奇跡の帰還 [クララの視点]
『僕の夢は、ここの演劇に参加することだったんだ。大人になったら、僕が脚本を書くんだって』
「ええ、劇作家に、なりたかったんでしょう?人間の本質を描く。もう、何度も聞いているわ」
『そうだっけ?』
「そうよ。もう耳タコ。でも、貴方の夢が叶ったのは、嬉しいわ」
私は、そう言って笑いながら、側でサンドイッチを食べているキャシーの髪を、手櫛で梳いた。
キャシーは、髪質も私によく似ていた。まとめようとしても、サラサラと指からすり抜けてしまう。
『かわいい子だね。昨日、初めて会ったとき、君の親戚の子かと思ったよ。驚くほど、君によく似ている』
「ええ、私もそう思うの。不思議なご縁ね」
『この子は、悲劇は好きかな。それとも喜劇だろうか?』
「女の子はみんな、恋愛ものが好きだと思うわ」
『それは、クララの好みだろう?』
彼が私を見て吹き出したので、私は抗議を込めて額を彼の肩にグリグリすりつつけた。
彼はくすぐったそうに笑うと、私の肩を抱き寄せた。
『愛しているよ』
彼はそう言うと、私の瞼にやさしいキスを落とした。
それは、今までに一度も言われたことがない言葉で、そして何よりも聞きたかった言葉だった。
カイルが、愛しているって言った。私を、愛しているって、そう言ってくれた。
この言葉を聞けただけで、私にはもう、十分すぎるくらいの幸せだと思った。
たとえ、女神の宿命に引き摺られた感情であっても、目の前のカイルは、嘘偽りなく私を好きでいてくれる。
「私もよ、カイル。貴方を愛しているわ」
だからこそ、私はカイルを、運命の輪から逃したい。
決められた相手ではなく、自由に誰でも愛することができように。
宿命に矯正されることのない未来を、その手に返してあげたい。
『あの子を、引き取らないか?僕たちの娘として育てるのは、どうだろうか』
私の肩を抱いたまま、カイルはそう言った。
キャシーは、とっくにサンドイッチを食べ終わって、舞台近くで熱心に劇の練習に見入っていた。
「素敵ね。でも、貴方には、自分の子どもを持ってもらいたいの」
『クララ、もう、子どもは諦めよう。これ以上の治療は、君に負担が大きい。僕たちには、魔力差がありすぎる。そういう夫婦には、子どもができなくても不思議じゃないんだよ』
「そういう意味じゃないの。貴方には、他の女性でも……」
『いい加減にしないと怒るよ。それなら、君はどう?魔力のない男なら、君は子どもを授かるかもしれない。そのほうがいいと思ってる?』
カイルは、不必要なほど優しい口調でそう言った。
たぶん、ここでは私たちは、こういう会話を、ー繰り返し続けてきたんだろう。
「ごめんなさい。そうじゃないの。そういう意味じゃなくて、貴方には、私じゃない人を愛せる人生もあった……って、そう言いたかったの」
『ますます分からないな。僕が君以外を愛すると、どうしてそう思う?もしかして、僕に何か不満があるの?まさか、夜のこと?君一人じゃ相手しきれないから、別の女性でって言ってる?ごめん。これでも、加減しているつもりなんだけど』
「そ、そういう意味でもない!そうじゃないの!」
ちょっと、カイルってば、何てことを言うのよ! 私たちどんだけしてるのよ?
と、とにかく、そんなこと知らないから!
だいたい、昨夜だって、カイルは寸止めだったじゃない。あなたは、据え膳さえ喰わない禁欲的な男でしょ!
だから、そんな、性欲魔神って言われたみたいに落ち込まないで。襲ったこっちが恥ずかしいから!
オタオタと落ち着かない私を見て、カイルは優しく笑った。単に、からかわれただけなのかもしれない。
『僕は、君だけだよ。もし、君がいなくなってしまっても、他の女性を愛することはない。君がいるか、いないか。僕の人生は、そのどちらかだ』
優しいカイル。大好きなカイル。
私が巫女のままでいれば、この人は本当に私だけしか愛せないだろう。
そして、もしも私が別の人を愛す選択をしたのなら、この人は一人ぼっちになってしまう。
そんなことはダメ。カイルには、幸せになる未来を探す権利がある。
私は、決断しなくてはいけない。
たとえ、私がどんなに、カイルとの未来を欲していたとしても。それがカイルを、宿命に縛る言い訳にはならないから。
カイルは、私の操り人形じゃない。生まれ変わって、やっと自由に生きられる、意思を持った人間なんだ。
「カイル、ごめんなさい。私は、貴方とはいられないの。どうしても、行かなくちゃいけないの」
私がそう言うと、カイルは黙って私の左手を取った。その薬指には、カイルからもらった指輪がはまっていた。
『これは、母が好きだったデザインなんだ。今となっては、唯一の形見だ。珍しい薔薇を象ってるんだよ』
「チューダー・ローズでしょう」
私の言葉を聞いて、カイルは少し驚いたような顔をした。
『なんでそれを?』
「ずっと前に、貴方が教えてくれたのよ。これは滅びた王家の家紋だって」
カイルは、少しだけ何かを考えるようにしてから、すぐに嬉しそうな顔をしてくれた。
『そうだったね。君が覚えているとは思わなかった』
カイルの指が、優しく指輪とそれを嵌めている私の指をなでた。
カイルにとって、この薔薇は亡き母への想いが詰まったものなのかもしれない。
『何か事情があるんだね。君が望むようにしていいよ。ただ、この指輪だけは持っていってほしいんだ』
「カイル……」
『母は言ったんだ。僕の愛する人の指を飾ってほしいと。これから何があっても、僕は君以外を愛することはない。だから君に、持っていてほしい』
カイルは私の両手を取って、まっすぐに私を見つめた。その目は、この海の水のように澄んでいた。
そして、泣くのを堪えるように揺れる瞳に、私の胸は締め付けられた。
『もしも、この地を離れても、僕は必ず、ここに戻ってくる。ここが僕の原点なんだ。僕の本当の夢は、ここで君と暮らすことだ。それが、僕の望む幸せなんだ』
「私の望みも同じなの。貴方と生きていきたい。だから、その幸せを、自分の力で掴みたいの。決まった運命を生きるんじゃなく、可能性が無限に広がる世界で。また貴方にめぐり逢って、そして私を愛してもらいたい。私、努力するから。貴方に好きになってもらえるように、いっぱい努力するから」
自分でも、めちゃくちゃなことを言っていると思った。カイルには、何が何だか分からないだろうとも。
それでも、カイルは辛抱強く私の言葉に耳を傾けてくれた。
『心配しないでいいよ。僕はここで、君を待っている。絶対に君を、見失ったりしない。だから、安心して行っておいで。君が戻ってきたら、あの子と三人で暮らそう。約束だ』
「うん。うん。カイル、ごめん。本当にごめんなさい」
『謝らないで。君がここに来てくれてよかった。この指輪で、君を飾れてよかった。母の望みも、僕の夢も叶ったよ。みんな君のおかげだ」
その言葉で、私の目には涙が関を切ったように溢れた。
『いいんだよ。君は思う通りに生きればいい。僕は、君に出会えた奇跡に感謝しているよ。この先もずっと、この生命が尽きるときまで、ずっと感謝し続けるよ』
声をあげて泣く私を、カイルはやさしく抱きしめてくれた。私が苦しいとき、辛いとき、いつもそうしてくれたように。
カイルが、もう泣かずにすむことを、必ず幸せになることを、私は祈り続けた。
しばらくして目を開けると、私は白い霧の中にいた。
誰かが、私の手を引いてくれている。霧で視界が悪く、引っ張られる手の先に誰がいるかすら、よく見えない。
『お母様、こっちよ。早く、早く。お父様が待っているわ!』
「キャシー?あなたは、キャシーなの?」
『そうよ。お母様を、お父様に返してあげるように、頼まれたの。霧が濃いから、迷わないで。私が道案内するわ』
「だめよ、キャシー。私にはまだ、女神の試練があるの。あなたと一緒には行けないわ」
『大丈夫よ、お母様。三つの試練は終わったわ。宿命の糸は解かれた。もう、未来を縛るものはないの』
「キャシー、あなたは……」
『お母様に会えて、嬉しかったわ。思ったとおりの素敵な人だった』
霧がだんだんと薄くなっていくにつれて、逆に見えてくるキャシーの姿は霞んでいくようだった。
「キャシー、私もよ。あなたに会えて嬉しかった。また、どこかで会える?」
『もちろんよ。必ず会いに行くわ。お父様と一緒に待っていてね』
キャシーが消えた瞬間に、足元が崩れたように感じた。けれど、すぐに誰かに抱きとめられた。
それはカイルだった。そして、そこは神殿ではなく、王宮の謁見の間だった。
私を抱きとめたまま、カイルは魔法で天井からの落下物を支えている。
カイルの体から伝わる温かさで、私は自分が、私たちが、無事にに戻ってきたことを知った。