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作者: 向こう側

 窓の外には荒野が広がっていた。荒れ果てた地表、枯れた草木、B級映画のセットのような光景が心にざらりとした感触を残した。僕は無意識の内に目を背けた。

 その事を咎めるかのように、生暖かい風が吹いた。焦らすような、絡め取るような風だった。風が体の表面を撫でていくのと同時に、荒野が消え、現実の風景が立ち現われてきた。

 駐車場が広がっていた。その無表情な様子は、病院の頑なな白と妙に合っていた。病院の周りには申し訳程度の草花が植えられており、病人に慰めを、訪れる人に安心感を申し訳程度に与えていた。

 病院を出入りする人々の様子が、三階の窓から見て取れた。彼らは一様にして同じような表情をしていた。自分には病院に入る資格があるのだろうか、と何かに怯えているような表情だった。

 太陽はまるで光を病院の白に反射されまいとしているように、自らの職分を全うしていた。病院の廊下は明るいのに暖かみは無く、それと同様に、人はたくさんいるのに人気はなかった。

 「すいません」僕は女性の看護師に話しかけた。彼女はまるで病院内の規律を示すかのような歩き方をしていた。こつこつと無機質な音が耳を刺した。

 「はい、何ですか」綺麗な声だった。しかし、そこには少なからずの苛立ちが感じられた。

 「空永さんの病室はどこですか?」

 僕がそう聞いた途端に彼女の表情が明らかに変わった。どこか奇妙な印象を受ける愛想笑いがすうっと消え、代わりに人に育てられた動物を憐れむかのような表情が浮かんだ。

 「空永さんとの関係は?」彼女は、遠慮がちに、また恐る恐る聞いてきた。

 僕は彼氏です、と言おうとして

 「恋人です」と言い換えた。この場合はこちらの方が適当な気がした。

 「そうですか」彼女は心底安心したかのような笑顔を見せて

 「この廊下をまっすぐ行ったところです」と言った。

 「面会できますよね?」

 「はい、もちろんです」彼女は最愛の人を戦場に送りだすかのように、頷いた。

 そんな彼女の様子を見て、ほんの少しだけ気分が楽になった。でも、先程感じた心の感触は、拭い去れぬ宿世のように僕の心にこびり付いていた。

 奇妙な違和感を背負った僕の心と裏腹に、スリッパはぱたぱたと間の抜けた音を廊下に響かせていた。

 廊下にアルミ椅子が置かれており、そこに舞の母親が座っていた。苦痛な様子で、くたびれた文庫本に目を落としていた。

 僕が彼女に頭を下げると、彼女も僕と同じように頭を下げた。ある種の鋭敏さと、ある種の無感覚さを共に体現しているかのような顔付きをしていた。どちらかと言うと、彼女が病院のベッドに寝転んでいる方がふさわしい気がした。

 病室のドアはスライド式であまり力をかけなくてもすっと開いた。

 半分だけ開いたカーテンから光が差し込んでいた。舞の上半身だけが何かの罰を受けたかのように光を帯びていた。舞は光と影の境界線を探るように、じっと目の前を見つめていた。

 僕が病室に足を踏み入れると、ぽすっとスリッパが情けない音を立てた。

 舞はまるで転んだ幼児が母親に助けを求めるような目線で、僕を見つめてきた。

 僕は反射的にコンビニのビニル袋を上に挙げた。右手に握られたビニル袋にまでは光は届かず、寂れた場所に置かれた気の毒なオブジェのように見えた。

 「プリン買ってきた」

 「うん」舞は少し寂しそうに呟いた。

 僕は一欠けらの罪悪感を抑え込んで、ベッドの脇にイスを出して座った。

 ベッドに備え付けられたテーブルにプリンを置き、プラスチックのスプーンで食べた。舞は喋らないし、僕も喋らない。スプーンと容器がぶつかる度にかちゃかちゃと音を立て、それが心地良くもあった。

 ふと、何故僕らはこんな所にいるのだろう、と思った。何かを守るというより、拒絶しているように見える病院に、光さえも入ることが出来ない病室に、何故僕らはいなくてはならないのだろう。

 休日の昼過ぎ。普通の恋人同士は小さな声で愛を囁き合っているのかもしれない。少し遅めの昼食をファミレスで食べているのかもしれない。

 僕らと彼らの間にどのような違いがあるのだろう。あるとすれば、チューブ一本分、包帯一枚分の違いだ。しかし、その現実的な事柄が象徴しているのは、その谷の底を見るよりはひいひい孫を見る方が簡単だ、と称されるマジ・マジ・ジジル谷のように深い違いなのかもしれない。

 出来ればだが、僕は一歩でその谷を渡りたかった。いつものような、何気ない一歩で。

 僕は最近読んだ本の話をするだろう。彼女は女友達のかなり際どい冗談を言うだろう。僕はそれに苦笑しつつも先を促す。彼女は得意げな顔で続きを話し始める。

 「ねえ」と舞が言った。

 「うん?」

 「何、その荷物?」舞が、僕が背負っているバックを指して言った。興味は無いけれど一応聞いておく、といった口調だった。黒いバックは雨に濡れた犬のようにぐったりと僕の肩に寄りかかっていた。

 「勉強道具。一緒に勉強しようと思ってさ。どうせ、暇だろ?」

 舞は少しの間、唇を噛んで考えていたが

 「良いよ」と小さな声で言った。そこには諦めもほんの少し含まれていたのかもしれなかったが、僕には分からなかった。

 「じゃあ、数学でもしようか?」舞は数学が得意だ、というか勉強全般が得意で頭の回転が速い。つまり、頭が良い。

 「いや、倫理が良いな、駄目?」

 「ううん、良いよ」

 数学を勧めたのには理由があった。数式を解くのには、ただ単に頭を働かせるだけで良いからだ。正確性がもっとも重視されるその世界では余計な事を考えずに済む。

 よりよって倫理か、と僕は思った。哲学とは人間について考えるものであり、その考察は否応なく人間の生死にも及ぶ。ともすれば、何気ない偉人の一言が、舞の精神状態に悪影響を与える可能性もあった。

 でも、今日の舞はいつもの様に落ち着いて見えたし、何より舞が望むなら、と思い、僕は勉強の準備を進めた。

 僕はバックから、倫理の教科書、ノート、参考書を取り出しながら、そういや、舞は倫理が好きだったなと思いだした。

 あんな馬鹿な事、本気で考えてるなんて、最高に面白くない?舞は茶化すように言ったが、僕はそこに同情や、共感といったものを感じた。舞が哲学者や偉人に対して、不思議なシンパシーを持っているように感じられたのだ。

 舞は無表情に参考書を眺めていた。僕は適当に教科書を開いた。すると、不敵と言うには弱々しく、また気難しそうな顔をしたヘーゲルが映っていた。人間は必然的に他人からの承認を得る為に、戦うものだ、たとえその闘争により命を失ったとしても、と言った男だ。

 その教科書にはいかにもヘーゲルらしいエピソードが載っていた。

 一八一八年、当時ヘーゲルは五十歳近くで、ベルリン大学の正教授を務めていた。

 講義を終えたヘーゲルは、ベルリン大学の中庭にある、いささか軽率な色をした空色のベンチに座っていた。彼には考えるべき事がたくさんあった。惑星軌道論、政治学、更には体制改革を求める暴動にも頭を悩ませていた。

 そこに一人の少年が現れた。干したての麦のように、綺麗な金髪の少年だった。だが、その顔には明らかに絶望感が浮かんでいた。ああ、この世界はどうして僕にこんなひどい仕打ちをするのだろう、と言ったような。

 ヘーゲルは少年をちらりと見たが、すぐに、また自分の思考に沈んでいった。彼には少年の、おそらくはちっぽけであろう悩み事に耳を貸す暇はなかった。

 その事を感じたのか、少年は怯えながらもヘーゲルに近づいた。目と目が合い、少年ははにかむように笑った。少年は小さな体に相応しいちっぽけな勇気を振り絞ると

 「何で、お母さんは僕に構ってくれないの、ずっと弟にかかりっきりなんだ」と早口で言った。

 ヘーゲルはその言葉を咀嚼し、適切な答えを与えた。ヘーゲルにとってそれはほとんど反射的な行為であり、少しの労力を割くものではなかった。

 「大丈夫だよ、君が強く望めば、承認は誰にでも訪れるんだから」

 軽やかな風が木々、を揺らした。ベルリン大学の淡い色をした壁が太陽の光を受け輝いていた。

 そりゃないぜ、ヘーゲルさん、と僕は思った。彼はその時、たとえ哲学的に矛盾していようとも少年に暖かい言葉をかけるべきだったのだ。少年がその言葉を胸に、夜に安心して眠りにつけるような真っ直ぐな言葉を。

 ヘーゲルさん、あんたは間違ってる、と僕が決して届くはずのない苦言を呈した時、急にぱたっという音がした。

 僕は天国のヘーゲルが怒って雨を降らしたんじゃないか、と思い空を見た。空はいつもと少しも変わらない青色を生きとし生けるものに見せびらかしていた。

 また、ぱたっと音がした。

 倫理の参考書が、またベッドのシーツが染みを作っていった。それは落ちこぼれが書いた未来の世界地図にも見えなくはなかった。

 舞は泣いていた。

 「どうした?」僕は声をかけた。

 「なんで、何も聞かないの?」舞は嗚咽を漏らしながら言った。腕に付けられた点滴のチューブが揺れ、左手首に付けられた包帯が目に入った。左手首、最も長く傷口を見ていられる場所、だそうだ。

 僕は答えなかった、いや、答えなくなかった。

 舞は、僕の顔を見ると、シーツに顔を埋めてごめんね、ごめんね、と繰り返しながら泣いた。シーツが面白いように濡れていく。

それと同時に、僕の心がだんだんと名付けがたい感情に侵されていくのが分かった。例えるなら、中学生の演劇、耐えがたい違和感に逃げ出してしまいそうな程だった。

 僕は、笑ってしまうぐらい安っぽい包帯を掴んだ。舞の左手首を上に挙げる。舞は左手を上げ、上目づかいに僕を見上げるような格好になった。

 僕は、祈るような気持ちで舞の手首を握った。傷口から血が滲みだし、包帯を赤く染めた。僕は右手に舞の血の温かさを感じた。

 いつの間にか、空は黒に落ちていた。まるで、星の消えた宇宙のような暗闇が窓の外に広がっていた。そこには何もかもが存在し、また何もかもがなかった。その闇に潜んでいるものがいるとすれば、そいつは何を望んでいるのだろうか。

 舞の顔からは血の気が失せ、白というよりはそのまま霞んで消えてしまいそうな色をしていた。舞の後ろに拡がる漆黒とその色の不思議なコントラストが僕を我に返らせた。

 「ごめん」と言い、僕は舞の手首を放した。

 舞は放心したかのように、血に染まった包帯を見つめていた。まるで、今まで生きていると思っていた友達が、実はぬいぐるみだと気付いた子供のように。

 僕がナースコールに手を伸ばそうとすると、舞がその腕にそっと触れた。

 舞は造形美を目的に作られたような、ぞっとするほど優しい笑顔を顔に張り付け、綺麗な涙を一滴、僕の腕に落とした。その涙はまるで生きているみたいに僕の体に入ってきた。

 僕も舞と同じように、涙を流すという行為をしたかった。でも、僕に涙を流す資格は無いらしい。たまらなく悲しく、空しいのに涙は一滴も流れてくれなかった。


 ナースコールで飛んできた女性は、看護師というより近所のおばさんみたいな雰囲気を持った人だった。彼女は、偶然に命を与えられて困っているペアルックのマネキンのような僕らを見て、瞬時に適切な処置を施してくれた。

 まず、舞の包帯を巻き直し、肩を抱いて落ち着かせた。その時、僕に対して出て行ってくれ、というような事を言ったかもしれないが、僕は時代遅れのかかしみたいに呆然と舞の姿を眺めていて、おばさんの声は聞こえなかった。

 舞をベッドに寝かせてから、看護師のおばさんは僕を病室から連れ出してくれた。僕は病室から出る時、舞の方を振り返った。ベッドに横たわった舞の姿は、もう遊ばれなくなった折り紙のように薄っぺらだった。太陽の光に燃え尽きて、灰になってしまいそうな程だった。

 光はまだ降り注いでくれるのか、良かった、と僕は思った。舞が変ってしまったとしても、少なくとも空は青いままだ。

 病室から出ると、舞の担当の先生の所に連れて行かれた。精神科、と極めて機能的で現実的な看板が掲げられた部屋に先生はいた。落ち着いた感じのする、銀縁眼鏡が良く似合う男性だった。三〇歳前後だろうか、こういう人が社会にとっては必要なんだろうな、と僕は鈍い頭で思った。

 彼は、舞さんの母親からは許可を得ているから、と言い僕に舞さんの病状を知りたいか、と尋ねてきた。

 その時、僕は何を言ったのだろうか、出来る事なら舞の病状なんて一つも聞きたくなかった。病状?舞は病気なのか?

 舞さんには現在、軽いうつ病、また境界性人格障害、そして不眠症の症状が表れています。これらの病気の事は大体分かるよね。幸い、傷は浅いし、ODもないから自傷願望はそれほど強くないと診断できるんだ。でも話を聞いていると、不眠症の度合が強いからデパスとリボトリールを処方した。これらの薬には精神を安定させる作用があるからね、眠りやすくなるんだ。まあ、その分副作用もあってね、それが今日の行動にも影響してるんだと思う。まあ、一種の精神的なてんかん行動だね。それでね……。

 先生は時折眼鏡を上げながら、淡々と語った。暗記している事項を学会か何かで発表しているような口調だった。

 先生の言葉はすらすらと頭の中に入ってきたが、意味を成すことはなかった。ただ、うつ病、境界性人格障害、不眠症といった病名だけが頭の中をぐるぐると巡った。それらの言葉は手に触れようとしたら、すぐに消えてしまった。

 ところでさ、話が一段落したところで先生が言った。参考までに、といった感じだった。

 「紺野君はリストカットについて何か知ってる?」

 僕はその言葉を聞いた途端、弾かれたように立ち上がり

 「すいません、今日約束があるんで、もういいですか」と言い部屋から出た。

 背中の方で、先生がため息をついたのが分かった。何度もしすぎて、本来の働きを失ってしまったようなため息だった。

 おそらく先生はこの後舞の病室に行き、彼氏はさっきの事を気にしてなかったみたいだよ、だから君もあまり気にしない方が良い、ゆっくり治していこう、などと言うのだろう。

病院のロビーにはたくさんの人がいた。車いすに座ったおばあさんが嬉しそうに再放送の時代劇を見ていた。小学生ぐらいの少年が熱心な様子で携帯ゲームに興じていた。

 外に出ると、太陽は薄い雲に遮られてしまっていた。空を見上げると昼間だというのに、出来損ないの半月が申し訳なさそうに浮かんでいた。

 僕は軽く深呼吸をした。先ほどの事はあまり考えないようにして、腕時計を見た。いつ見ても変わらないデジタル文字は三時ちょうどを表わしていた。

 そうか、今、日本は三時なんだ、と僕は思った。何もすることも思い浮かばなかったので、目についた喫茶店に入り、コーヒーを注文した。店員の人が僕をちらちら見るので、何でだろうと思うと、手に舞の血が付いたままだった。

 血は完全に固まっており、僕が手を握ったり開いたりすると、まるで暴かれた仮面のようにぽろぽろとはがれた。僕は木のテーブルに散らばった血の欠片をじっと見つめ、それに飽きると今まで血に包まれていた手を眺めた。手は以前より、ほんの少し強くなっているような気がした。

 店員がひきつった笑いを浮かべながらホットコーヒーを運んできた。

 僕は何となくブラックでコーヒーを飲んでみた。苦味が口の中に広がり、苦味のまま喉を通り胃に落ちていった。後味も苦かった。僕は何を考える訳でもなく、血の欠片を口に運んだ。

 鉄に似た、酸っぱい味がした。

 僕はゆっくりと口の中で血を溶かし、体中に染み込ませた。

 ブラックは飲めそうになかったので、砂糖とミルクを加えた。

 コーヒーの黒と、ミルクの白が渦巻きながら、混ざっていく。その色は僕に雨が降って出来た運動場の水たまりを思い出させた。


 舞と初めて口を交わしたのは、三か月前の高二の春だった。

高二の春。何だかその言葉は、無条件に素敵にまた儚く響いた。内容のないラブストーリーにありそうなタイトルだな、とも思った。

 僕が通っている高校はこじんまりとした住宅街の中にあった。少し小高い所に建っており、生徒は校門にたどり着くために長い坂道を歩いて来なければならなかった。道の両脇には桜が植えられており、春には立派な花を咲かせた。しかしと言うべきか、やはりと言うべきか高校生に桜に心奪われる者はおらず、ああ綺麗だな、と通りすぎるだけだった。

 その日は雨が降っており、地上に降りた桜の花びらが泳ぐように坂道を滑っていた。僕は教室から登校して来る生徒を眺めていた。皆が差した色取り取りの傘が、僕には地上を彷徨う魂のように見えた。もしも僕が神様なら、救うべき魂を見つける事が出来ないだろう。

 早くに教室に着いた生徒達は真剣に無駄話をしていた。彼らの顔からは奇妙な切実さが感じられた。僕の横にもそんな切実さに駆られた男子生徒がおり、あれこれ話しかけてきた。クラスに一人はいる、いわゆるお調子者というやつで、まるで自分の役割を果たそうとするかのようにいつも喋っていた。クラスがクラスとして機能するにはこういう奴が必要なんだろうな、と朝早くに寝ぼけた頭で考えた。

 昨日のテレビ何見た、この前カラオケ行った時なんだけどさ、そういやあの噂知ってる。

 僕は机に顔を伏せ、手を振った。彼はそれをある種の挑戦と受け取ったのだろうか、口のギアをますます上げ始めた。

 それと比例するように僕の頭も熱くなっていった。雨で冷やされた空気が心地良く、いつまでも雨が降っていれば良いのにな、と日頃は雨が嫌いなくせに、そう思った。そう思ったのが最後に、僕の思考は地上に墜落した。


 気が付くと保健室にいた。最初の目に飛び込んだのは白い天井で、まるで天井の壁がエスカレータのように流れていくように見えた。それを見ていると、何やってるんだ俺は、という気持ちになり体を起こした。

 頭が愚鈍な石のように重く、ミリ単位で動かしても痛かった。

 「三十八度五分」隣のベッドから女の人の声がした。

 舞は保健室のベッドにジャージ姿であぐらをかいていた。まるで自分の部屋にいるような雰囲気だった。ありきたりだけど何故か目を引く茶髪のロングヘアー、小動物に例えるには可愛げが足りない大きな瞳。

 「普通なら学校になんか来ないよ」舞は心底あきれた、という風に言った。

 「普通じゃないんだ」と言いながらも、確かに何で来れたんだろう、と自分でも不思議に思った。

 「そうなんだ」舞は特に興味はなさそうに言った。

 「空永さんだよね」僕は舞を見つめて言った。

 「紺野」舞は僕を指さして言った。

 「呼び捨てなんだ?」

 「うん」

 辺りを見回したが、保健室の先生はいないようだった。舞は僕の考えを読み取ったのか

 「先生ならいないよ、良くいなくなるの。特に私がいる時は」

 そうなんだ、と呟き僕はベッドから降りた。壁の時計は九時前を指していた。一時間近く眠っていたことになる。それなら、二時間目にはまだ間に合うな、と思った。保健室での休養は原則として一時間とされていて、それでも治らないなら自宅に帰って休養することになっていた。

 舞は立ち上がった僕を見て

 「まさか教室に戻る気?」と聞いてきた。

 そうだけど、と僕が答えると、舞はアメリカのホームドラマみたいな大げさなリアクションをしてみせた。信じられないわ、ジョージという風に両手を挙げた。

 「そこに先生が置いていった薬があるからそれを持って、家に帰ったほうが良いんじゃない」家の人を呼ぶか、暇な先生に送ってもらえば、と付け加えた。

 まあ、無理して戻る必要もないかな、と僕は思った。幸い今日は体育と保険があり、出席する生徒にとっても授業に出られない生徒にとってもいわゆる当たりの日だった。

 「空永さんは帰らないの?」と僕が聞くと

 舞は僕の質問が聞こえなかったのか、いきなり

 「空永舞はリストカットをしている」と言った。深夜の社会派ドキュメントのナレーションのような口調にも、単なる冗談のようにも聞こえた。僕が注意深く無言の姿勢を貫いていると

 「聞いたこと無い?」と舞は畳み掛けるように言った。

 「ある」と僕は正直に言った。誰々が誰々とやったやら、誰々が妊娠しているとか言った噂は高校生にとってはガソリンのようなもので、それを無理やり面白がることによって生きているのだ。こういう噂は休日のグルメ番組より良くあるものだ。

 「どう思う?」舞の言葉からは何の意図も感じる事も出来なかったので、僕も思った事をそのまま伝えることにした。

 「そうなのかもしれない」

 「そうなのかもしれない?」舞は初めて聞いた、とでも言う風に繰り返した。その語感を楽しんでいるようでもあった。そして、観念したかのようにふくっと笑った。

 「じゃあ、二択でお願い」舞は笑いながら、冗談半分に拝んで見せた。もし、当たったら美人の友達紹介してあげる、と付け加えた。

 よし、と言いながら僕はベッドに腰かけた。ベッドはがしっと音を立て、確かな安定感で僕に応えてくれた。

 やっていてもおかしくはないな、と僕は思った。朝から保健室にいるということは何らかの肉体的、精神的欠陥があるからだ、とかこの質問をすること自体が証拠だ、とか色々な理由はあったが、結局は直感に任せる事にした。

 「している」と僕は言った。舞からは、そういった雰囲気を感じた。例え自分を追い込むことになっても確実な理由を求める覚悟がある、というような雰囲気だった。強いから危うく、危ういから強い、思い。

 「正解」と舞は言うと、ジャージの左袖を捲り上げた。左手首から肘にかけて包帯がされており、その上からネットのようなものが掛けてあった。それは見ていて心地良いものではなかったが、舞の左腕に綺麗に収まっていた。舞は目の前にいるのに、左腕だけがやけに遠くに感じられた。

 「自慢じゃないけど、僕にだって傷くらいある」と言い、僕は学生ズボンを挙げて右足のすねを見せた。そこにはまるで火傷したかのような黒い跡があった。

 「これは昔飼ってた犬に噛まれたやつ、ちなみに名前はパンチョ。それから……」

 それから何分かの間、僕は自分の体にある傷を見せ、それに関するエピソードを披露した。頭の傷を髪の毛を掻きあげて見せながら、僕は何をやっているんだ、と思った。

 掛けるべき言葉はもっとあったんじゃないか。舞が感動の涙を流し、リストカットを止める事が出来るような言葉を僕は発するべきだったんじゃないか。でも、舞がどんな言葉を求めているかなんて、当時も今も分からない。舞が本当にリストカットを止めたいと思っている事がどうかさえ。

 僕が話し終えると、試合終了を告げるかのようにチャイムが鳴った。僕は安心すると同時に、もう終わりかと何が終わりなのかも分からないのに、そう思った。

 舞はジャージを下ろし、左腕を隠して、

 「もうすぐ先生が帰ってくるから、帰る用意すれば」と言いベッドに寝転んだ。

 僕は二人で過ごしたこの時間の結晶のようなものを何とかして残したくて

 「僕は気にしない」と思わず口走っていた。

 えっと言う風に舞は寝ころんだままこちらを見た。僕は昔見た映画のワンシーンを思い出した。若くして最愛の人に先立たれた女性、彼女はいつもベッドに寝転び彼を待っている。やがて、彼女は衰弱していくが、物語のラストに彼に出会える。彼らはどのような会話を交わしたのだろうか、背景の色使いが余りにも鮮烈で会話の内容は覚えていなかった。

 ありったけの青をぶちまけたような色で、非現実的なのに日常のどこかにありそうな色だった。例えば登下校の道を少し逸れた裏道の落書きや、見知らぬ駅の看板などに使われていてもおかしくない色だった。ちょうど雨降りの桜のように。

 舞は先を促そうとする訳でもなく、僕を見ていた。

 「たとえ空永さんがリストカットしてようと、してなかろうと関係ない」と僕は言い、保健室から出た。教室に向かう途中で、あれ確か家に帰る予定だったかな、と思ったが戻るのも恥ずかしいので、そのまま教室に行った。

 教室は休み時間で、皆は思い思いの時間を無駄に過ごしていた。馬鹿みたいに笑う女の子の声を聞いていると、何だか落ち着いきて、さっき言った事がとても恥ずかしく感じられた。

 やっぱり、今日は家に帰ろう、と思った。雨の中、濡れて帰るのもたまには悪くない。

 あの時僕はちゃんと伝えておくべきだったのかもしれない。僕にとって何と何とが関係ない、のかを。


 それから、僕と舞は時々言葉を交わすようになり、やがて正式に付き合うことになった。葉桜が綺麗に咲いた五月の頃だった。今年の五月は爽やかと称するには、蒸し暑く、僕らは葉桜の下の影で色々な話をした。

 葉桜を下から見上げると太陽の光がまだらに降り注ぎ、それがくすぐったくもあった。僕らは光を避けるようにして、座っていた。どんな話の流れかは覚えてないが僕が

 「じゃあ、正式に付き合うってことで」と言ったのは覚えている。僕がそう言うと、舞はイタズラを告白する子供のように、挙手をした。もちろん左腕で。

 「いいの?」いつもの舞らしくない表情だったので、僕はいつもより強い口調で

 「関係ない」と言った。

 舞は僕を見つめ、憐れむかのように、慰めるかのように、笑った。その笑顔は何やら不吉な事を象徴しているように僕には感じられた。

 その笑顔が見たくなくて、僕は目を閉じて桜の木に寄りかかった。桜の木はひんやりとして気持ち良かった。でも、葉桜になり気が抜けてしまったのだろうか、案外柔らかくて強く寄りかかれば崩れてしまいそうだった。

 「ありがと」少し経ってから、舞が言った。

 目を閉じているせいか、舞の声には聞こえなかった。僕は目を閉じたまま強く頷いた。

 空永舞はリストカットをしている、という噂はクラスにたくさんある『イジったらダメなハナシ』になり、僕はリストカットをしている女性の彼氏に昇格した。クラスの人たちは、あからさまでない天才的な距離を僕らとの間に置いた。先生の中には、僕に向かって、大変だな、とかいつでも相談に乗るぞ、とか言ってくる人もいた。

 何を言っているんだろう、と僕は思い先生の言葉を聞き逃していた。舞がリストカットしている事と舞と僕が付き合っている事は何の関係も無いじゃないか。舞=リストカットをしている、という構図が耐え切れなかった。あくまで当時は、ということだけど。


 ある日、舞が学校を休んだ。太陽は調整を失敗したのか、五月にも関わらずピークにも勝る太陽光で僕らを焼いた。風は時々おざなりに吹くだけで、すこし歩いただけで汗が噴き出した。皆、合服の袖を折ったり、捲ったりしていた。包帯をしている者はいなかった。

 僕は、舞は何をしているのだろう、と思い昼休みに舞にメールを送った。すぐに返ってきたメールには、ごめんねリスカしちゃった、とあった。そこにはデートに遅れる事を謝る時なんかに舞がよく使う絵文字が添えられていた。僕は文面と絵文字の意味を結びつける事が出来ず、しばらく携帯の液晶を見つめていた。

 周りの風景がさあっと色を失い、耳の後ろできゅっと音がして何も聞こえなくなった。どうしてこんなに静かなんだろう、と僕は思った。もっといつものように騒いでくれよ、何も聞こえなくなるくらいに。僕はクラスメイトにそう叫びたい気持ちだった。

 午後の授業をどうやってこなしたかは覚えていない。ただ、学校が終わると僕は舞の家に向けて駈けていた。理由づけのためのプリントなんか握りしめて。

 舞の家の前で、深呼吸してからインターホンを押した。

 「はい、どちら様ですか」とインターホンから聞こえた。舞の母親の声だった。舞の声から、苛立ちを除き、落ち着きを加えたような声だった。

 「舞さんの彼氏で紺野と言います、プリント持ってきました」と僕はまるで中学生みたいに、馬鹿真面目な自己紹介をした。

 少し間があり、どうぞ、とインターホンが言った。舞の母親が舞に伝えてくれたのかもしれない。僕が家に入ると、舞の母親が部屋まで連れて行ってくれた。その間、僕は舞の母親の背中ばかり見ていた。まるで、ある種の不幸を集めて作ったかのような、小さな背中だった。触れてみると冷たいんだろうな、と漠然と考えた。

 部屋に着くと、舞の母親は会釈をして闇に消えていった。僕はしばらくその方向を眺めていた。

こっこっとノックをすると無言の返事があった。

僕が部屋に入るとパジャマ姿の舞がベッドに起き上がって座っていた。僕は一瞬、上空に葉桜があるような気がした。それぐらい舞は落ち着いていた。しかし、その落ち着きは偽物だということが僕には分かった。

 「なんで」と僕は呟いていた。大丈夫か、と優しく声を掛ける事も、何やってんだよ、と冗談交じりに咎める事も出来た。だけど、僕の口から出てきた言葉は、笑ってしまうほど陳腐で単純な質問だった。

 「なんでだよ、なんでこんな事するんだよ」僕は舞に駆け寄って叫んだ。舞は無表情のまま僕の顔をじっと見つめ、まるで涙を拭うかのように頬を撫でた。涙なんて一滴も出ていないのに。

 「なあ、なんでだよ、俺は知りたいんだ、舞の気持ちを」最後の方はほとんど声になっていなかった。

 舞はまるで見当違いのピエロを見るような目付きで、僕を見た。そんな目で見られると僕は何も言う事が出来ず、舞の唇が動くのを待つしかなかった。

 「ねえ、納豆好き?」と舞が言った。

 「嫌い」と僕は深く考える訳でもなく言った。何を言い出すんだという気持ちがないわけでもなかった。

 「私は好きなの」舞はそれだけ言うと、また黙ってしまった。

 僕は舞が続きを話すのを辛抱強く待った。卑怯なのかもしれないが、舞の言葉によって僕は楽になる事を望んでいたのかもしれない。だが、次に出てきた言葉により、僕のささやかな希望は打ち砕かれることになる。

 「それと同じってこと」と舞は言った。

 それ? 同じ? 僕は訳が分からなかった。英語のネイティブの先生のジョークに皆笑ってるのに、自分だけが取り残されている、そんな気持ちだった。僕は落ちこぼれの生徒のような目で、舞を見た。

舞は、要するに、と続けた。

 「納豆が好きな人の気持ちを知りたい? 知りたくないよね。それと同じ。私にとってリストカットは特別な事じゃないの。その時点でもう感覚がずれてるのよ。時々無性にチョコレートを食べたくなるように、やっちゃうの」舞は一気にまくし立てた。

 僕は、抱き締められたかのような、突き放されたかのような気持ちになった。何を言えば良いか分からずに

 「じゃあ、これからは納豆食うよ」と自分でも意味不明な言葉を発していた。

 くっと世界にひびが入ったような音がした。舞が笑っていた。舞が笑っていたので、僕も笑った。

 その後は、僕も舞のベッドに腰掛け、再放送のドラマを一緒に見た。感動的なシーンなのに、舞が鋭い指摘をするので、僕は笑ってしまった。いつもより大きな声で笑ったせいか、ほんの少しだけ涙が出てくれた。


 コーヒーは空っぽになっており、店員さんがちらちらと僕の方を見ていた。僕は店員さんの視線を痛々しく感じながらも、また回想に浸った。

 あれから二か月か、と僕は思った。あの時から僕は舞のリストカットについてはあまり考えないようにしている。ただ、普通に気にしているよ、と言った程度だ。

 だけど、月の呼吸さえ聞こえそうな静かな夜、頭が冴え眠れない夜、僕は無意識の内に想像している。出来るだけリアルに。手に取って確かめられるくらいに。

 舞の右手にはナイフが握られている。左手首にナイフを押し付け、引く。肌がぶちぶちと音を立て切れる。その音は舞にはどのように聞こえるのだろうか。しばらくの間、辺りの闇と同調するかのような無音が響く。その後、静かに滲みだす血は舞にとって何を意味しているのだろう。

クライシスコール、誰かへの恨み、人格の解離、自己否定、現実逃避、僕には分からない。分かりたくもない。僕はただ、僕と舞との間にある差異がどれだけ深いか、またどのような意味があるのかを知りたいだけなんだ。

 僕はお勘定を払い、外に出た。

 空にはまだ月が落ちないで、持ちこたえていた。ああ、良かった、と僕は深く思う。





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[一言] まだ小説を書き始めて半年の高校生ですが、感想を言いたいと思います。 まず比喩が巧みだと思いました。心理や情景をぐっと深く描写する、素晴らしいものがたくさんありました。 それと文章が読みやす…
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