第一章 声を失った少女⑫ 綾乃と杏奈との出会い
二人は食事を取りながら、メモパッドを使ってたくさんの会話をした。綾乃が学校でつらい思いをしていないかと思っていたが、志穂の協力もあって友達も増えつつあるらしい。それに、鉄棒が得意なことで一部のクラスメートから羨望のまなざしを受けているようだ。一生懸命メモパッドに書き込み、楽しそうに教えてくれた。
忠弘は綾乃がメモパッドを書いている間、急かすわけでもなくただそっと待ち続けた。すっかり食べ終えた後も、二人はいろいろな会話を楽しんだ。メモパッド一つでこんなにコミュニケーションが取りやすくなるのだ。我ながらナイスアイデアだったと自画自賛した。
「お代わりいるかい?」
和晴が声をかけてきたので、忠弘は苦みがありつつもすっきりした味わいが好まれるマンデリンと、綾乃にはオレンジジュースを追加した。カウンターで出来上がってきたカップを取りに行き、簡単に綾乃の境遇と声が出なくなったことを説明した。
「メモパッドとは思いついたな。」
「クラスに、お母さんが手話の先生をしている人がいてさ。言葉が出せなくてもコミュニケーションは取れるっていうのを聞いたことがあったんだ。さすがに手話はできないから、他にいい方法がないかなって考えたわけ。」
「忠弘にしちゃ、ナイスアイデアだ。」
「ひとこと余計です。」
和晴は笑いながら忠弘の背中をバシバシたたくと、コーヒーを淹れに戻っていった。ちょうどおやつ時だからか、お店は次第に混み始めていた。
その後も二人で話し込んでいると、すっかり時間は過ぎていったらしい。忠弘は綾乃との会話に夢中になっていてうっかりあることを忘れていたのだ。そう、今日は綾乃のことが心配過ぎてかっ飛んできてしまったが、本来、今日は演劇部のある日。そして、公演前の大事な大事な時でもあったのだ。
「た~だ~ひ~ろ~!」
と、低い声で言われながら、忠弘はいきなり背後から首を絞められた。いたずらではない。これは殺意を込めた締め方だ、細い指だとわかるのに、ぐいぐいと首に食い込んでいく。抗うこともできないまま、次第に息ができなくなっていきジタバタし始める。
「あんたねぇ。彼女と部活を放り出して、何のんきにお茶してんのよ!」
「あ、杏奈。やめ、苦しい!」
締め方が本気過ぎて、忠弘が身の危険を感じ始めた時、杏奈は綾乃の姿が目に入った。どうして忠弘がこんなに幼い子と一緒にいるのか、そして、この子はどう見てもかわいい美少女だった。
「忠弘、あんた妹さんなんていたっけ?」
それまで殺意を込めて絞めていた手を放して目を丸くした。杏奈の記憶では、忠弘には兄が一人いるだけだ。忠弘の下には弟も妹もいないはずだった。それを思い返した杏奈はすぐに眉間にしわを寄せて、
「あんた、まさかこんな小さな女の子ナンパして喫茶店に連れ込んでるわけ? うわぁ、そんな気はしてたけど、やっぱりあんたロリコ・・・」
「おい!」
白い目で見てきた杏奈を一括すると、忠弘は慌てて事情を話した。綾乃が福原家に引き取られたこと、震災のショックで声が出せなくなったこと、綾乃が心配で部活をすっかり忘れていたこと、などなど。ここぞとばかりに説明と、ついでに言い訳もたっぷりと添えて。
説明を受けて、杏奈も少しは納得してくれたようだ。
「そっかぁ、大変だったんだね。綾乃ちゃん、私は橋本杏奈。忠弘とは腐れ縁でお付き合いしてます。家も近いと思うし、女の子同士、仲良くしてくれると嬉しいな。」
ゆっくり、はっきりとそう話しかけると、綾乃は緊張したように小さくうなずき、メモパッドに書き込んで杏奈に見せた。そこには、
『よろしくお願いします。』
と小さく書かれていた。
「うん。よろしくね!」
杏奈はうれしそうに微笑んだ。
「ってか、バイトに来るの早くない? いつもは夕方からだろ。」
「どっかの誰かさんがさぼったおかげで、大した部活になんなかったのよ。」
と言いながらカバンから書類を取り出して手渡しながら、
「というのはウソなんだけどね。急きょ業者さんが入ることになったから、今日は早めに終わったんだ。」
そう説明してくれた。書類には工事日程と、その間は部室に入れないための説明が書かれていた。道具もロクにそろっていない今、また、何人かが体調不良で部活を欠席したため、発声練習とストレッチくらいで解散してきたとのことだった。まだまだ残暑で暑さが厳しい日々だが、夜は涼しさを感じるようにはなってきた。そのためなのか、これまでの暑さに体力が切れてしまったのか、体調を崩す者は部活内だけでなく学校全体でも増えている。校長がくれぐれも注意するようにと言うくらいだった。
「文化祭まで時間がないってのに、どうしたもんかな。」
文化祭では演劇部も午前と午後と発表会をすることになっているが、まったくもって練習が進んでいない。部員全員が台詞を言えるかどうかすら怪しいものだ。演劇は台本が決まると各々自分の役作りをしていくが、ドラマの撮影と違って本番が始まれば幕が下りるまで一冊の台本が止まらずに進む。そのために、自分の台詞はもちろんだが、全員の台詞を覚え、なおかつ動きも頭に入れなければいけない。演劇で役者をすると言うのは究極の『暗記』であるともいえる。
「ま、なるようにしかならないか。」
その時、立て続けに来店があった。
「じゃあ。私着替えてくるから、ゆっくりしていってね。忠弘は帰ってからでいいから文化祭までどうするのか考えなさいよね! 綾乃ちゃん、またね。」
杏奈は手を振りながらバックヤードに入っていった。まるで秋雨前線ならぬ台風が過ぎ去っていったかのようである。
「忙しい奴だろ? でも、あれで面倒見は抜群にいいから、おれに相談しにくいことは聞くといいよ。」
綾乃はうなずくと、再びメモパッドに何か書き始めた。そして、何度か書き直したのちに遠慮がちに書きあがったものを見せてくれた。
『お兄ちゃんの彼女?』
それを見て忠弘は照れくさそうに頭をかいた。
「ちゃんと付き合い始めたのは春先からなんだ。小学校のころからの付き合いだから、恋人同士というより、友達の延長線かな。」
『ふーん。』
そう言うと、綾乃はメモを消すと、無表情になって再び書き込みを始めた。
『混んできたから、そろそろ帰ろう。』
店内の座席はほぼ埋め尽くされていた。店の売り上げのためには、あまり長時間座席を占領してもよくない。
「そうだね。行こうか。」
忠弘は和晴に声をかけて会計を済ませると、福原生花店へ向かった。と、言ってもほとんど目の前の距離ではあるが。
「どしたの?」
突然、綾乃が手をつないできたので忠弘は首をかしげた。手をつないだというか猫が飼い主に甘えて寄り添ってきている感じだ。常に遠慮がちな綾乃の甘えん坊な仕草に、忠弘はちょっと照れくさくなってしまった。
そのまま生花店に入っていくと、
「あらあら、すっかり懐いちゃったのね。ホント、兄妹みたいよ。」
香織がほほえましそうに声をかけた。しかし、なぜか綾乃はちょっと膨れたような顔をして、忠弘から離れると家の中に駆け込んでいってしまった。もしかすると、兄妹と言われることがまだ馴染めないのかもしれない。
「香織さん。さっき、メモパッドを買ってみたんだ。それで綾乃ちゃんと会話できるようになったから、たくさん話してあげてください。」
「メモパッド? へぇ、よく思いついたわね。ありがとう。」
「今日、保健の先生に綾乃ちゃんのことを相談したんです。家族も故郷も失って、世界に自分一人だけだと思ってしまってるんじゃないかって。だから、一人じゃないってことを示してあげたらいいってアドバイス受けて。」
「そうね。」
「だから。おれ、できる限り綾乃ちゃんのそばにいてあげたいって思います。綾乃ちゃんの兄貴分になれたらいいなって。」
忠弘がそう言うと、香織はうれしそうにうなずいてくれた。
「綾乃ちゃんは一人っ子だったそうだから、忠弘君がお兄ちゃんになってくれたらあの子も嬉しいと思うわ。引き続きよろしくね!」
「はいっ!」
そう言われ、使命感に燃え、頷く忠弘であった。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回は忠弘たち演劇部の文化祭公演です。
上手く稽古ができない中、忠弘は苦肉の策を打ち出します。
どうぞお楽しみに!