最後の試練 [クララの視点]
暗闇の中、私はローランドに手首を引っ張れるようにして、早足で歩いていた。
何も言えないまま、しばらく歩いたとき、遥か遠くに小さな光の点が見えた。
あれが出口だろうか。そう思ったとき、ローランドがふいに立ち止まった。
『クララ。あそこが出口だ。一人で行けるか?』
私は黙って頷いた。
そのとき、私は、カイルから預かっているものがあることを思い出した。
私がそれを、ローランドに差し出すと、ローランドは、驚いたように目を瞠った。
「カイルから、預かっていたの。大事なものだって」
ローランドは黙って箱を受け取ると、そっとその蓋を開けた。
そこには、公爵家の象徴であるエメラルドの婚約指輪が入っていた。
こんなに暗い場所でも、僅かな光を反射してキラキラと光る。まるで、ローランドの瞳のようだ。
『これはあの日、お前に渡そうと思ってたんだ』
果樹園の襲撃の日のことだろう。あの日以来、私はローランドと、まともに会う機会はなかった。
そうだったんだ。あの日、ローランドは。
『あの日の翌日、カイルがこれを王宮まで持ってきた。お前が羽織っていた、俺の上着に入っていたって』
あの上着に。そういえば、あの日、カイルは王宮に出かけていた。
『クララに渡せって言われた。でもつっぱねた。そしたら殴られた』
カイルがローランドを殴って、謹慎になった件だ。あれは、そういうことだったんだ。
でも、なんで?なんでカイルはローランドを殴ったの?
『ヘザーとクララからの怒りの鉄拳だと。まあ当然だよな』
ローランドは、自嘲めいた笑みを浮かべた。
『俺はお前が好きだった。なのに、殿下との仲を誤解して、お前を諦めようと、ヘザーの好意を利用した。そんな婚約、カイルが怒って当然だろ』
当然?どうして当然なの。当然じゃないよ。
任務で関わっただけの私のために、謹慎になるようなことをするなんて。
それじゃあ、まるでカイルは……。
カイルに、本当の気持ちを聞きたかった。でも、怖くて聞けなかった。
知りたくない事実なら、知らないほうがいいと思っていた。今までは。
『カイルには、何度も言われた。逃げずに、きちんと向き合えと。でも、俺にはできなかった。お前の口から、決定的なことを言われるのが、怖かった。俺を愛していないという言葉を、聞く勇気がなかった』
うん。分かるよ。私もずっと同じだったから。好きな相手の本当の気持ちを聞くのが、怖いと思っていたから。
でも、それじゃ、いけないんだよ。会えなくなってしまったら、もう聞くこともできない。
ローランドに、そう言ってあげたかった。でも、それは私が言えることじゃない。
私の好きな相手はローランドじゃないのだから。
ローランドは、両手で私の両肩をつかみ、そのまま私の目を、じっと見つめて言った。
『今、お前に、どうしても聞いてほしいことがあるんだ。聞いてくれるか?』
私は無言で頷いた。
私がローランドのためにできることは何もない。してもいけない。
それでも、この人は幼い頃から、私を自分の許婚として、密かに守り慈しんでくれた。
そして、私も、この人がいる空気が好きだった。
形は違うけれど、そこには確かに愛があった。
『俺は子供の頃から、ずっとお前が好きだった。その気持ちは、これからも永遠に変わらない。何があっても』
ローランドの心が、泣いているのが分かる。そして私の心も。
愛し合って結ばれるという運命ではなかったけれど、私たちは互いに強く惹かれていた。
女神の宿命がなければ、普通に幼馴染の許婚から婚約者となり、やがて結婚して生涯を共にしていたかもしれない。
『一度だけでいいから、ちゃんと伝えたかった。お前は俺のすべてだった。愛している。永遠に愛し続ける』
私は黙って頷いた。
これは愛の告白ではなくて、別れの言葉だ。
私がここを去れば、ローランドのこの思いも消える。ローランドはそれ手放すのが寂しくて、それを私に覚えておいてほしいと請うている。
「ありがとう。ローランドの気持ち、一生忘れない」
私がそう言うと、ローランドは私の肩に頭を乗せて、少しの間だけ泣いた。
私はローランドを抱き寄せて、その頭をそっと撫でた。そして、いつもそうしていたように「大丈夫だよ」と言った。
それが、私とローランドの長い許婚関係の終わりとなった。
しばらくして落ち着くと、ローランドはいつものように「じゃあ、また」と笑って私の手を取り、先へ進むよう促した。
それは、パートナーとして私をエスコートしてくれるときに、いつも彼がしてくれたことだった。
ローランドに背を向けて、私は光が指すほうへと歩き始めた。
ローランドとの間に積み重ねてきた長い年月。共に育んださまざまな思い出が洪水のように溢れて、私は声を出さすに泣いた。
ローランドは幸せになる。必ず幸せになると信じたかった。
それでも、私は決して後ろを振り返ることはなく、光に向かって歩き続けた。
おそらくは最も辛いだろう、最後の試練に向けて。
しばらく歩いた後、光の先にあったのは、目が覚めるような青だった。
海と空という美しい青のコントラスト。最先端へと突き出した岬までの道は、舗装もされていず、馬車がやっと通れるくらいの道幅だ。
両側には、ヒースに覆われた荒野が広がり、その先は崖になっていて、水平線が見渡せた。
目につくのはカモメと羊だけの、豊かで厳しい自然に囲まれた場所。
そこには、孤児院があった。大陸の最西端の岬の上にひっそりと建ち、訪れる人もいない。
それでも、子ども達の歓声や笑い声が聞こえ、人の優しい温もりに包まれていた。
それはまるで、春の陽だまりのような。そんな柔らかい空気が流れていた。
『奥様、旦那様に、昼食を届けていただけますか』
「分かったわ。いつものところね」
女中頭のマーサは、その通りですとばかり、ニコニコと笑うだけだった。
旦那様は、気がつくといつものところにいる。書斎でするよりも、仕事が捗るというのは分かる。
けれども、気をつけていないと、食事も摂らずに一日中、ずっと執筆に没頭されてしまう。
『今日は、この子を連れていってくださいますか』
マーサの後ろで、昼食用の小さなバスケットを持っているのは、7歳ぐらいの女の子だった。
私と同じ目の色。私と同じ髪の色。この子は……。
「あなたは……キャシー?」
私がそう尋ねると、女の子はビクッと体を震わせた。
少し怯えるような目をしたままで、女の子はスカートの端をちょこんとつまんで、礼儀正しくおじぎをした。
『キャサリンです、奥様。よろしくお願いいたします』
『昨日から、孤児院で預かっている子なんですよ。両親はずいぶん前に亡くなっていて、たいした教育も受けていないのですが、とても利発な子で。お屋敷のほうでも、手伝いをしてもらおうと思っているのです』
「そうなのね。キャシーって呼んでいいかしら?」
『はい、奥様』
女の子はそう言うと、急にポロポロと涙を流し出した。
私たちは驚いて、近くにあった椅子に座らせて、甘い飲み物を飲ませ、彼女が落ち着くまで待った。
「ごめんなさいね。ああいう呼び方は、好きじゃなかった?」
私がそう言うと、女の子はブンブンと首を横に振った。
『申し訳ありません、奥様。お母さんのことを思い出してしまって。私をキャシーって呼んでくれたのは、お母さんだけだったので』
「そうだったの。お母様を思い出されたのね。ごめんなさい、軽率だったわ。やっぱりキャサリンって呼びましょう」
『いいえ!奥様。キャシーとお呼びください!お願いします』
「でも、それでは……」
『奥様に、そう呼んでいただきたいんです。奥様はお母さんに似ているので、お母さんに呼ばれたような気がしただけなんです。泣いたりして、ごめんなさい』
同じ目の色。同じ髪の色。幼い頃の私に、よく似た女の子。
この子は、私の娘だ。私のお腹から生まれなかっただけで、それでもちゃんと私の元に来てくれた。大切な私の娘。
「分かったわ。キャシー、仲良くしましょうね」
抱きしめたその子の体は、壊れそうにか細かった。それでも、その温かさは確かに血の通った人の体温だった。
夢ではなく、生きている人間の。
私はキャシーと手をつないで、両側に海を見ながらヒースの丘を歩いた。
少し行ったところから、階段を使って崖を降りた。階段といっても石を組み合わせただけの簡単なもので、キャシーが滑らないようにと、私はその手をしっかり握った。
握り返してくれるキャシーの手の温もりが、愛おしかった。
そうして、私たちがたどり着いたのは、海を背景にして作られた野外劇場だった。
円形の石造りの舞台を、階段状の石造りの座席が半円を描いて取り囲む。古い神殿風の石門やバルコニーのある石塔も見える。
舞台の上では、芝居の稽古をしているようだ。みな、片手にシナリオを持ったまま、あちこちと立ち動いている。
劇場の入り口まで降りて見上げると、座席の一番上の段に座って、しきりに筆を動かしている人の姿が目に入った。
逆光になっているので、私は目の上を手のひらで覆ってから、もう一度その人を見た。
白いシャツにベージュにズボン。いかにも物書きという適当な風采で、見た目に気を使ってオシャレをしているようなところは微塵もない。
それでも、その整った顔立ちと鍛えられた体を見れば、彼が平民でないことは、誰の目にも明らかだった。
私たちの気がついたのか、その人は立ち上がって手を振った。
黒曜石の瞳と、夜の闇のような黒髪が嬉しそうに揺れている。
最愛の人との、約束された幸せな未来に決別する。
これが女神が私に課した、最後の試練だった。