第三章 未来に向けて⑳ 瓦礫の中で
暗い。漆黒の闇のようだった。これが本当の死後の世界というものなのだろうか。ただ、それが本当なら何にもない闇の中だ。そう思っていたが、だんだん感覚が戻ってくると、急に腕のだるさや左足の痛みが忠弘を覚醒させた。
「生き、てる。」
あれは夢だったのだろうか。まぁ、そんな奇跡みたいな話があるはずがない。最後の最後に素敵な夢を見せてくれた。そう思うだけでも少しだけ心が軽くなった。少しずつだが確実に空間は狭くなっている。倒壊した家屋が完全に崩れるのも時間の問題であろう。自分が助かる状況にないことは、もう十分に理解できていた。
「お兄ちゃん!」
再び、綾乃の声が聞こえ空きがした。そうだ、もうすぐ会えるんだった。そう思うと忠弘の心は覚悟が決まったのだった。ただ、今しがた気が付いたが、胸元にあったはずの、握りしめていたはずのお守りの感触がない。いや、ずっと家財を支えていたから手の感覚がないだけだろう。忠弘は胸元を抑えながら最期の瞬間を待った。
「お兄ちゃん! まだ、まだ諦めるなっ!」
再び綾乃の声がした。さっきよりもはっきりと。思考が追い付かずにいると、
「角度調整、ヨシ! 上下角修正、ヨシ!!」
「発射!!」
外から誰かの声が聞こえた。と、同時に小さな爆発音が聞こえ、忠弘の周囲に何かが飛んできたようだ。わずかな隙間しかなかったはずだが、いったい何事だろう。
「ハイパーラテックスαⅡ固定ヨシ! エア注入開始!」
何か、気体を風船に入れるようなシューッという音が聞こえてきた。それは継続的に続き、少しずつ流量を上げているのだろう。最初は低く小さかった気流音が、高くなるにつれて大きくなった。
その時、少しずつだったが忠弘は自分を圧迫している力が弱くなってきていることに気が付いた。気流音が続くにつれ、次第に目が暗がりに慣れてくると、自分の周囲で黄色い大きな何かが膨らんでいるのが分かった。
「第二発装填完了! 角度、上下角、ともに調整ヨシ!」
「発射!!」
またバシュッ、という破裂音とともに、周辺に何かが飛んできた。そして、再び気流音とともにそれらは膨れ上がり、やがて忠弘の周りの家財を押し上げていった。どうやらそれは巨大な風船のようなものらしい、自分を押し付けていた家財や家屋が持ち上げられ、身体が楽になってきたばかりか、周囲に空間ができていた。
「荒森、狩谷入ります!」
荒森副士長の声が聞こえ、外から人が近付くのが分かった。
「小隊長! もう少しです。頑張ってください!!」
「左からハーネスを付けます。怪我はありますか?」
それは、同じ小隊に所属する荒森副士長と狩谷消防士の声だった。
「荒森と、狩谷か?」
「そうです。もう大丈夫です。小隊長、怪我はありますか?」
「ああ。どうやら左足下腿を骨折したらしい。それ以外は腕がだるいだけで大丈夫だと思う。」
「わかりました。すぐに出します。頑張ってください!」
狩谷は忠弘にハーネスを装着し、荒森は器用に左足の負傷部位を固定してくれた。固定されたからか、幾分痛みが和らぎ、少しだけ安心することができた。
「それでは引きますよ。一緒にいますから安心してください!」
同僚の声掛けに、忠弘の心は安定し落ち着き安心することができた。現場での要救助者への声掛けは大事だということを散々と教えてきたが、自分が受けてみて初めてその絶大な効果に気が付かされた。その励ましは勇気になり生きる活力が沸いてくる。
二人の励ましを受けながら、少しずつ、少しずつ忠弘の身体が引っ張られていく。そして、数分後には投光器に照らされた屋外に出ることができたのだ。東の空にはもう陽が昇り、担架に乗せられながら家屋を見ると、それは完全に倒壊していた。先ほど、自分を助けてくれた資機材は見たこともない物だった。あれが、この倒壊した家屋を持ち上げて空間を作ったらしい。
「小隊長。ご無事でよかった!」
志穂が駆け寄ってきて、担架を持ち上げるように指示を出し、付き添いながら先導をしてくれる。ふと、志穂の左手の薬指に指輪が見えた。そんなものは付けていなかったはずだ。聞いてみようと見上げると、志穂が着ている消防服のネームが『青井』になっていることに気が付いた。
「青、井?」
「はい。青井志穂副士長です。大澤小隊長、もう大丈夫ですからね。」
「佐倉、じゃなかったのか? いつの間に。」
「ふふ、それは後で彼女から聞いてください。」
「彼女?」
志穂が指さした方向、倒壊した家屋など、瓦礫が散乱する中、紺のスーツを着たいかにもキャリアウーマンといった装いの女性が、あちこちの作業員に向かって指示を出している。朝日に照らし出されたその姿と左手の薬指に付けられた赤い指輪を見た時、忠弘はまさかと驚いた。
「あ、綾乃!?」
その女性は忠弘に気が付くと、指示を他の作業員に任せて駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん! 無事だった!?」
もう立派に大人の女性だったが、一目見ればわかった。それは、大人になった綾乃だったのだ。驚いて声も出ない忠弘に、綾乃はウィンクして見せると、
「ふふ。細かい話は落ち着いたらね。とりあえずお兄ちゃんは怪我をしっかり治してらっしゃい。」
「綾乃、ほんとに綾乃なのか?」
「いいからいいから、あとでね。ああ、じゃあ特別に気付だけあげとくわ。」
そう言うと、綾乃は忠弘に顔を近付けてキスをした。担架を持つ荒森や大和達がやれやれと呆れた顔で笑っていた。
「あらあら、相変わらずお熱いことですねぇ。」
志穂もそう言って笑った。キスをされた瞬間、忠弘の頭の中に自分の知っている記憶と違う記憶が次々と飛び込んできた。まるで古いデータをアップデートするように、これまでの時間の新しい記憶が流れたのだった。中学三年の軟式テニス大会で全国優勝を果たした綾乃の記憶、高校受験、進学後は抜群の成績で留学も経験した。そうだ、大学は東京の一番難しい大学に合格しておきながら、アメリカの超有名大学に留学した。
「あいつ、スゲーことになってんな。」
起こしかけた身体を倒し、天を見上げながら忠弘は微笑んだ。忠弘は通りで準備していた救急車で区内の総合病院へ搬送された。救急車の前でストレッチャーに乗り換える時、
「志穂ちゃん。いったい、何がどうなってるんだ?」
と聞いてみたが、
「ふふ。すみません小隊長、話すとすっごく長くなるので、あとで綾乃ちゃんから直接聞いてくださいね。」
そう言って笑顔で見送られた。救急車に揺られながら、車内の天井を見上げて今しがたアップデートされた記憶の一つ一つを思い返しながら、何がどうなっていくのか必死に理解する忠弘だった。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
\(^o^)/
無事に生還した忠弘。
綾乃が開発した新機材によって救われましたね。
ちなみに、
作中で出た『ハイパーラテックスαⅡ』は残念ながら存在しません。
ですが、
災害現場で一人でも多くの命を助けるための資器材は、
日々研究されて、新しいものもたくさん出てきています。
AEDの普及だってその一つです。
さて、物語はもう少し続きます。
どうぞ最後までお付き合いください。




