第二章 乙女心と鈍感過保護③ 綾乃の気遣い
綾乃を連れて鎌倉まで帰ってくると、それまで気を使っていたのか、さっきの信和の話には触れていなかった綾乃が遠慮がちに忠弘に聞いてきた。
「お兄ちゃんは、野球好き?」
綾乃だってわかっている。嫌いなわけがない。翔が遊びに来たときはだいたい野球の話だし、実際に校庭まで行ってキャッチボールをしたり、バットを持たせてバッティングフォームのチェックをしたり、熱心に指導していた。翔だけではなく、鎌倉南ファイターズの子たちにも快く教えていた。
そもそもが、忠弘が野球を続けていたのは甲子園を目指すためだ。そのために、親に無理を言って私立高校に進学したのだ。鎌倉学院高校は忠弘の学力と野球部の強さ、そして場所を比較した最大限の条件の学校だった。だが、野球部に入部してすぐの肘の激痛。あの時の恐怖や絶望感は思っていたよりも忠弘の心の中に残ってしまっている。
「そうだな、嫌いじゃないかな。」
そうとだけ答えると、忠弘は黙って歩き始めた。その後ろ姿が少し寂しそうに見えたので、綾乃は追いかけて忠弘と腕を組んだ。綾乃は知っているのだ。和元と一緒に夢中になって野球中継を見ていること、福原家に泊まった日は必ず庭で素振りをしていること。毎朝、ランニングをしていることだ。綾乃が見ているだけでも、忠弘は身体作りをしている。それは演劇部で声を出すためというにはあまりにハードだ。きっと、自宅にいる時も同じか、あるいはそれ以上のトレーニングをしているはずだ。
忠弘に送ってもらった後、綾乃は香織に忠弘の怪我について聞いてみた。
「忠弘くんの野球肘? 軟式球から硬式球になって、肘に負担がかかったからって聞いてるけど、身体が追い付いていないだけで、しっかり筋力アップすれば問題ないとは、忠弘くんのお母さんから聞いてるけど。」
「そうなんだ。じゃあ、もう投げられる?」
「どうかな。忠弘くん次第なんじゃないかな。」
夕食後の食器をいっしょに洗いながら、香織はそう言って苦笑いした。
「二人は知らないかもしれないけど、あの子は気が付けばトレーニングをしているみたいだよ。学校の勉強もしっかりやってるようだけど、部活もバイトも野球も全力でやってるよ。見ているこっちが心配になるくらいにね。」
和元がそう言いながらキッチンに顔を出し、冷蔵庫からビールを取り出した。今日は三本目のはずだ。ということはひいきのチームが勝ったのだろう。
「もう、野球やらないのかな?」
「どうだろうな。きっかけがあればやるかもしれないけど。」
その日の晩、綾乃はベットに横になりながら忠弘と野球のことを考えていた。死んだ春樹も野球が好きだった。下手の横好きだとは言っていたが、草野球に行った日はとてもテンションが高かったのを覚えている。綾乃も博美も野球には全く興味がないので、なんか今日はすごく機嫌がいいな。くらいにしか思っていなかったが、春樹が笑顔だったのは子供心に嬉しかった。
ベットでもぞもぞと向きを変え、今日の忠弘の顔を思い出した。自分の手を引っ張る彼の表情は、これまで綾乃が見てきたどの顔よりも寂しそうだった。大好きな忠弘のそんな顔を思い出し、胸がチクンと痛んだ。
杏奈不在の春の演劇祭は何とか終わり、夏の演劇大会まで少しの猶予ができる。高校演劇は秋の初めに県予選、そのあとに関東大会の後、全国大会まであると言う。春の大会の野球部は、信和が危惧したとおり三回戦で横浜学園に負けてしまっていた。その結果が出た時、忠弘はやっぱり寂しそうな顔をしていた。声をかけたかったが、まだ幼い綾乃にはどうすればいいのかわからなかった。
アルバイト中も何度か信和が声をかけにやってきたが、忠弘の対応は梨の礫(なしのつぶて)だ。仏壇に供える花だけ買って帰っていった。どうやら忠弘に会うためにわざわざお使いを申し出ているみたいった。
綾乃が観察していてわかったことは、週末、忠弘が泊まっていく日の夜は、綾乃が寝室に引き上げた後、庭に出てバットを振っていることだ。それも100回や200回じゃない。それが終わると、タオルを持って投げる動作を何度も繰り返していた。邪魔をしてはいけないと、音を立てないように気を付けながら、そっとベランダ越しに見ていた。
「やっぱり、お兄ちゃんだって野球やりたいんだ。」
部屋で一人呟いた綾乃は、スマホを取り出してメッセージアプリを開いた。志穂が子供用のスマホを持たされたのをきっかけに、和元が用意してくれたものだ。子供のスマホである。連絡先は和元や香織、忠弘に杏奈、それ以外は学校の友達関係数名だけだったが。
メッセージを送ると、すぐに返事が来た。週末は忙しくなりそうだ。綾乃はいろいろな作戦を考えながら眠りに付くのだった。
続く。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
\(^o^)/
忠弘が野球をやりたいと考える綾乃、
しかし、頑なに野球から遠ざかろうとする忠弘。
その本音に綾乃はたどりつくことができるでしょうか。
また、引き続き読んでやるぞ!
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次回もどうぞお楽しみに!