第一章 声を失った少女⑰ 綾乃の戦い
そんな、年の瀬が近づいたある日。小町通りがクリスマスに向けて装飾が取り付けられた次の日のことだった。アルバイトを終えた忠弘が、いつものように福原家の食卓で夕食を食べ、片付けを終えてそろそろ帰ろうかという時になって、さっきまでテレビを見ていたはずの綾乃に袖をつかまれた。
「ん? どうしたの?」
綾乃はメモパッドに何かを書き込むと、一回深呼吸してからそれを忠弘に見せた。
『海を見に行きたい。』
その一文に忠弘は目を疑った。あの日の出来事以来、海に近付くことはおろか、海の話題すら出さなかったというのに、彼女は自ら海に行きたいと意思表示をしたのだ。また、ショックで倒れてしまうんじゃないかと心配していると、
『大丈夫。お兄ちゃんがいっしょなら。』
そう書き込んで見せてきた。きっと、あの日にみんなへ心配をかけたことを気にしているのだろう。早く克服して、みんなを安心させたいと考えたのだろうか。
「無理、しなくていいんだよ?」
『でも、行きたい。』
意思は固いようだ。その頑なな綾乃の気持ちに、忠弘は折れるしかなかった。
「じゃあ。週末に由比ヶ浜に行ってみよう。」
そう言うと、綾乃は嬉しそうにほほ笑んだ。最初は表情もなかった綾乃だが、ここしばらくは本当にいろいろな表情を見せるようになった。綾乃がどんな思いで忠弘に提案してきたのか、その奥底は計り知れないが、これが、綾乃にとっての転機になるのではないかと考えた。
和元と香織に相談すると、最初は心配する気持ちが勝っていたが、綾乃がメモパッドを使って必死に説得をしたため、最後にはとうとう二人も折れたのだった。店は閉められないので和元が店番で残り、何かあったらと香織が二人に付いてきてくれることになった。
その週末。出かける準備を整えると、忠弘たちは由比ヶ浜海岸へ向けて歩き出した。年の瀬が近付いたせいか、今日は特に寒さが際立った。この辺りは冬でも海が近いためか、埼玉や群馬などの内陸部よりは若干暖かいといわれているが、それでも今日の寒さは身体に応えた。
綾乃は家を出た時こそ勇ましかったが、海に近付くにつれて、段々と足取りが重くなっていった。時折、下を向いてため息を吐くと、ゆっくりと足を前に踏み出していった。忠弘はそんな綾乃の姿を見ながら見守ることしかできなかったが、国道134号線の交差点で青信号になるのを待っているとき、そっと綾乃の手を取ってあげた。不安そうな表情を見せながら綾乃が顔を上げてきた。
「大丈夫かい? 無理しなくていいんだからね。」
そう声をかけると、忠弘が一緒にいてくれることに勇気が出たのか、少しだけ微笑み、綾乃はうなずいた。
信号が青に切り替わり、綾乃は忠弘とともに足を踏み出した。滑川の河口沿いの階段まで来ると、海と綾乃を隔てるものは何もなくなり、ただ砂浜が広がるだけの空間になる。波が寄せて引いての音を奏でる。
しかし、一般的には心地いいといわれている波の音も、3月11日のことを思い返せば、心地いいものではなくなる。鼓動が早くなり、あの日、自宅で聞いた不気味な津波警報のサイレン音が脳裏によみがえる。春樹の指示は早かった。なりふり構わず、知人にも家族にも構わず、自らの生命を守るためにてんでんばらばらに懸命に津波から逃げるという教え。『津波てんでんこ』と言われる東北特有の教え。春樹はそれを綾乃に教え込み、綾乃はそれを実践し、避難を決意すると一目散にビール工場へ避難した。
ビール工場にあと少しというところで、自分を案内してくれたお姉さんは波に飲まれて消えていった。綾乃たちが知っている海とは違う黒く深い大きなものが港を飲み込み、家を飲み込み、みんなで遊んだ公園や、商店街のお店や、学校も図書館も、今まで当たり前に存在し、生活してきたものすべてを飲み込んでいった。
綾乃は思わず目を閉じ、繋いでいた忠弘の手に力を入れた。呼吸が乱れる。息が早く深くなり苦しくなる。すべてを奪った海。母を、父を、家を、故郷を奪った憎い海。次の足が踏み出せなくなり、膝がガクガクと震えだした。
もうダメかと思ったその時、綾乃の頬を暖かなものが触れた。
「綾乃ちゃん。大丈夫、一緒にいるよ。もうこの海は、君から何も奪うことはないよ。」
そう言って抱き寄せてくれた温もりに、少しずつ心に勇気がわいてきた。一度、大きく大きく深呼吸して、一気に吐き出した。迷いや、怖さをすべて身体の外に出すように吐き出した。
忠弘と手を繋いだまま、綾乃は砂浜へ第一歩を踏み出した。そして、そのまま砂浜を進み、すぐ眼前に迫った波打ち際を見つめた。優しく寄せては引いてを繰り返すその海は、綾乃が見た黒く、深く、怖い海のものではなかった。
忠弘の手を放し、もう二歩だけ波打ち際に歩み寄った。海から吹いてくる風が綾乃の髪を撫で、寄せた波が少しだけ靴に触れた。だが、もう怖くはなかった。鎌倉に来てからまだ3ヶ月とちょっと、何もかも絶望し、大切な家族も故郷も失って、子供心にも自分が笑顔になることなんて二度とないと、そう感じていた。ずっと、自分は一人ぼっちで、そばにいてくれる人なんてもういるわけがないと思っていた。
でも、現実は違った。自分を受け入れてくれた人たちがいて、自分を想ってくれている人がいる。きっと、東北の海に消えた両親も見守ってくれている。もう、大丈夫な気がした。
「・・・とう。」
海風の中、忠弘はかすかに女の子の声を聴いた気がした。ドキドキしながら綾乃の後姿を見守っていると、不意に綾乃は振り返り、涙を流しながら笑顔で忠弘を見つめた。
「お兄ちゃん。いつもありがとう!」
一瞬、何が起きたかわからなかったが、綾乃は確かに自分の言葉で忠弘に語り掛けてくれていた。
「い、いま。綾乃ちゃん、なんて。。。」
言い終わらないうちに、
「お兄ちゃん。いつも私のそばにいてくれてありがとう!」
そういうと涙をぬぐって、再び満面の微笑みを見せた。それは、今までのどこか気を使った笑顔ではない。忠弘が取り戻してあげたかった心からの笑顔だった。
「綾乃ちゃん!」
忠弘は駆け寄り、湿った砂浜で服が濡れるのも構わずに綾乃を強く抱きしめた。東北の悲劇から三つほど季節を乗り越え、綾乃はとうとう言葉を発することができたのだ。
「お兄ちゃん。声出せたよ。」
「頑張ったな。話せたな。やっと綾乃ちゃんの笑顔が見れて嬉しい! 綾乃ちゃんの声、初めて聞けた。よかった。よかったな!」
そう言った忠弘は、顔をくしゃくしゃにしながら何度も何度も綾乃の頭を撫でてあげた。香織が駆け寄り、そっと二人を抱きしめた。たくさんの協力を受けて、忠弘の深い愛情を受けて、綾乃はとうとう自分の声を取り返したのだった。
第二章へ続く。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
\(^o^)/
とうとう声を取り戻した綾乃。忠弘の想いが天に通じましたね。
第二章は打って変わって『青春』がテーマになります。
恋愛あり、スポーツあり、涙あり、雰囲気は変わりますが物語は続きます。
また、引き続き読んでやるぞ!
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次回もどうぞお楽しみに!