幻覚の女
シャザードの目的は一体なんだ? なぜ僕らをここへ呼んだんだ。
僕らを殺すだけなら、わざわざこんな場所へ飛ばすことはない。あの場で手を下せばいいだけだ。
ここへ飛ばしたのは、なにか意味があるはずだ。
森の闇は深く、まるで深海の底にいるように静かだった。濃い霊気に漂う魔力。
シャザードはここにいるはずなのに、なぜか姿を現そうとしない。
「あっちに、明かりが見えたわ」
「行ってみよう。ここにいても、しょうがない」
やつの狙いは分からない。だが、ここは僕らの世界ではない。異空間というよりは異世界と言ったほうがいいかもしれない。
そんな場所であっても、助けが求められるのならば、それに越したことはない。立ち往生したところで、状況は変わらないのだから。
クララが示した方向にあったのは神殿だった。幸か不幸か人の気配はない。
シャザードの狙いが僕らだとしたら、ここでの戦いを避けることはできない。
人がいたら巻き添いになる。それだけは避けたかった。
だが、僕らを狙う意味はあるのか。殺したところで何の得にもならない。
やつには何か、別の意図があるはずだ。
僕は最悪のケースを想定して、クララに退路を用意しようとした。
クララはこんなところにいてはいけない。早く、早く、元いた場所に戻さなくては。
「クララ、よく聞いてくれ。もうすぐシャザードが来る。君は僕が守る。だけど、もし僕に何かあったらシャザードについていってほしい。ここは異空間だ。君だけでは元の世界へは戻れない。シャザードへ投降するんだ」
クララは、僕の願いを拒絶した。もしものときは、ここで共に死ぬ道を選ぶと言う。
それだけはダメだ。クララは生きて、幸せにならなくちゃいけない。
殿下もローランドも、クララの幸せのためには、どんなことでもするはずだ。
早まらずに、彼らの救出を待ってほしいと諭したつもりだった。
だが、クララはそれを頑なに拒否した。
「どうして。なんでそんなことを言うの? 私には貴方しかいないのに!他の男を頼れなんて」
違う。そうじゃないんだ。君は僕の命で、僕の幸せなんだ。
君が生きて笑ってくれるなら、僕は死ぬことなんてなんとも思わない。
だから、とにかく生きてほしい。何があっても生きることを諦めないでほしい。
誰の力を借りてもいい。誰の手を取ってもいい。
僕のものにならなくても、君が生きているならいいんだ。それだけでいい。
それが僕の、たった一つの望みなのだから。
これは、任務なんかじゃない。僕は君だけの騎士だ。君だけを守るために生まれた。それが、僕がここに存在する意味だ。
君が存在してくれるだけで、僕は幸せになれる。君を愛している。どうしようもなく。
クララにそう伝えようとしたが、その猶予はなかった。
空間が捻じ曲げられるような音がして、神殿の入り口からシャザードが入ってきた。
「クララ、後ろに!」
僕はクララをかばって、シャザードの出方を伺った。体中に細かい稲妻のような青い光を纏わりつかせながらも、シャザードはそれをまるで虫を追うように、のんびりと払っている。
「道案内ご苦労だったな、宿命の巫女。お前がいなければこの聖域は開かない。ようやく、この日が来た。わが一門を滅ぼした、憎き悪魔を裁く日がな!」
シャザードは殺気を強めている。だが、それは僕たちに対してではなく、なにか全く別のものに向かっているようだった。
「なにをする気だ?なぜ、こんなところに。お前の狙いは何だ?」
僕がそう言うと、シャザードは奇異なものを見るような目をした。
「ここは邪教の巣だ。ここで悪魔を召喚して叩き潰す!」
「ここは古い神を祀る神殿だ。邪悪なものが集うような場所じゃない」
「人間のことを言ってるんじゃない。神と名乗る悪魔のことだ!俺たちを玩具にしやがって。お前だって覚えがあるだろう!こいつらのせいで」
僕の腕をつかむクララの手が震えている。
「お前が何をしようと構わない。俺の命が必要ならくれてやる。だが、クララだけは元の世界へ帰してくれ。彼女は関係ないんだ」
「それはこいつら次第だ」
シャザードが指差したのは、祭壇に安置された三体の女神像だった。
石を掘り出したもののはずなのだが、まるで美しい女を石化したようだった。
「何をする気だ。神を相手にするなど。言っている意味が分かっているのか?」
「邪魔するならお前から殺す。その女を守りたいなら、大人しく見てるんだな」
そう言うなり、シャザードは魔法を放出した。むしろ爆発させたと言ったほうがいいのだろうか。
防御のためにとっさにシールドを施したが、僕らは攻撃対象になっていなかった。
シャザードは神殿内の人間以外のすべてを破壊しようとしたようだった。
その威力は凄まじく、まばゆい閃光に目がくらみ、クララが小さく叫んだ。
その場にへたり込みそうになる彼女を、僕は片腕で支えあげた。
「クララ!僕から離れるな。大丈夫だ。落ち着いて」
クララは震えながら頷いて、僕にしっかりとしがみついてきた。
安心させてやりたくても、僕自身がこれから何が起こるのか想像もできなかった。
今のシャザードは魔力を放出しているだけに過ぎにない。何のために? 決まっている。様子を探っているだけだ。
神というものは本当にいるのか。まずはそこからしかない。
神はいるかもしれない。だが、いたとすれば、人間など相手にせずとも、歯向かうものには天罰を下すだけでいい。
シャザードの計画は、最初から破綻している。人間には屈しない存在だから、それは神と呼ばれるはずだ。その相手を裁くなど、ありえない。
シャザードの隙を付いて、逃げることはできるだろうか。そう思って出口のほうを見た瞬間に、クララがするりと僕の腕をすり抜けた。
驚いて振り返ると、僕の目の前に、光に包まれた女が立っていた。その白い服をまとった女は僕のほうを見ることなく、そのまま祭壇へとゆっくりと歩いていく。
あれは誰だ。あれが神なのか。いや、違う。あれは、あの女性は……。
「でたな、化け物。一門の恨み、思い知るがいい!」
「ダメだ!やめろ!」
祭壇へ向かう女に向けて、シャザードが攻撃魔法を放った。僕はとっさに女とシャザードの間に入り、防御壁を築いた。
「邪魔をするな!この女は人じゃない!悪魔だ!」
「違う!あれはクララだ!これは目眩ましだ!」
「あれは巫女だ!悪魔の依代だ!お前の女だったろうが!」
「ちがう!彼女は死んだんだ!クララは巫女なんかじゃない!普通の人間だ!」
シャザードはすうっと魔法を収め、それに呼応して、僕も防御を解いた。
僕たちは祭壇の上に佇む女を見た。彼女はたしかに、僕が愛した女の姿だった。
「あれが幻覚だというのか。では誰が俺たちに幻を見せているんだ。神か?」
「分からない。だが、彼女を殺したところで、結果は何も変わらない。それはお前だって知っているだろう。同じことが繰り返されるだけだ!」
「黙れ。戯言は聞きたくない。死にたくないならそこをどけ」
シャザードは再び攻撃の構えを取った。僕はそれに呼応するように手をかざした。
彼女はクララだ。命に代えても僕が守る。守ってみせる。
神殿に再び閃光が走り、まるで地震のように床が歪んだ。
シャザードの魔力が刃のように僕らに向かって放たれた瞬間だった。