれど、この物語の記憶を持たない私にはなんら取り得る手段がなかったし、何か対策をするにしてももう物語は私から少し離れたところで始まっているようだったので。
しかし何も気にせず過ごすには、どうにも私の立ち位置はスポットライトの眩い光に近かった。
生まれ持った身分が高かった私の婚約者は栄えある王国の騎士団長、武の公爵家の嫡男であり、かれがとても美しく格好の良い男であったのと何かとくだんの主人公と行動を共にしているようなので、かれは『メインキャラクター』もしくは『攻略対象』なんだろうとは思っていたのだ。かれは同学年に編入した彼女のその物語の中心へと瞬く間に組み込まれていった。
この世界を『フィクション』の世界だと思ってからは、あんなに毎日懸命に生きていた自分がバカらしくなったのも無理はないだろう。
彼に、ヴィンセントに少しでも気に入って欲しくて、親の決めた婚約者以上の存在になりたくて、流行りの美容を試したり最新の魔法や武具の知識を勉強したり、そんな日々の合間に初めて出来た平民の友人と街に出かけて遊んだりと忙しくも楽しかった学生生活は終わりを告げ、スポットライトの真ん中になることはない人生をひどく味気なく思うようになった。
学年の違う婚約者とは学園でも顔を合わせる機会がなくなり、あんなに入学するのが楽しみだった学園生活は一つ上の学年に巻き起こる様々な『イベント』の噂で持ちきりの、つまらない時間になった。
もう誰も私のことを『ヴィンセントさまの婚約者』として扱わない。もしかして最初からそんなことはなかったことになってたりして、と思って、お父様に聞いて確かめたくらいだ。いつのまにか婚約解除してたりしたのかしら、とまで思ったので。
お父様はそれを聞くなり苦虫を百匹まとめて噛み潰したみたいな顔をして、先方の親が握り潰していると聞く、と素直に教えてくれた。状況が状況だからな、なんて、まるで仕方ないなみたいな軽さで言って。
「こう言ってはなんだが―――。殿下すらあの娘に興味を持たれていると聞くと、なあ? ヴィンセントくんの勝ち目は薄いだろう」
そうなったら、きっと彼もお前のところに戻ってくるさ。
続く言葉で父が何を言おうとしたのかわかる気がして、私は笑って誤魔化すことしかできなかった。
確かにその通りだ。
物語はいつか終わる。
彼女は『ヒーロー』を選ぶ。それまでの辛抱なんだから、心を殺していればいい。スポットライトの外で、この嵐のような時代のうねりが過ぎ去るのを待ってさえいれば。それでいい。それだけで。あの輝かしい舞台に躍り出るような役柄でないことを、私は自分で知っている。『前』もそうだった。今もそうだ。
だって本当に、同じ人間とはとても思えない、世界中の光を寄り集めたように笑顔がすてきで一生懸命な、太陽のような女の子なんだもの。
「―――でも、だって、お嬢さま。泣いていたじゃないですか」
私の手をまるでガラス細工か何かのように恭しくそっと握ってそんなことを言う男が突然スポットライトの向きをこちらに変えるまでは、ほんとうに、そう思っていたのに。
「……お、おまえ、何を言っているの……」
「お嬢さまの男を寝取った。ちっとも学園が楽しそうじゃなくなった。なにより―――お嬢さまを泣かせて、悩ませて、暗い顔にして……」
王立学園に嵐を巻き起こした編入生、リリア嬢―――リリアンヌ・キッシンジャー男爵令嬢が死んだ。殺されたのだ。彼女は、つい昨日まで間違いなくこの世界の真ん中にいた女の子は死んだ。
「そんなの、許せるわけないじゃないですか」
その華奢な身体に大穴を開け、お城の正門を守る鐘楼の避雷針に突き刺さって死に絶えるという、訳のわからない死体となって夜明けと共に現れて、早朝の王国を阿鼻叫喚に陥れた。
緘口令を敷こうにも平民も通る王城の前で―――正確には門の上でそれが起こったというのが悪かった。青空に不釣り合いに白亜の鐘楼の壁面が赤黒く染まり、ピンクブロンドの髪と華奢な手足がだらりと垂れ下がるとんでもホラーは瞬く間に城下町の大ニュースとなった。
なにせ鐘楼の避雷針からそれを下ろすには大変な準備が必要となる。誰がどう見ても手遅れとわかるあわれな少女の屍体はしばらくそうして好奇の目線に晒されることとなった。
一体何故。誰が。どうやって。
朝からお父様のもとへ焦った様子の早馬が来て屋敷がにわかに騒がしくなりいつもより早く起き出した私の元へ飛んできた侍女から『お城で不幸があったようで』『学園もお休みになるかと』と言われても全く心当たりがなかった私は、そのまま部屋で従者が用意してくれたモーニングティーを飲みながら情報を待っていた。
恐怖に引き攣った顔で、捻じ曲がった身体で白亜の鐘楼を赤く染める少女の死体のカラー念写、しかも風に合わせてピンクブロンドの長い髪がはたはたと揺れるところまでをセンセーショナルに載せたゴシップ魔法紙を出勤途中の下働きの子や出入りの業者たちが手に入れてきて渡してくれたことで王城からの連絡を待つでもなく私たちに必要だった情報が手に入った。
うちの屋敷の勤め人たちはみんな優秀なのだ。
お嬢様の婚約を危ういものにしている女が学園中を騒がせている、というのはかれらも知っているので、ありったけを買ってきてくれたのだろう。
貴族らしいまわりくどさとしがらみのない民間の出版社のほうがよほどスクープを叩き出せるというのは皮肉な話だけれど、正式な情報はしばらく出てこなかっただろうから助かった。
もちろん本来なら私の目には入らないようにされただろうその魔法紙―――動画が見れる雑誌みたいなもの―――、数時間後には発禁処分になるだろうそれを侍女に頼んでなんとか私のところに届けさせたけれど、モザイクなんてものもなくばっちり死体が写っているそれは怖いもの見たさで私と一緒に覗き込んだ数人のメイドを卒倒させて騒ぎを起こし、すぐさま家令に取り上げられた。
仮にも同じ学園の生徒で、短いながらも会話したことがあるような相手だというのにその亡骸があまりにも凄惨すぎてただショックだけが残る。
乙女ゲームか恋愛小説か、そう思っていたのにどうやら突然ジャンルが変わったらしい世界に呆然として紅茶の味もわからなくなったところで、お父様が物々しい護衛を引き連れ慌ただしく王城に向かっていったという情報が入ってきた。まだ犯人が捕まっていないらしく、屋敷を守る手兵もいつもは王都近郊の領地に詰めている騎士団も王都の警邏へと駆り出されていった。それも当然だろうか。
だって世界の真ん中にいた女の子があんなに惨たらしく殺されたのだ。学園の階段から突き落とされるでもお茶会のお菓子に毒を仕込まれるでもなくて、あっさりと凶行は完遂された。
いったいなぜ。
彼女は主人公ではなかったのか。これはどんなバッドエンドなんだろう。それにしたってあんなひどい死に方をしなくたって、なんて私が青白い顔のまま固まっているところに、屋敷に残された僅かな手兵の筆頭―――、私の従者が言ったのが『うまくいきましたね』だったので、全身から力が抜けた。
「―――え?」
「あいつ、やっぱり頭がおかしかったですよ。会ったこともないくせにおれの名前を看破した。誰も知らない―――お嬢様だって知らない秘密を知っていた」
忠実な私の配下。この家ではなく私に仕える数人のうちのひとり。産まれたときからそばにいた、優秀な側仕え。
跪き、恭しくこの手をとって額をすり寄せた男がまるで羽虫でも払うみたいにほんのわずか眉根を寄せてそういったので、私は呆然と彼を見た。
とっさに助けを探しに視線を周りに向けたけれど、部屋にはいま二人きりだ。私のそばには彼しかいない。メイドの数人は卒倒し、他のメイドは彼女たちを連れて控え室に戻った。侍女は私の身辺警護を彼に任せて学園と連絡を取ると言った。屋敷にはわずかな手兵しか残っていないけれど、やむを得ない話だ。
だって何がどうしてそんなことになったのか誰もわかっていない。そもそも、きっと深窓の令嬢みたいに守られていただろうあの女の子を天高く聳える王城の鐘楼に突き刺す方法がない。
犯人がいるのかですら定かではないし、貴族の大きな屋敷で大人しくしている主人公でもなんでもないその他大勢の私に危機が迫る状況なんて誰も想像していない。
「ヴィンセントさまには期待していたのですが、だめですね。お嬢様を泣かせたので」
「ロディ、おまえ、何を言って」
「僭越ながら、お嬢様はおれが幸せにすることにいたしました」
「ロディ!」
理解を超えたことを滔々と話し続けるくせに主人を主人と思っていない人を食った笑顔がいつもどおりだったので、私はこれがものすごくたちが悪くて不謹慎な冗談のつもりなんじゃないかという分の悪すぎる考えにとりつかれたくらいだ。
「大丈夫ですよ。まあ顔には好みがありますけど、おれはあの男よりも強いしあの男よりお嬢様の好みをよく知ってる。あの男より偉いですし贅沢だってさせて差し上げます。毎朝摘みたての薔薇を散らしたお風呂だって用意しましょう」
立ち上がった従者が―――、私のロディが、ひょうきんでお調子者で態度がデカくてそれでもこの家の執事も認めるくらいに優秀な頼もしい従者が、驚きのあまり逃げることも出来ずにいる私のほおを一つ撫でる。
ぐっと肩を引かれて椅子の上から横抱きに抱え上げられると、あっという間に体が浮いた。薄いネグリジェにストールを羽織っただけの身体はびっくりするほど近くに自分よりも遥かにがっしりとした男の体格と他人の熱を感じて強張って、私は何も言えないままで唇を震わせることしかできないでいる。
「―――あの女と会ってから、お嬢様に何かが『混ざった』。あれが死んでも消えるわけじゃなかったみたいですね。呪いじゃないのか。……まあいいです。お嬢様はお嬢様ですしね」
「な、何、なんなの。ロディ、おまえ、いったい何を言って」
だってこんなのは知らない。まだ学園祭も体育祭も卒業パーティも終わっていない。あの子が編入してから半年しか経っていないのに。何かが始まるタイミングにしては唐突がすぎる。あまりに鮮明にあの凄惨な死体が瞼の裏に焼きついて離れない。予定調和の物語を眺めていたはずが急にまばゆいライトが目の前を白く塗り潰す。
私を見下ろすロディの目。分厚いメガネの硝子越しに、ゆるりとその切れ長の瞳が細められた。私をとても大切に想っている、というのが丸わかりの、心地の良い信頼のまなざし。
ずっと昔に私が拾ってお父様におねだりした誕生日プレゼント。
なんだかんだとお調子者のかれを頼りにしてしまうのはかれがいつもこの目で私を見つめるからだ。訳がわからないことが相次いで何もわからなくなって、いつも通りの頼もしいはずの従者の顔がついに浮かんだ涙で滲む。
「お嬢様、おれはあなたに幸せになってもらいたいんですよ。この世界でいちばん」
薔薇の咲き乱れる庭の景色を楽しむための大きな窓硝子が小気味良い音を当てて盛大に砕け散った。晴天の朝の陽射しが乱反射して場違いにとてもきれいだ。
「お嬢様がおれを―――しあわせにしてくれたので」
ばさり、と、まるで鳥が羽ばたくような音がした。思考を放棄した脳がただ目の前の光景だけを認識している中、視界の端に黒がひらめく。惚けて見上げたさき、ロディのその烏の濡れ羽色をした髪の合間から、見慣れないものが―――でこぼこした太い角が二本生えているのが見えた。
「え……」
私を抱えているとは思えないくらいの気軽さで、ロディは窓枠に足をかけて屋敷の外に出ようとする。だれか、と叫ばなければならないのに本能的な恐怖が私にそれを許さない。
おそらくロディが軽く膝を曲げて力を込めたその一瞬後、私の視界は一息に侯爵家の屋根の上、広がる城下町を見下ろす場所まで引き上がった。
「……ッ、……!?」
「あはは。驚いて声も出ませんか」
いつもの調子でロディが笑う。
片手で私を抱え直した男のその首に咄嗟に腕を回してしまったのは、まるで悪魔のようにその背から立派な翼を生やした男が街を遥か見下ろすところまで上空に飛び上がったせいだ。
落ちたら死ぬ。ひゅうひゅうと風を感じながら、私が思ったのはそれだけだった。
落ちたら死ぬ。避雷針なんかに突き刺さらなくとも、地面に叩きつけられた衝撃で簡単に。
「―――まさか、おまえ、リリア嬢をこうやって」
「いえ、まさか。あんなのに触りたくありません」
咄嗟に口に出た私の震える言葉を破顔一笑で否定して、ロディはどうやら城下町の中心部―――今朝の凶行の場所へと向かうらしかった。
「ロディ―――、私をどうする気なの……。お城に何をする気……!?」
「いやだなぁ、怯えないでくださいよ。おれはお嬢様を幸せにしたいんですって。あんなふうな……早贄みたいなことするわけないじゃないですか」
角も翼も人間のそれではあり得ないのに口調も表情もいつものロディのままだったので、空中を移動しながらもそんなことが聞けた。返事までいつもの彼なのが、一周回って私を冷静にさせている。
「り―――、リリア嬢は、あの子は、なんで」
「なんでって、お嬢様。あなたねぇ、あの女にどれだけコケにされたと思ってるんです」
「ほ、本当に死んでしまったの? それも嘘? たちの悪い夢じゃなくって?」
「ちょっとした宣戦布告ですよ。思ったより騒ぎになったようですけど、まあ想定内です」
ロディは昨日までいつも通りだった。
そのはずだ。昨日何かあったわけではない。いつも通り学園に行って、リリア嬢たちを中心にまた何か小さな奇跡か何かが起きたらしいと聞いて、味気なく授業を受けて家で家庭教師から楽器の手解きを受けた。特に予定のない一日に、かれはいつも通りに付き従っていた。
「もう少し生かしておいた方がよかったですか? すみません。気が回らず」
「……!」
失神した方が気が楽になるだろうに、もう純粋な貴族令嬢ではなく転生の記憶のある私にはそれが出来ない。
ややもせず王城まで辿り着いたらしく、まだ赤黒いシミが残る―――どうやら亡骸はなんとか降ろされたらしい―――正門の鐘楼が視界に入った。
ひ、と短く悲鳴が漏れたのは、つい先ほどまでそこに見知った女の子が突き刺さっていた写真を見たばかりだからだ。
「あれはなんだ?」
「黒い翼……、悪魔か!?」
「おい、何かを抱えて―――、まさか―――!?」
「魔法士を呼べ!」
足元で騒ぎが起きている気配はしたけれど、下を見るのが怖すぎてロディの、この状況に私を追い込んでいる男の胸元に縋ることしかできないでいる。
「そ、の角はなに。どうして飛んでいるの。おまえ、ロディ、……ロディなのよね……?」
「いま聞きますか。あなたらしいね、お嬢様。―――はい。あなたのロディです。この角は今まで隠してた角で、羽根が生えているので飛んでいます」
わあわあと悲鳴と怒号が上がる足元から火の矢や氷の矢が飛んでくるのが、ロディの従者としてのお仕着せの足元に広がる鮮やかな紫色の魔法陣越しに見えた。
「殺さない方が?」
「あッ、当たり前よ! やめて!」
「おおせのまま」
一瞬だけ感じた冷気や熱気は魔法陣に触れるより前に消えた。魔法を打ち消したのだ、と知れて、ぞわりと背筋が冷たくなる。私ごと撃ち落とすつもりで放たれたのだと知れたからだ。
「いや、ヴィンセント様にご挨拶されたいかと思いまして」
「は―――、え……?」
おそらくは氷魔法を放って作られた美しい階段を駆け上ってくる相手に気づいたのは、ロディの空いた手が真下を指し示したからだ。
「貴様―――ッ!!」
聞いたこともないような怒号と共に、剣に光を纏わせたひとりの男が近づいてくる。顔を見ずともロディの言葉で、声で相手がわかった。
「あ……ッ!」
ヴィンセント。
五歳の頃からの婚約者。ずっと好きだった人だ。
家の都合で結ばれた婚約だけれどゆっくり時間をかけて、憎からず思い合っていた、そう思い込んでいた相手。
それもそうか。あんなに見つめていた女の子が突然こんな目にあったなんて知れたら、何を差し置いてでも飛んでくるに決まっている。
「ほら」
「貴様、貴様がリリアを……!」
「ヴィンス……!」
自分にだけ許されていると、そう自惚れていた愛称が咄嗟に口をつく。
その呼び名を聞いて憤怒に染まった美貌が歪み、そして、かれは翼を生やした異形の男が抱えた女の顔を見たらしい。
彼をそう呼ぶ『もうひとり』の顔を。宝石みたいで大好きだったヴィンスのその紫水晶の瞳が見開かれて、ようやく彼は私を認識した。
「……ソフィア……?」
「ヴィンス、ごめんなさい……!」
咄嗟に私の口をついたのはそれだった。
だってロディは言ったのだ。私が泣いていたから、私が悲しんだからあの女を許せなかった、と、そう言ったのだ。
彼が恋した女の子、あの綺麗で可愛くて鮮やかで眩しい女の子はだから真下の避雷針に串刺しになった。
そうだとしたら出来ることはそれしかない。
ごめんなさい。私のせいだ。
あなたの世界を、あなたの恋を、あなたの物語を私が壊した。
親が決めた婚約者がいるけれど、なんてただの恋のスパイスのための私だったのに、なのに。
ぎゅっと手のひらを握りしめて視線を下げる。どんな顔をしているのかが怖くて、もう彼の顔は見られなかった。
「―――なんで。それだけ?」
「……ええ」
ため息みたいに頭上から囁くようにロディが言って、目の前の剣を構えた身体が視界から消える。
怒りに燃える彼をここまで運んだ足元の氷が掻き消えたのだと気付くと同時、一度も剣を振るえないまま落下していく彼ではなく私を抱く男に向けて咄嗟に叫んでいた。
「ッ殺さないで! だめ、助けて!」
「分かってますって、ちょっとムカついただけです」
真下に血に染まった避雷針はない。
けれどこの高さから落ちれば人間は死ぬ。
地上の方から悲鳴と怒号が聞こえる。ロディは軽く肩をすくめる動作をしてみせた。どうやら下方ではつむじ風が起きて、彼の身体を支えたらしい。恐る恐る下を向けば、表情までは見えないけれど銀の美しい髪を揺らした彼が兵士たちに支えられて立っているのは見えた。
「では、これで」
ヴィンセントが時間を稼ぐ予定だったのか、私たちのさらに頭上から先ほどの火矢や氷の矢とは比べ物にならない魔力が渦巻いて雷の剣が降ってくる。
けれど魔法陣はぱちっと静電気みたいな音を立てて簡単にそれを飲み込んでしまった。ロディは私を見て微笑み、それから、ばさりと羽ばたいてさらに高度を上げる。
「朝早く起こされてしまいましたから、少し眠いでしょう。おやすみください、お嬢様。目覚めた時にはぜんぶ過去になっていますからね」
いつもの声と表情でそう言って、ロディは私の額から顎にかけてをそうっと撫でる。
それだけで目を開けていられなくなって、何もわからないままの私は強制的に沈んでいく意識の中、こんな状況だっていうのにこの世界はもしかするとただ傍観するだけの乙女ゲームでも恋愛小説でもなく私が足掻くべき現実だったのかもしれない、とそんな間抜けなことを思うほかなかった。
***
リリアンヌ・キッシンジャー男爵令嬢の死のニュースは、その数時間後に王国はおろか大陸全土を席巻した魔王復活のニュースによって掻き消されることとなった。
魔王は王国の象徴たる城に魔力で出来た荊を巻き付け大輪の薔薇を咲かせて鮮烈にその復活を喧伝したのだ。
魔界は大陸の影にあるとされ、魔人と魔人が操る魔物たちは人間の体にある魔力を求めてこちらの世界へと姿を現すという。
三百年前の建国の伝承に辛うじて伝わる御伽話が現実のものであったことを、王国の人間たちは思い知った。
かつて魔王を封印したとされる聖女と呼ばれる存在は王国には存在しておらず、もっともその地位に近いとされた少女はあわれにもすでに冷たい亡骸となっている。
あまりにも無慈悲に奪われた少女の命を悼むとともに魔王率いる魔人の軍勢への備えのためにとすぐさま討伐隊が編成されたが、魔王とその軍勢は以降姿を現さず、しかして聖女が現れることもなく、どんな剣でも魔法でも断てない黒薔薇の荊が巻き付いた城がただ王国に不気味な影を落とすのみとなった。
まるで王家を嘲笑うかのように城前に現れた魔王に肉薄した唯一の人間である公爵令息は、その腕に己の婚約者たる少女が抱えられていたことを証言したが、さる名家の侯爵令嬢と魔王の復活が関連付けられて語られることを避けるためにとその証言は闇に葬られた。
その侯爵令嬢は魔王復活を憂うあまりに病を得て領地で療養中に死亡したこととなり、以後王国は衰退の一途を辿ったという。