一つ目の試練 [クララの視点]
私は何をしているの?
シャザードとカイルが戦っている。いえ、シャザードの攻撃をカイルが受け止めている。
なぜ私は見ているだけなの?
私はまるで違う世界の出来事を観ているように、祭壇の上にぼんやりと立っていた。
自分の意志では体を動かせない。まるで人形の中に魂が閉じ込められたような感覚だった。
シャザードがこの神殿で殺気を放ったとき、聞き覚えのある誰かの声が聞こえた。
『体を貸して。彼を守ってあげるわ』
あの人の声だ。いつも夢に出てくる白いワンピースの乙女。
前世の私が、女神の巫女が、カイルに力を貸してくれる。女神の加護を受けた彼女なら、その力を使うことができるかもしれない。
そう思った瞬間に、私の体は祭壇へ向けて勝手に移動していた。
まるで深い海の底にいるように、目は見えていても音は聞こえない。話すこともできない。
カイルが戦っているのに、私は本当にこれでいいの?
女神の力に頼るだけで、自分では何もしていない。これでカイルを守れるの?
『前世でも、ずっと受け身だったじゃないの』
そう。前世の私は自分では何もできなかった。女神の加護で、あの人の力で守られていただけ。
唯一できたのは、彼と共に死ぬことだけだった。
待って。また同じでいいの? 前世を繰り返して、それで本当にカイルを守れるの?
『何もかも、私にまかせておけばいいのよ』
違う。違う違う違う。人にまかせていいことじゃない。
カイルは私が守る。今度こそ死なせない。絶対に死なせない!
宿命に流されるのではなく、自分で創る未来を生きる。それが私たち二人の約束だった。
幸せな未来を諦めないで選び取ると。
「出ていって!あなたはいらない!私がカイルを助ける!」
そう叫んだとき、神殿に再び閃光が走り、まるで地震のように床が歪んだ。
シャザードの魔力が、カイルに向かって刃のように放たれる。カイルからも攻撃魔法が放たれているが、威力ではシャザードに敵わない。
カイルが死んでしまう!
気がついたときには、私はカイルとシャザードの間で、双方からの攻撃を身に受けていた。
そのときに見たシャザードの瞳には、驚きだけじゃなく畏怖のようなものが混ざっていた。
そして、身体を貫く魔法の衝撃で、私は空中へ投げ出されたようだった。
反転する世界。抱きとめられたときに見上げたカイルの目は、絶望と恐怖で歪んでいた。
カイルが何かを叫んでいるのを聞きながら、私は暗い闇の底へと引きずり込まれていった。
私は死んだんだろう。どこも痛くないし、苦しくもない。
ただ、カイルを残して逝くのは気がかりだった。彼は無事に逃げて、生きてくれるだろうか。
『ありがとう。彼は助かったわ』
声がした方向に振り返ると、あの人が立っていた。前世の私。宿命の巫女。
「本当に?あなたが助けてくれたの?」
『助けたのはあなたよ。女神の誘惑をはね退けた。私にはできなかったことよ』
「女神の誘惑?」
『ええ、私の声が聞こえたでしょう。あれは私の言葉じゃないわ。貴方を惑わす女神たちの誘いよ。享受していたら、貴方は巫女として操られていた。彼も危なかったわ』
「私は死んだの?」
『いいえ。カイルのところに戻りたい?』
「ええ。きっと心配しているわ。早く帰りたい」
『巫女としてならすぐに戻れるわ。女神の恩恵を受けるならば、貴方にはカイルとの栄光の未来が約束される』
栄光の未来。決められた運命を約束された巫女。
その巫女をめぐる闘争で、前世の私は愛する人を失ってしまった。
もうその繰り返しはしたくない。たとえ私が死んだとしても、カイルには自由に生きてほしい。
「もうカイルを、つらい宿命に巻き込みたくない。巫女でしか戻れないなら、このまま果てるほうがいい」
『普通の人間として生きたいのね。それには女神の試練を、くぐり抜ける必要があるの。死ぬよりも辛いかもしれないわ。それでも?』
「もちろん。覚えているでしょう? 約束したの。自由な未来を生きる夢を諦めないって」
『そうね。そうだったわね。覚えているわ』
「お願い。どうすればいいか教えて。必ず突破してみせるから」
『女神たちはいつも三つの運命を提示してくるわ。それから一つを選択して、歴史の道標をつけるのが巫女の役目。その任を放棄して、巫女を降りるのよ。できる?』
「やるわ。提示された運命を、選ばないということね? 」
『そう。どれかを選べば、あなたは巫女として宿命を負う。でも選ばなければ、すべての宿命の糸は解ける。誰の人生にも縛りはなくなるわ』
「分かったわ。教えてくれてありがとう」
『頑張って。夢を忘れないで。選ばないことを選ぶ。それが貴方自身が創る未来へと、つながっていくわ』
私は黙って頷いた。それを見て、彼女は満足そうに微笑んだ。
過去の私にできなかったことを、今の私がやり直す。自由な未来への扉を開く。
彼女が指し示す方向に、私はまっすぐ歩き始めた。
私たちがいる場所は濃い霧に包まれたようで、その先に何があるか分からない。
それでも私は信じて先に進むしかない。
どのくらい歩いたろうか、遠くにまばゆい光が見えたと思ったら、急に周囲の霧が晴れた。
そして私は、今まで見たこともないような美しい場所に立っていた。
そこは小高い丘の上だった。柔らかく温かい春の風がさらさらを頬をなで、遥か下に見える湖までつづく草原には、色とりどりの野生の植物が花をさかせていた。
湖面は鏡のように澄んで、遠くの山影や空に浮かぶ雲がくっきりと写っている。
何の音だろうか。カウベル?牛の姿は見えなかったけれど、どこかで放牧されているのかもしれない。リンリンという澄んだ音が聞こえる。
標高が高いのか、雲がずいぶん低く流れていた。
その絶景に息を飲んだとき、私は遠くでブランケットの上に寝転がる人影に気がついた。
遠くて顔はよく見えないけれど、あれは殿下だと確信した。
不思議な感覚。既視感というのだろうか。
そうかもしれない。学園の裏の丘で初めて会ったときも、私たちはこんなふうだった。
『お父様はあちらよ!ずっとお母様を待っていらしたのよ』
その声に驚くと、いつのまにか私は、5歳くらいの小さな女の子と手をつないでいた。
目の色も髪の色も私と同じ。幼い頃の私に生き写しのこの子が誰なのか。私にはすぐに分かった。
「そうなのね。私を待っていてくださったの?」
『そうよ。キャシーも一緒に待ってたの!お兄様は王太子のお勉強があるんですって。ルークと一緒に行っちゃった。もうキャシーとは遊ばないって言うのよ』
「そう。残念だったわね」
『お兄様なんて嫌い!ルークも!ねえ、お母様、ルークはキャシーの恋人なのに、キャシーと遊ばないのって、ひどいわと思うの』
「あら、キャシーには恋人がいるの?」
『そうよ。ローランドおじ様がそう言ったの。キャシーはルークのお嫁さんになるんだよって。私はルークのいいな……ずけ?なんだって!』
ローランド?ああ、そうか。ルークというのは、ローランドの息子なんだ。
「キャシーは、ルークのことが好きなの?」
『男の子は嫌い。だから、私は妹がいいの!聞いてる?女の子じゃないとダメよ!』
その子は私の膨らんだお腹をそっと撫でた。お腹の中からぐりっと押される感覚があった。
出産経験もないのに、これが胎動だということもすぐに分かった。
「ほら、赤ちゃんが困っているわよ。妹でも弟でも、可愛がってあげて」
女の子はりんごのような頬をぷうっと膨らませた。どうやら、どうしても妹がいいらしい。
返事をすることなく、私の手をグイグイと引っ張って、殿下がいるほうに歩いていく。
殿下は私たちが近づいていっても、その足音で殿下が起きるという気配はなかった。
「眠ってるんですか?風邪引きますよ?」
ブランケットに膝をついて、私はそう声をかけた。
『ああ、王妃か。やっと来たんだね。待っていたよ』
殿下は寝転んだまま、私を見て満面の笑みを浮かべた。
見る者すべてを幸せにするような、とても魅力的な笑顔だった。
年齢は、30代前半くらいだろうか。全く衰えることのない怜悧な美貌を持ったまま、落ち着いた風格と揺るぎない自信を備えた殿下は、誰がみても理想の男性だった。
「申し訳ありません」
私がそう言うと、殿下は上半身を起こして、私のお腹に手を当てた。
そして、愛しそうな目をしてお腹を撫でたあと、私を真っ直ぐに見て微笑んだ。
『気にしなくていい。出産を控えた大事な時期なんだ。自分の体を第一に考えてくれ』
殿下が、私の長い髪を一房掴んて口づけると、女の子が、殿下の首に抱きついた。
『お父様も、女の子がいいでしょう?ね、お母様にお願いして!キャシーの妹を産んでくださいって!』
『そうだな。今回は男の子か女の子か分からないけれど、キャシーに妹ができるまで、お母様には頑張ってもらおうか。それならいいかい?』
『それならいいわ!お父様、約束よ!』
『クララ、それでいいね?私も毎日努力するから』
毎日努力って。子どもの前で何を言っているのでしょうか、殿下は。
たぶん顔が赤くなったせいだろう。殿下はそれを見て、からかうような笑みを浮かべた。
女の子は殿下に抱っこされて、始終ご満悦だった。
優しい殿下とかわいい子どもたち。笑顔が絶えない温かい家族。親しい友人に囲まれた幸せな暮らし。
これが女神が提示した運命の一つ。私が放棄しなくてはいけないもの。
楽しそうに微笑む二人を前にして、私は急に胸が詰まった。
ここで私がこの道を選ばなければ、この二人もお腹の赤ちゃんも私の人生から消えてしまうのだ。
もう二度と会えない。
それでも、私はきちんと選ばなくてはいけない。選ばないことを選ぶと伝えなくてはいけない。
それが女神との契約を切る、私たちを宿命から解放する唯一の方法なのだから。
「ごめんなさい。それはできないの。私はここにはいられないから」
そう言った瞬間、私の周りの世界は暗転した。