多様性なんかいらない
為末大という元陸上選手が次のようなコメントをして、ネットで炎上したというニュースを見ました。引用してみます。
「50歳以降で多様性理解のために一番おすすめなのは「20歳以上下の異性の友達を作る」だと思っています」
日本人は年齢・国籍といった壁を破るのが苦手だから…という事だそうです。
このニュースを見て私は(また、くだらない事を言ってんなあ)と思いました。為末という人は昔、「情熱大陸」か何かを見て、(この人は自分で考えて陸上ができる選手なんだな)と思った記憶があるんですが、スポーツ以外の事はあまり考えられないようですね。
ただ、私は為末に対する「気持ち悪い」といった批判も別にいいとは思っていません。全部どうでもいいよ、という感じです。
そもそも「多様性」という言葉が勝手に独り歩きしてますが、何故、多様性が良いのか、という事は真剣に考えられていないと思います。
面倒なので結論から言いますが、私が人と話したり会ったりした経験から言うと、「年齢がいくつだろうが、国籍がどこだろうが、性別がなんだろうが、バカはどこまでいってもバカ」という事です。
今の世の中はキラキラしている女子高生は素晴らしくて、醜いおじさんは最低、といった価値観のようですが、人が思っているほどには違いません。
多様性がどうのこうの言いますが、試しに、飲み屋に行って知らない人と話しまくる、というのを実験としてやってみればいいと思います。そこで得られるものはない事はないでしょうが、おそらくは思ったよりも得られるものは少ないでしょう。
というのは、普通のなんでもない人と無限に話し込んだところで、世間的なレベルに終始するのは当たり前で、そこで「多様性を理解して自分がレベルアップする」なんて事はありません。
私も若い頃は、多くの人の考えや生き方を知った方がいいかなと思っていましたが、今はどうでもいいと思っています。まあ、そうしたものを知るのは大切と言えば大切ですが、それはどこまで行っても世間的なレベルから逃れる事はないし、本当に大切な事をそこで知るのは難しいでしょう。
じゃあどうすればいいかと言うと、私は「読書」が大切だと考えます。もっとも、読書も色々なレベルがあるので一言で言うのは難しいですが。
簡単な話、賢者の一言の方が愚者の万の言葉よりも重みがある、という事です。
私自身の経験で言えば、二十代の頃に、カントの入門書を読んで(うーわ、人類ってこんなところまでたどり着いてたんだ)と感動した事があります。
私はその時、駅のホームで本を読んでいたんですが、自分の手から本が離れないような感覚を得ました。
カントの哲学の概要を知ってから、私は周囲を見て、また、ネットに広がるコメントなんかを見て、不思議に思いました。
(もう既にカントという天才はこんなところにまでたどり着いていたのに、それから二百年近い歳月が流れたのに、みんななんでそれを踏まえていないんだろう? どうして未だに、それよりもっと手前のレベルで話しているんだろう?)そう考えるようになりました。
私自身はそうした経験があるし、古典というのには全てが書いてある、いや、全て"以上"が書いてあると思っているので、それを知る事が大切だと思います。
よくこういう事を言うと、「いや、本を読むよりも現実に行動する事が大切だ」なんて言う人がいますが、「そういう事が何であるのか」というのも本の中には書いてあります。
ブッダ、孔子、ソクラテス、旧約聖書などが生まれた時代を哲学的には、「軸の時代」と呼ぶそうです。これは、こうした時代において、人類にとっての軸となる思想が生まれた、という事です。
私はこの考えに共感します。(だよな~)と思います。重要な事は既に言い尽くされています。少なくとも私はそう感じます。そして思想というのは、既に言われた事をもう一度どう考え直すかという作業であると思います。
そういう過程を考えると、今の多様性がどうの、というのはくだらない戯言としか思えません。というか、今の社会は世界的に多様性が減少しており、みんなが消費資本主義に取り込まれた大衆になっています。
均一化が進んでいる一方で、それぞれの個人の微細な差異(趣味性)を意味づけ、それぞれの差異にアイデンティティを与える為に、「多様性は大事だ!」というスローガンが叫ばれているだけなのでしょう。
なので、私にとっては多様性を理解するというのはどうでもいいです。
そんなに多様性と言いたいのなら、「今という時代の一様性に閉じこもって、歴史的な多様性を理解しないのは問題だから、歴史的に形成された古典を読んで、時間的多様性を得た方がいいよ」とでも言うしかありません。
多様性を理解したいというのなら、そっちの方が大切だと思います。