第二章 乙女心と鈍感過保護㉕ 綾乃の謝罪
それから週末までの3日間、忠弘は自室に籠もって出てこようとはしなかった。夕食だけは一緒に食べていたが、口数も少なく、今までの忠弘からすれば様変わりした姿に家族も心配していた。
しかし、忠弘は大丈夫の一点張りで話そうとはしなかった。杏奈と別れたことで無気力になっている。そう言ってしまえば簡単だったが、それを言うと杏奈のせいになってしまう。
「はぁ。」
何度、何十度ため息を吐いたかわからない。頭の中では杏奈との付き合いが終わりを告げたことを理解しようとしている。問題は杏奈が別れ際に言った綾乃のことだ。酷い態度を取ってしまった申し訳なさ。笑顔にさせると誓った綾乃に寂しそうな顔をさせてしまった自己嫌悪。いろいろな感情がごちゃごちゃになってまとまらなかった。
その日の夜、部屋で机に向かって呆けていると、階下がにわかに賑やかになった。どうやら和元たちが遊びに来たようだ。話し声が聞こえてきた。しばらくして、自室のドアがノックされた。足音からそれが綾乃だということはすぐにわかった。
「お兄ちゃん。入ってもいい?」
廊下から綾乃の声が聞こえてきた。遠慮がちな、元気のない声だった。そんな声にさせてしまっているのは間違いなく自分のせいだとわかっているため、再び忠弘の胸は痛んだ。返事が出来ずにいると、
「お兄ちゃん。ごめん、入るね。」
そう言って扉が開いた。綾乃は無言のままベットに歩いていくと、ゆっくりと腰を掛けた。忠弘はどう声をかければいいのかわからずに、机に向かったまま黙っていた。綾乃も何か言おうとしたが、何をどう話しかければいいのかわからずに沈黙の時間が続いた。
どのくらいの時間が過ぎただろうか。多分、ほんの5分とかそんな時間だったのだろう、すごく長く感じた。
だが不思議なもので、忠弘はなぜか綾乃が来てからのその沈黙の時間が苦痛ではないことに気が付いた。綾乃が同じ空間にいることで、多少の気まずさはあったものの、一人でいるよりも少しだけ心が落ち着いているのだ。
「・・・お兄ちゃん。」
「ん?」
沈黙を破ったのは勇気を出した綾乃からだった。
「杏奈ちゃんと、別れちゃったの?」
「・・・うん。」
綾乃は感のいい子だ。年齢よりもずっと大人びているし、気も使える。杏奈とメッセージのやり取りはしていたようだから、杏奈が直接的なことを言わなくても察しているのかもしれなかった。
「私の、せい?」
しばらくして、小さな声で綾乃がそう話し始めた。
「どうしてそう思うの?」
「だって、杏奈ちゃんが忙しくてなかなか会えていなかったから、その代わりに私がお兄ちゃんにわがまま言って会ってたでしょ? 杏奈ちゃん、それが面白くなかったのかなって。」
「杏奈が綾乃のことで嫌な思いしてたんなら、少なくとも綾乃とメッセージのやり取りなんてしないよ。杏奈はそんな人じゃない。」
「う、うん。ゴメン。」
なんでだろう。綾乃は悪くないとわかっているのに、杏奈の最後の言葉が頭の中に甦り、ついつい言葉が強くなってしまう。綾乃が東北から鎌倉に来た時は、誰かが守ってあげなければ消えてしまいそうなくらいに小さく儚い感じがした。だからこそ、忠弘は守ってあげたいと心から思い、綾乃に寄り添い、そして綾乃は言葉を取り戻した。幼い綾乃が自分を慕ってくるのは当たり前の事だろう。そして、忠弘自身も綾乃が懐いてくることが嬉しかったことは事実だ。
漠然と、自分は杏奈と付き合い続け、その間に自分達を祝福してくれる綾乃がいて、勝手にそんなことを考えてしまっていた。綾乃を妹のように思っているのは自由だが、それは周りも同じだと思い込んでいた。綾乃が自分に向ける想いが男女のそれであるかもしれないなんてことはなんて考えもしなかった。
「元の元気なお兄ちゃんに戻るために、私にできることはないかな。」
それが小学六年生の女の子の言うことだろうか。何と情けない事か、大学生の自分が、小学生の綾乃にここまで気を遣わせてしまっているのが心底情けなかった。
「お兄ちゃん。」
綾乃は立ち上がり、忠弘に歩み寄った。そして、そっと背中から抱きしめてくれた。綾乃の髪からふわりと香ってくるシャンプーの匂いだろうか、甘い香りと温もりを感じた。
「ごめんなさい。私がお兄ちゃんにいっぱい懐いちゃったから、きっと、杏奈ちゃん、面白くなかったよね。」
「・・・そんなことはない。」
「でも。私、お兄ちゃんと一緒にいたかった。ごめんなさい。杏奈ちゃんと会えないから私が代わりにとか言っておいて、本当は怖かったの。お兄ちゃんたちはどんどん大人になっていっちゃうし、二人が結婚とかしたら私はもう甘えられなくなっちゃうから、杏奈ちゃんと会えない今ならチャンスだって思って、お兄ちゃんと一緒にいられるって舞い上がっちゃって。ごめんなさい。」
綾乃が涙声になっていくのがわかった。綾乃にそこまで言わせてしまう自分への嫌悪感が募っていく。何か黒い感情が自分の中にあって、それが膨らんでいくのがわかってしまう。しかし、綾乃の温もりが、そう言った黒い感情や、杏奈と別れた心の痛みを徐々に和らげてくれることも感じていた。
「もういいから。綾乃のせいじゃないから。これは杏奈とおれの問題で、綾乃は悪くないから気にするな。」
「違うの!」
首筋に回された綾乃の腕が、より強く力が入る。
「私、私は、お兄ちゃんが好き。」
「知ってる。知っているよ。」
「そうじゃない。お兄ちゃんの言っている好きじゃない!」
どうしてこう自分は鈍いのだろうか。杏奈は鋭い。杏奈の推察したとおり、綾乃の想いは忠弘が思っていたよりもずっと大きなもののようだった。杏奈が予見したとおり、綾乃の『好き』は忠弘が考えていた『好き』とは違うものだったのだ。
『綾乃ちゃんは確かにまだ幼い女の子かもしれない。だけど断言するわ。あの子はこれからどんどんかわいくなる。もっともっときれいになって、そして、あなたを今以上に愛していく。だけど、あの子は優しいから、私たちのことを大好きでいてくれるから、自分の気持ちをぐっとこらえて我慢してしまう。私はゴメン、そんな綾乃ちゃんを見ながら忠弘と付き合い続ける強さも図々しさもないの。』
杏奈の言った言葉の意味が良くわかった気がした。その時はまさかと考えていた。綾乃はまだ小学生だ。昔から野球しかしてこなかった忠弘にしてみれば、男女の好きだのなんだのと言う感情なんて、高校に入って杏奈に演劇部に誘われた時が初めてだった。
「綾乃、あのな。」
「ずっと言わないようにしなくちゃって思ってたんだ。お兄ちゃんには杏奈ちゃんいるし、私は杏奈ちゃんも大好きだから、二人には幸せになってほしいって思ってたけど、だけど、どうしてもお兄ちゃんと一緒にいるのが嬉しくて、私はお兄ちゃんにしてみたら子供かもしれないけど、でも、お兄ちゃんが大好きで。杏奈ちゃんとお兄ちゃんが別れたって知って、申し訳ないって思う気持ちと、大好きって気持ちがどんどん大きくなって自分でもどうしようもなくなっちゃって。」
あふれ出る感情が抑えきれなくなったのが、堰が切れたように綾乃は話し続けた。忠弘は綾乃が自分の事をどれだけ想ってくれているのか、どれだけ我慢させてしまっていたのか、ずっとこの幼い子に気を遣わせてしまっていたことが申し訳なく思えた。
「綾乃、少し落ち着け。わかった。わかったから。」
忠弘は椅子に腰かけたまま綾乃に向き直ると、指で涙を拭ってから髪を撫でてやった。綾乃は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。いろいろな感情が溢れてしまったのだろう。髪をなでてやりながら綾乃が落ち着くのを待った。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
\(^o^)/
杏奈との別れに責任を感じていた綾乃。
申し訳なさと慕う気持ちが溢れてしまって切ないですね。
忠弘を元気にしたいと思った綾乃は、
思いもしない行動に出ます。
次回もどうぞお楽しみに。




