第一章 声を失った少女② 最期の願い
ここから春樹の言ったビール工場へは1キロもない距離のはずだ。何度か買い物の時にその近くを通っているので、場所はよく知っていた。しかし、様変わりした街の中を工場へたどり着くのは至難の事であった。何と言っても、綾乃が記憶している今までの街の風景とは一変しているのだ。
「あんた。津波が来るよ!!」
声をかけてきたのは見知らぬ女性だった。30歳くらいだろうか、髪を茶髪に染めて少し怖い感じがしたが、彼女は綾乃に駆け寄るとその手を取った。
「あ、あの。ビール工場に。」
「わかってる。」
女性も同じ場所を目指していたのか、瓦礫の散乱する道路をかいくぐってビール工場へ案内してくれた。途中、瓦礫の中からの助けを求める声や、怪我をして立てない老人たちもいたが、女性はそれらを気に留めることもなく綾乃を引っ張った。
「怪我してる人が。」
「わかってる。でも、今はダメ。ごめん、今はダメなの。」
そういう彼女の手が震え、目に涙を浮かべているのがわかった。もしかすると、綾乃と同じように大事な人を残してきてしまっているのかもしれない。綾乃は何も言えずにそのまま歩き続けた。
ようやくビール工場に到着する頃には、屋上から仙台港の方角を見ながら指を差して騒いでいる人たちが見えた。
「急げ! 津波がそこまで来てるぞ!!」
建物の入り口から年配の男性が手を伸ばして大きな声を出している。二人はその入り口に向かって走った。その時、近くの家が崩れたかと思うと、一緒になって海水が押し寄せてきた。綾乃の見たことのないどす黒くて不気味な水だ。それが津波による海の水だと知るのは少したってからだった。もう少し、あと少しと言うところで水に押し流されてきた瓦礫が二人の前に差し掛かってきた。
「おじさん! この子をお願い!!」
そう言うと、彼女は綾乃の背中を思い切り押した。走ってきた勢いと押された勢いで、一瞬綾乃の身体が浮いた感じがしたが、次の瞬間には年配の男性に抱きかかえられ、そのまま階段を駆けあがることになった。抱えられた綾乃は男性の背中越しに、自分を助けてくれた女性が押し寄せた津波と瓦礫に飲み込まれるのを見てしまった。
『生きて。』
姿が見え亡くなる直前、女性の口元がそう言った気がしたが、考える間もなくその姿は津波に飲まれて見えなくなっていた。
なんとか屋上に到着すると、年配の男性は疲れ果てたのかその場にヘナヘナと座り込んでしまった。綾乃は何とか立ち上がり、フラフラと人だかりを分けて眼下の風景を見た。そこには、綾乃の知っているものは何もなかった。押し寄せる黒く淀んだ海水と、かつて何かの建物であっただろう瓦礫や家の形を残しているまま流されていく家屋、車、そして動かなくなった人。
流されていく家屋の中に人影が見えたが、それも崩れながら消えていった。瓦礫同士がこすれ、ぶつかり合う嫌な音と海水の流れる轟音、あちこちで響く悲鳴や怒声に嗚咽。時折、プロパンガスなのか、何かが爆発するような音、今までの日常ではおよそ聞くことのなかった音を聞きながら、綾乃の視線は最後に自分の家の屋根を見付けたのだった。綾乃の家の外装は珍しい薄ピンク色だ。家を建てる時に博美が指定したそうだが、その家の残骸が流れていった。
「パパ、ママ・・・。」
何かが、綾乃の中でプツンと切れる音がして、視界が暗くなったところで記憶が止まった。後ろのめりに倒れ込む彼女を、屋上に逃げていた何人かの大人たちが慌てて抱えた。声をかけるが、綾乃は目を開けることはなかった。
津波が到達する少し前の家の中では、春樹が博美を抱えて大きく息を吐いていた。
「博美・・・。」
あの地震の際、携帯の地震警報が鳴ったために、博美は何にも先に綾乃へ声をかけに行ったが、それが仇となってしまった。最初の大きな揺れで天井が崩れ、折れた鉄骨の一部が身体を貫いたのだ。春樹が隙間を縫って博美の元に辿り着いた時には、博美はすでに息をしていなかった。春樹のいた居間も、階段や廊下から玄関に続く通路も、瓦礫で埋もれてビクともしなかった。完全に閉じ込められてしまったのだ。せめてもの幸いは、二階にいた綾乃が無事だったことだ。
声をかけてからしばらく、綾乃と思われる小さな足音が外を駆けていくのが聞こえた。ビール工場ならきっと避難してくる人を受け入れてくれるし、あの建物ならちょっとやそっとの事では崩れない。下手に高台を目指して津波に追い付かれるよりも、助かる可能性は高いだろう。
「どうか、綾乃を助けてください。神様、私達の命を捧げますから、どうか娘の、綾乃の命を助けてください!」
春樹は博美の亡骸を抱えたまま必死に祈った。今まで神頼みなどしてこなかった。理系を先行して仕事にしている春樹には、そんな非科学的なことなど大人になってからは全くしてこなかったが、初めて心の底から祈った。ただひたすら、我が子の命を守ってほしい一念で、祈り続けた。
「どうか、どうか綾乃の命だけは・・・。頼む! 誰か、綾乃を・・・。」
ほどなくして、地響きと共に何かがぶつかり合ったり、水が跳ねる音がそこかしこで聞こえたかと思うと、不意に足元から水が侵入してきて、次の瞬間には、瓦礫と共に春樹を押し流していった。家財が頭に当たって朦朧とする中、春樹はせめてもの想いで博美を抱きしめた。そうして、あっという間に暗闇に吸い込まれていったのだった。
続く。。。
読んでいただいてありがとうございます。
東日本大震災では、
こうやってなすすべなく津波に飲み込まれたり、
倒壊家屋の下敷きになった方がいたはずです。
他人事ではありません。
亡くなった方からの教訓として、
一人一人ができる範囲でいいので備えていきたいですね。
次回もどうぞお楽しみに。