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第一章 声を失った少女⑮ 倒れた綾乃

 大盛況のうちに文化祭が終了し、そろそろ冬の気配を感じ始めた11月。事件は唐突にやってきた。綾乃は喋れないながらも、志穂の協力もあって次第に友達を増やしていった。志穂以外の子が遊びに来ることもあり、忠弘も福原夫妻も安堵していた時だ。


 その日は部活もなく、授業が終わればそのままアルバイトに行く予定だった。しかし、五時限目の終了間際、忠弘の携帯電話に香織からのメッセージが受信された。授業中に携帯を見るのはいけないとわかってはいたが、気になってこっそり机の下で携帯を開いた。


『綾乃ちゃんが救急車で運ばれたから、今から鎌倉中央病院に行ってくる。午後は臨時休業にしたから、申し訳ないけど今日のアルバイトはナシでお願いします。』


 その文章を見た途端、忠弘は思わず飛び上がるようにして立ち上がった。


「大澤、どうした?」


 授業をしていた担任の南塚が驚いて忠弘を見ていた。周りのクラスメートたちも同じように忠弘に注目する。その中でも何かあったと察してくれたのは杏奈だけのようだ。


「先生! すみません。身内が救急車で運ばれたみたいなんで、早退します!」


 と、言い終わらないうちに、カバンを片手に教室を飛び出した。


「お、おお。気を付けて、行けよ・・・?」


 状況が呑み込めないままの南塚だったが、言い終わるころには、すでに忠弘は階段を駆け下りているところだった。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く中、上履きを履き替えて駐輪場に行くと、カバンをカゴに放り込んで出ようとするが、タイヤが回らずに動かないため、前のめりに倒れそうになる。


「鍵、鍵・・・。くそっ!」


 自分があせっているのがわかる。そして、ただ自転車の鍵を開けるというごく当然の事にもイライラが募ってしまう。


「忠弘! 慌てると事故るよ! 落ち着いて!!」


 忠弘の様子を心配した杏奈が、授業の終了と共にとりあえず追いかけてきた。


「何があったの?」

「綾乃ちゃんが倒れたららしいんだ。中央病院へ行ってくる。」

「わかった。でも、とりあえず落ち着いて。あんたが慌てて事故でも起こしたら元も子もないでしょ?」


 背中に手を当てられ、少し間を置くことで少しだけ冷静に慣れた。


「ああ、ありがとう。大丈夫、行ってくるよ。」


 忠弘はそう言うと、焦る気持ちを必死で抑えながら自転車を飛ばした。綾乃の搬送された鎌倉中央病院は、鶴岡八幡宮に続く若宮大路にある。この地域では最大規模の病院だ。忠弘も野球肘になった時にはお世話になった。


 途中、あまりの激走ぶりに車にクラクションを鳴らされたが、それにはかまわずに走り続けた。横断歩道を渡って病院にたどり着いた時には、ちょうど入り口で和元と香織が慌てた様子で到着したところだった。


「香織さん!」

「あ、忠弘君。早かったのね。」

「早退してきた。それより綾乃ちゃんは?」


 自転車置き場に無造作に自転車を止めると、忠弘は二人に駆け寄った。


「今日は課外授業だったらしいんだけど、その時に倒れたみたいなのよ。」

「熱中症になる季節でもないしどうしたんだろう。朝の様子は?」

「いたって元気だったわ。」


 とりあえず中に入ろうということになって、三人は受付で身内であることを伝えると、待合場所で待たされることになった。


 椅子に腰かけると、香織が状況を説明してくれた。


「今日、由比ヶ浜に課外授業があってね。お弁当を持って出かけたんだけど、現地に着いてからしばらくして、倒れて意識がなくなっちゃったみたいなの。詳しくはお医者様に聞いてみないとわからないんだけど。」


 綾乃の通う南小学校から由比ヶ浜までは、距離にして1kmちょっと、子供の足でも20分も見ておけば着くことができる。南小課外授業ではおなじみの場所だ。


 由比ヶ浜は鎌倉市の南に位置する海浜砂丘帯と呼ばれるもので、あまり知られていないが砂丘からは竪穴式の集落跡や古代の墓地などが発見されている。鎌倉時代では武家の激戦区とされ、現在でもこの地域では、建設工事中に当時のものと思われる人骨が発見されることもあり、時折工事関係者を驚かせている。


 最近では、そういった歴史的場所というよりも、もっぱら海水浴場としての知名度が高く、毎年百万人近い海水浴客が各地から訪れている。(2011年頃の記録)


「福原さん。」


 振り返ると、若い女性が沈んだ面持ちで歩み寄ってきた。南小で綾乃の担任をしている安田愛純(やすだあずみ)先生だという。その時の状況を聞くと、学校から海岸まで歩いて移動し、班別に分かれてお昼休憩を取ったら、海辺の生き物についての観察授業を行う予定だった。現地に着くまでは何も異常はなかったという。しかし、昼食をとっていた時に多少元気がないような気がしたが、食事はしっかり食べていたのでそのまま様子を見ることにした。


 しかし、昼食を終え、生物観察のために波打ち際に近付いた途端に、急に震えだしたかと思ったらしゃがみ込み、そのまま倒れてしまったのだという。


「申し訳ございません!」


 愛純はもう一度頭を下げた。


「でも、朝、家を出る時はあんなに元気だったのに。」


 香織がそう言ったのを聞いて忠弘は口を開いた。忠弘には『由比ヶ浜での課外授業』と聞いて思い当たる節があったのだ。


 綾乃は福原家に引き取られてからずっと『いい子』だった。声が出せない分、円滑な交流は出来ていなかったかもしれないが、日々の勉強はよくやっていたし、運動だって好きだ。家の手伝いも、忠弘が見ている限り同年代の子供よりも積極的やっていると思う。少なくとも、忠弘が小学生だったころよりはよっぽどよくやっていた。


「あのさ。多分なんだけど、ってかそれしか思い当たらないんだけど。」

「うん?」

「海がいけなかったんじゃないかな。」


 忠弘の一言に、その場にいた全員がはっとした。情けない話だ。大の大人がこれだけ集まっても、綾乃が『いい子』だったがために誰もが当たり前のことを忘れていたのだ。綾乃は東日本大震災の被災者だ。家も両親も、それこそ『故郷』を失った。新しい生活を始めたといっても、震災からはまだ半年しか時間は過ぎていない。その傷が癒えているはずもないのだ。海を見て震災の記憶を呼び起こしてしまっても仕方がない。それが例え、由比ヶ浜の穏やかな海だったとしても、だ。


「申し訳ありません。石山さんが宮城で被災したことはうかがっていたのに、配慮が足りませんでした。」


 教師という仕事は多忙を極める。小学校教諭ともなればなおさらだ。愛純は見たところまだ20代だろう。教職員業界では『1年先生』という言葉があるくらいで、あまりの激務に1年持たない教師が多いともいわれている。1年間先生を務めて、初めて教師として一人前になっていくという例え言葉だ。日々の業務の中で、綾乃一人のために気が回らなかったとしても、それは仕方のないことなのかもしれない。


「おれ、綾乃ちゃんのところに行ってくるよ。」


 まだ呼び出しもかかっていなかったが、忠弘は処置室の前に足を運んだ。扉の外から中をのぞくと、医師がベッドに横になった綾乃の脈を取っていた。綾乃は無表情のまま天井を眺めている。その瞳には光がなく、深い深い闇の色を見ることができた。


 忠弘は、ああ、やっぱりか。と思った。あれは、はじめて綾乃と会った時の瞳、子供なのにどこかすべてに期待をしていないような、絶望しきった瞳。本来なら、キラキラ輝く年頃の子が見せた暗い瞳を忠弘は見つめていた。


 小学校に通うようになり、志穂やほかにも友人ができたとはいえ、少しずつでも元気に笑うことも増えてきたとはいえ、それすらも、きっと綾乃が『いい子』であったがために、みんなに心配をかけないようにしていた虚勢だったのだろう。心からの笑顔ではなかったのだ。忠弘は小さく息を吐いた。



続く。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


綾乃を再び襲った絶望の感情。

東北で自分からすべてを奪っていった海。

心に広がるどす黒い感情。


綾乃は光を取り戻すことができるのでしょうか。


次回、第一章いよいよクライマックスへ!

どうぞお楽しみに!

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