第一章 声を失った少女⑦ 鎌倉散策
翌朝。忠弘は朝食を済ませると、
「綾乃ちゃん。ちょっと、遊びに行こうよ。」
リビングでぬいぐるみを抱えて呆けている綾乃に声をかけた。綾乃はゆっくり顔を上げて忠弘の顔を見た。相変わらず無表情だったが、忠弘に促されて立ち上がった。どうやら付き合ってはくれるらしい。忠弘は嬉しそうに微笑むと、
「よっしゃ。じゃあ、まずは鎌倉の街を案内しようか。」
言うが早いか、綾乃の手を取り小町通りへ飛び出した。そして、まずは鎌倉のシンボルともいえる鶴岡八幡宮に出た。鶴岡八幡宮は鎌倉市雪ノ下にある神社で、鎌倉幕府所代将軍・源頼朝ゆかりの神社として知られている。ちなみに『鶴岡』とは、河内国(現在の大阪府羽曳野市)を本拠とする源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都石清水八幡宮護国寺(壺井八幡宮と言う説もある。)を鎌倉の由比郷鶴岡(現在の鎌倉市在木座)に鶴岡若宮として歓請(神霊を分ける分霊のこと。)したのが始まりと伝えられていて、本宮は国の重要文化財にも指定されている。
二人で境内へ向かう石畳を歩く。9月に入ったと言っても、例年に違わずに今年も残暑は厳しい。朝のニュースでは、今日も最高気温は30℃を余裕で超えてくると言っていた。
「ふぅ、今日も暑いね。綾乃ちゃん、大丈夫?」
声をかけると、返事の代わりに綾乃は小さくうなずいた。その小さな額にはうっすら汗がにじんでいたが、こうやって外に出かけるのが久し振りなのだろう、綾乃自身も気が付いていなかったが、彼女の小さな身体はこの少しのアクションを欲していたようだ。何もかも無気力だった自分の心に、なにか少しずつ新しい感情が沸き上がってきているのを感じていた。
「そっか、もし疲れたら教えてね。」
二人はそのまま境内まで行き、そこでお参りをすることにした。忠弘がここに来るのは正月以来だ。杏奈と初詣に来て、新年早々のおみくじは『凶』だった。ゴソゴソと財布から5円玉を取り出すと、
「はい。願い事は決まったかな?」
そう言って綾乃の手に握らせた。賽銭箱に投げ入れ、忠弘は手を合わせてお祈りをしようとした。そこでふと綾乃を見ると、5円玉を握り締めたまま、どうしていいかわからない様子だった。
「この5円玉は神様にお願いごとをするために賽銭箱に入れるんだよ。そしたら、こうやって手を合わせてお願いごとをするんだ。」
忠弘に説明されて、綾乃は5円玉を賽銭箱に投げ入れた。そして、見よう見まねで手を合わせて祈った。その姿を見て、忠弘も手を合わせてお祈りをした。
『神様。どうかこの子がまた笑顔になってくれますように。』
こんなに小さな子がつらい思いをしてここに来た。せめてこれからは楽しい思い出をいっぱい作っていってほしい。そのためにまずは綾乃が笑顔になってくれることを祈るばかりだ。忠弘がお祈りを終えると、綾乃はすでに祈りを終えて忠弘を見上げていた。
「はは。お待たせ、さぁ行こうか。」
あまりに熱心に祈っていたことに気が付き、忠弘は照れを隠すように笑って次に行こうと促した。境内を出ると、石畳にある出店で焼き銀杏を二袋買った。
「食べたことある?」
忠弘の問いに、綾乃はゆっくり首を振った。忠弘は塩を振った銀杏を取り出すと、二粒綾乃に渡した。
「食べてごらん。」
そう言って自分も頬張った。塩加減が効き、旬の銀杏の風味が口いっぱいに広がった。一袋は和元のつまみ用である。香ばしい味が気に入ったのか、綾乃の表情が少しだけ和らいだ気がした。
「美味しい?」
忠弘の問いかけに、綾乃は小さくうなずいた。
「それはよかった。でも、銀杏って栄養価高いんだけど、食べ過ぎるのは身体に良くないから続きはまたあとでにしようね。その代わり、もっと美味しいもの教えてあげる。」
そう言って、小町通りへ戻ることにした。余談だが、銀杏には4-メトキシピリドキシンという有毒成分があり、食べ過ぎると中毒症状を起こし、おう吐や痙攣といった症状が出る。もっとも、数十個食べて出るかどうかのレベルなので、そこまで心配することではないのだが、子供になればなるほどその中毒が起きやすい。綾乃のように小学生くらいだと、せいぜい数粒にしておいたほうがいいようだ。
小町通りに入ると、週末のせいか、それとも昼前のせいかすごい人数の人出である。
「綾乃ちゃん。迷子になったらいけないから、手を繋いでもいいかな?」
無言だったが、綾乃が頷いてくれたので、はぐれないようにその小さな手をしっかり握り、目当ての店を目指した。最初に出向いたのは『鎌倉からあげ』のお店だ。
「おう、花屋の坊主。元気にしてたか?」
声をかけてきたのはこの店の店長だ。まだ若く見えるのだが、白髪交じりの長い髪を後ろで束ねているのを見る限り、忠弘が思っているよりも年齢は上かもしれない。
「部活とバイトばっかりだよ。おじさん、からあげパック二つちょうだい。」
「おう。」
店長は慣れた手つきでからあげを専用のパックに入れ始めた。
「ところで、そのお嬢ちゃんは福原さんちの子かい?」
「そうだけど。知ってるの?」
「詳しい事情は聞いてないが、大変な目にあったってのは聞いてるよ。ほら、一個おまけしてしておくから、元気出せよな!」
そう言って、店長は綾乃にからあげを持たせた。綾乃が声を出すことはなかったが、一度深々とお辞儀した。その所作が実に自然で、もともと綾乃は礼儀正しい子なんだろうなと思わせた。
「坊主。しっかり面倒見ろよ!」
「わかってるよ。からあげごちそうさま!」
そう言うと、続いて駅に近いところにある『鎌倉あげ』の店に向かった。この店はかまぼこや、それらを油で揚げた鎌倉あげが売りのお店だ。タコに大葉にゴボウ、シラスなどを練りこんだ『あげ』は、噛めば噛むほど味が出ていくらでも食べられると人気のお店になっている。
「おじさん。生姜としらすとタコ、二本ずつちょうだい。」
「あいよ。おっ? なんだ忠弘。お前さん、妹なんていたのかい?」
「違うよ。この子は福原さんちの子だよ。」
そう言われて、お店の大将は綾乃の事情を聞いていたことを思い出したらしい。からあげ屋の店長も、このあげ屋の大将も和元の飲み仲間だ。綾乃の事は引き取る事が決まってからいろいろ相談していたはずだ。
「おお、そうかそうか。忠弘、子供の面倒なんて偉いじゃないか。」
「ありがと。じゃあ、プレーンもおまけしてくれる?」
「けっ、調子の良い野郎だ。お嬢ちゃんに免じて付けといてやるよ!」
「サンキュ!」
忠弘は袋を受け取ると、綾乃を連れて小町通りを少しはずれた裏通りに出た。ここにもベンチが設置してあるが、通りから外れている上に、住宅地に面しているために滅多に埋まることがない。そもそも鎌倉では『食べ歩き』はできても、『歩きながら食べる』のはご法度だ。観光地はみんなのもの、来訪したすべての人が気持ちよく楽しめるように、店先や店内、あるいはここのようにベンチに座って食べ、ゴミはきちんと持ち帰って処分するのが礼儀であり、鎌倉ルールだ。
二人は飲み物を買って並んでベンチに腰掛けると、お昼代わりに『鎌倉からあげ』と『鎌倉あげ』を食べることにした。小さな口でゆっくりと食べる綾乃だったが、どうやら食べることは好きで、どちらも気に入ったらしい。一心に食べる姿を見て忠弘は口元が緩んだ。
「気に入った?」
忠弘が声をかけると、夢中になっていたことに気が付いたのか、綾乃は顔を真っ赤にして小さくうなずくと、恥ずかしそうにうつむいてしまった。
初めて見る綾乃の感情的な表情だ。どうやら、声が出せなくなったというだけで感情はしっかりしているようだ。心があるのなら声なんてすぐに取り戻せるし、きっと、もっと素直な笑顔を出すこともできるだろう。忠弘は根拠はなかったがそう確信した。
「はは。美味しいからしょうがないよね。おれも食べるのに必死になっちゃった。また、食べようね。」
その言葉に、綾乃は再びうつむいて、相変わらず赤い顔をしてもう一度小さくうなずくのだった。
続く。
ここまでお読みいただきありがとうございます。\(^o^)/
綾乃を元気にするために鎌倉の街を案内する忠弘。
次回は綾乃にとって大事な出会いがやって来ます。
忠弘は綾乃の声を取り戻せるのか。
次回もどうぞお楽しみに。
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