第一章 声を失った少女① 東日本大震災当日
第一章登場人物
大澤忠弘・・・主人公。高校生で演劇部副部長。
石山綾乃・・・もう一人の主人公。忠弘のアルバイト先の少女。声が出せない。
橋本杏奈・・・忠弘の幼馴染で彼女。超絶美人な演劇部部長。
高畑彩 ・・・忠弘のクラスメート。テニス部所属。
伊藤理恵・・・演劇部員。
小橋涼代・・・演劇部員。
島畑哲也・・・演劇部の先輩。
南塚徹 ・・・忠弘のクラスの担任。演劇部顧問。あわてんぼう教師。
佐藤真美子・・養護教諭。ダイナマイトボディな生徒たちの相談役。
福原和元・・・福原生花店店主、忠弘の叔父。野球とビールが大好き。
福原香織・・・和元の妻、優しく忠弘と綾乃を見守る。
大澤幸政・・・大学生。忠弘の兄。
安田愛純・・・綾乃の担任。
佐倉志穂・・・綾乃のクラスメート。初めての友達。
朝霧翔 ・・・綾乃のクラスメート。野球少年。
狩野和晴・・・喫茶店『こまち茶房』の店長。
石山春樹・・・薬剤師、綾乃の父。
石山博美・・・主婦、綾乃の母。
2011年3月11日14時46分。この日、日本の歴史に大きな影響を与える災害が起きた。東日本大震災である。東北地方太平洋沖を震源としたM9.0のこの地震は、日本史上類を見ない大津波を引き起こし、東北・関東地方の広域にわたり大きな被害を出した。死者・行方不明者は18000人を超え、そこに住む人々の生活の基盤をすべて無慈悲に押し流してしまったのだ。
仙台市の海岸近くの住宅地。小学校三年生の石山綾乃(いしやまあやの)は昨日からの発熱で学校を休んでいた。朝にはダル重かった身体も、お昼過ぎにはだいぶ楽になり、昨夜は39度を超えていた体温も37度まで下がっていた。
「調子はどう?」
母・博美(いしやまひろみ)が声をかけてくる。博美は綾乃の看病のためにパートを休んでいた。綾乃は子供心に自分のために仕事を休ませてしまったことに申し訳なく思っていたが、
「うん。朝よりいいよ。」
少しでも博美を心配させないように笑顔で答えた。博美はそれを聞いて安心すると、体力を付けられるようにと簡単な食事を用意してくれた。卵をお粥に混ぜて、その中にお餅が入っている。博美の母、つまり綾乃の祖母が良く作っていたものらしい。風邪などで身体が弱まった時に、お粥にお餅を入れてドロドロにして、卵を加えることで力を付けさせようというものだった。これが、日によっては卵の代わりに梅になったり、ほぐした鮭になったりする。
「ただいまぁ。」
今日は金曜日。世間一般的には週末になるが、父・春樹(いしやまはるき)は週明けから東京に出張のため、今日は半休を取って帰宅してきた。土日で準備を整え、月曜日の始発の新幹線で上京する予定だった。春樹は大手製薬会社の社員で、薬剤師として薬の研究開発を行っている。春樹の部屋にある専門書を手に取ったことがあるが、幼い綾乃にはそこに書かれている内容は全く理解できなかった。それもそのはずだ。中には英文のものも多いからだ。
「調子はどうだい?」
「うん。朝よりずっと楽になったよ。」
「それは良かった。」
普段は元気な綾乃だったが、この数日は寒暖差が激しく、どうやら風邪を引いてしまったようだ。ただ、食欲はあったし、よく寝ていたので回復は早かった。朝、出勤する時には、まだ苦しそうにしていた綾乃を見て心配していた春樹だったが、今の元気そうな姿に安堵したようだ。
綾乃は食事を終えると、博美に促されて薬を飲んでから自室のベットに戻った。横になったが一向に眠くはならない。それはそうだ。昨夜から苦しくてずっと寝ていた。朝もあまりにだるくて病院に行くのもやっとだった。近所の小児科で診察してもらい、風邪薬をもらった。診察から帰ると疲れたのかすぐに眠くなり、昼前から2時間ほど休んでだいぶ良くなったのだ。これなら週明けには学校へも行ける。綾乃は勉強もできたが運動も得意で、特に鉄棒はみんながあこがれるほど上手だった。
綾乃の家は二階建てで、部屋は南東の角部屋にある。外からの暖かな初春の日差しが降り注ぎ、部屋の中は暖かかった。眠くなかったはずだが、やはり風邪で体力が落ちているのか、暖かな日差しの心地よさのおかげか、いつしか綾乃は再び眠りに付くのだった。
なんとなく、耳障りな電子音が聞こえて綾乃は目を覚ました。
「綾乃! 地震が・・・。」
階下から博美の声が聞こえたその時だった。ベットがきしむ音が聞こえたかと思うと、突然、大きな揺れが襲い掛かり、半身を起こそうとしていた綾乃はあまりの揺れの衝撃にベットから落ちてしまった。身体に引っかかった布団が絡まり、何とかしようとしているうちに、綾乃は自室の壁に亀裂が入るのを見た。それと同時に本棚が倒れ掛かってきたため、何とか身をよじらせてベットの下に潜り込んだ。それが地震だと認識するまでに時間はかからなかったが、綾乃の知っている地震と違って揺れが大きすぎる。小さな身体の綾乃は何もできず、ベットの下で身を縮めながら布団をかぶった。
大きな音がしたために布団から顔を出すと、さっき倒れ掛かってきた本棚から、様々な本たちが床に散らばっていった。そして、床が斜めに傾いていき、綾乃は壁側に流されていったので手を着いて身を支えた。
どのくらいの時間がたったであろうか、まだ身体では揺れを感じているが、どうにかベットの下から這い出ると、自分の部屋が見るも無残に様変わりしているのがわかった。本棚は倒れて中の本はすべて床に散らばり、机は滑ったのか窓を突き破ってベランダに出てしまっている。お気に入りの薄紫のランドセルが逆さまになって、中の教科書も散乱していた。
立ち上がってすぐによろけて、ベットのマットの上に転がり、ついでに倒れた本棚の側面に頭を打ち付けてしまった。
「いったぁ。」
幸いたいしたことはなかったが、頭を擦りながら再び立ち上がると、外の景色が斜めになっているのに気が付いた。この時になって、ようやく綾乃は家が傾いていることを理解した。
「ママ! パパ!!」
部屋のドアを開けようとするがビクともしない。綾乃は不安になってドアを叩き、何度も父と母を呼び続けた。
「あ、綾乃。怪我はないか?」
ドアの向こうから春樹の声が聞こえた。それも、階下にいるのだろう、声がすると言っても微妙に距離を感じたのだ。
「私は平気。それよりもドアが開かないの!」
ドアノブをガチャガチャしたその時だった。耳をつんざくサイレンの音が外に響き渡った。綾乃の初めて聞く不気味なサイレンの音に、全身の毛が逆立つような、言いようのない恐怖や不安感が襲ってきた。
『大津波警報が発令しました。海岸近くにお住まいの方は、直ちに高台に・・・』
津波の襲来を警告する放送に、無意識に綾乃の身体は強張った。もう一度ドアノブを回すが、やはりビクともしない。
「パパ! ママ!」
「綾乃、聞きなさい。」
「パパ!」
「今、パパもママも身動きが取れない。窓から外に出られるね?」
春樹の言葉に、綾乃はよろけそうになるのを気を付けながらベランダに近付いた。外を見て、初めて家が傾くだけでなく半壊していることに気が付いた。ただ、幸いなことにベランダから屋根を伝えば、地面には降りられそうだった。
「ベランダからなら外には出られそうだよ!」
「そうか。じゃあ、綾乃は外に出て、先に避難しなさい。」
「でも!」
「綾乃!!」
父親の怒鳴り声に綾乃は身体をビクッとさせた。産まれてこの方、春樹が自分を怒鳴ることなどただの一度もなかったのだ。
「津波てんでんこの話は覚えているね。あとから必ず行くから先に行くんだ。」
春樹の言う、『津波てんでんこ』とは、津波が来たら何よりもまず、各自てんでんばらばらに一目散に高台に逃げる。と言う、三陸地方の言い伝えだ。春樹は岩手県の出身だ。綾乃は幼少期から津波てんでんこの内容や昔話を何度も聞かされていた。それは、非情なようでも、誰にもかまわず自分の身を守って一目散に逃げろというものだ。
しかし、春樹たちがこの半壊した家から外に出られるとは限らない。綾乃は迷ってしまった。だが、春樹は綾乃がそうやって悩むであろうこともわかっていたかのように、
「綾乃、落ち着いて聞きなさい。津波てんでんこの教えは絶対だ。先に安全な場所に逃げて、パパとママを待っていてほしい。君は先にとにかく助かるんだ。ここからなら、ビール工場が近い。そこに行って屋上に逃げさせてもらうんだ。」
落ち着いた声で綾乃に説明した。
「必ず行くから、早く、先に逃げなさい。」
「パパ。」
「早く、早く行きなさい。」
綾乃は込み上げてきた涙をぬぐうと、
「必ず来てね。必ずだよ!」
そう言ってベランダへ向かった。ベランダには、いつも博美が洗濯の時に履いていたサンダルがあったため、素足で怪我をしない様に足にひっかけた。そして、室外機を踏み台にして斜めになった屋根に降りたが、バランスを崩して転がってしまった。
幸いにも怪我はしていないようだ。綾乃は慎重に足場を選んで地面を目指した。そうしている間にも、津波警報のサイレンは繰り返され、高台に逃げるように警告を発していた。苦労しながらようやく地面に降り立つと、周辺の家々は倒壊し、家の前で立ち尽くしている人もいれば、高台に向けて逃げ出している人もいた。振り返って半壊している自宅を見ると、本当に春樹たちが出てこられるかと心配になったが、津波てんでんこの教えを改めて思い出して走り出した。
続く。
お読みいただきありがとうございます。
震災時は作者も上野のオフィスビル内で被災し、建物の壁に亀裂が入る瞬間を見てしまいました。首都高がこんにゃくの様にうねり、慌てて同僚達と外へ避難したのを覚えています。
次回は震災から半年ほど時間が進み、舞台は本作の舞台である神奈川県鎌倉市に移っていきます。
引き続きどうぞお楽しみください。