君だけに愛を
暖炉の火が、暖かく燃えている。
クララは僕の胸に頬を寄せたまま、安らかな寝息を立てていた。
互いの体温で温め合っているとはいえ、このままでは、風邪を引いてしまうかもしれない。
僕は、クララを起こさないように、そっと身を起こした。そして、僕らを包んでいたブランケットごと、クララを抱え上げた。
クララをベッドに下ろしたとき、今、彼女が唯一身につけているものが、目の端でキラリと光った。
それは、僕があげた婚約指輪だった。特別な花を象ったデザインの。
『チューダー・ローズでしょう』
彼女は、確かにそう言った。
一瞬、何を言われたのか、分からなかった。なぜ君が、その名を知っているんだ?
『貴方が教えてくれたのよ。これは滅びた王家の家紋だって』
クララはそう言って、得意そうに笑った。
それは違う。僕はその話を、君にはしていない。僕がそれを話したのは、君じゃない。
あの子だ。
もしかしたら、僕は『真実の愛』の中に、それを書いたかもしれない。
だが、いくら考えても、それはない。
あの小説には『赤い色の貴石』としか書かなかった。だから、そのデザインまで、君が知っているはずはないんだ。
少し前から、不思議な感覚はあった。
それを最初に感じたのは、婚約をした夜に、彼女がこの指輪を受け取ったときだ。
あのとき、クララはこう言った。
『貴方は私の騎士様ですか?』
僕はクララの専属の騎士だった。だが、あのときは、すでに任を解かれていた。
クララはそれを知らなかったし、僕の次の役目を『偽の婚約者』にしようとしていた王女の企みを、知られたくなかった。
それを知れば、クララは僕の心を疑うかもしれなかったから。
だから、僕は、それについては何も答えなかった。そして、クララもそれ以上は、何も聞いてこなかった。
本来なら、あの時点で気がつくべきだったのだ。
あの後、彼女の態度は、明らかに様子がおかしかった。
普段の彼女なら、あれほど積極的に、僕を求めてはこなかっただろう。
そして、たぶん、あのときは、僕も正気ではなかった。
クララが婚約を受けてくれて、僕を求めてくれている。その事実だけで、目もくらむような欲望の虜になった。
どうやって一線を超えずに済んだか、今ではその記憶すら、定かじゃない。
クララに溺れてしまったことで、僕はあのとき感じた小さな違和感など、すっかり忘れてしまった。
そんなことよりも、なんとかクララを自分だけのものにしたいと、そればかりを考えていた。
美しい彼女を僕一人のものとして、どこかに隠してしまいたいくらいに。
あの日、謁見の間で、殿下とローランドが彼女しか見ていないことに、僕は気がついていた。
それぞれ婚約者を伴っていたが、彼らがクララを愛しているのは、隠しようもない事実だった。
だから、早く皆の前で婚約報告をして、クララを僕のものだと宣言したかった。
しかし、それはシャザードのテロで阻まれた。
そして、あのとき僕は、次の違和感を持つことになったのだ。
クララを深く愛しているはずのローランドが、ヘザーを『大事な女』だと言った。
もちろん、ヘザーはローランドの幼馴染であったし、戦友でもあった。大切にしているのは知っている。
だが、あれは、そういう意味ではなかった。
そして、もう一つの違和感は、謁見の間から避難する前のクララの言動だった。
クララは、僕を引き寄せてキスをした。それまで何度かキスはしたが、彼女から受けたのは初めてだった。
そして、彼女は、確かにこう言ったのだ。
『カイル、愛しているわ』
クララは今まで、僕に愛を告げたことはなかった。一度たりとも。
ヘザーに向かって、僕が好きだと言ってくれたのは知っている。だが、それは僕に向けて言ったものではない。
彼女の心にはずっと、誰かが棲んでいると感じていた。
ローランドなのか、殿下なのか。または、僕の知らない誰かなのか。
それは分からなかったが、彼女は確かに、誰かに心を奪われていたと思う。
その感覚が、あの瞬間には消えていた。
僕を本当に愛してくれているのか、それに自信を持つことはできなかった。
だが、彼女からはもう、葛藤のようなものは微塵も感じられなかった。
まるで囚われていた鎖を断ち切ったかのように、彼女の言葉にも心にも、一切の迷いが消えていた。
シャザードとの魔法戦を生き残った後、僕は彼女の変化を、何か彼女に起こったのかを、きちんと確かめるべきだった。
だが、事後処理や騎士の任務に追われて、なかなかそれが叶わなかった。
その代わり、殿下やローランドに、激しい違和感を覚えることになった。
ローランドは、幼い頃から許婚だったクララに、ベタ惚れだったはずだ。
それなのに、彼は婚約者であるヘザーを溺愛していた。それこそ、周囲が胸焼けするくらいに。
クララ一筋で、どんな女も一向に見向きもしなかった殿下が、後継を得るために、気に入った女性を側室にと選び始めた。それも何人も。
しかも、それだけではない。
レイしか目に入っていなかった王女が、すんなりと殿下と婚約した。
そして、王女しか愛せなかったレイが、あちこちで公然と浮名を流した。あまつさえ、結婚するという。
しかも、それが、あの嫉妬深い、王女の勧めだというのだ。
この世界の、何かが完全に変った。
高位の魔術師であったレイは、そのことに多少は気がついているようだった。
だが、彼はその変化をすんなり受け入れていた。
むしろ、長いこと縛られていたものから解放されたように、魔力を失ったことすら楽しんでいた。
魔力は失ったけれど、それ以外は全く変っていないのは、本当に僕だけだった。
それなのに、クララは僕が変ってしまったのではないかと、つねに疑っていたようだ。
あの野外劇場に到着するまで、彼女はいつも不安そうだった。
彼女はみなが、そして自分も変ったことを知っていたのだ。
こうなると、考えられることは一つしかない。
みなを、この世界を変えたのはクララだ。そんなことができるのは彼女しかいない。
『宿命の巫女』
それが前世で、彼女が負った業だった。
女神の提示する約束された栄光の未来。彼女を得ることで世界を掌握できると、選択肢に選ばれた男たちの思惑に振り回され、最後には命を落としてしまった、僕の最愛の人。
彼女の命が絶たれたとき、女神との契約は切れた。
選ばれるはずだった男たちの未来は閉ざされ、やがて自滅への道をたどっていった。
その証拠に、チューダー朝だけでなく、跡を継いだスチュアート朝も、結局は滅亡したのだから。
僕はその事実を、王宮の閉架書庫にある古い記述で知った。
そして、その文書の著者の末尾に名を連ねていたのが、西の賢者だったのだ。
クララは、西の賢者と知り合いだった。そして、僕があの部屋に入るまで、何かを熱心に話し込んでいたようだった。
間違いない。彼女は現世でも女神の宿命を背負い、そして、今度は命を落とさずに、それを断ち切ったのだ。
だから、女神に選ばれた男たちは、彼女への執着を失った。……僕を除いては。
僕は、前世の記憶を持って生まれた。
そして、クララを愛するようになって、彼女があの子の生まれ変わりだと知った。
前世では、女神に選ばれなかった僕を愛したため、彼女は栄光の未来を捨てて、死を選ぶしかなかった。
だから、この世界では、僕は彼女に正しい選択してほしかった。幸せになれる道を。
『離れ離れになっても、いつか必ずまた巡り会う。僕を忘れないで。君のことも絶対に忘れないから。そのときには、君の幸せな姿を見せてほしいんだ』
あの子が最後にしてくれた約束は、僕を忘れずにまた巡り会って、そして、幸せな姿を見せてくれるというものだった。
クララはその約束を守ってくれた。僕のそばで微笑む彼女は幸せそのものだった。
そして、彼女は現世でも、僕を愛してくれた。
クララは前世のことを覚えている。そして、僕が前世を覚えていることにも、気がついている。
だが、彼女がそれに触れようとしないなら、僕もそのことを告げるのはよそう。
あれはもう、過ぎたことなのだ。
僕は今、僕の隣で眠る、ここにいるクララを愛している。
前世のことなんて、関係ない。
世界の何がどう変っても、今、僕がクララを愛していることは、揺るぎない事実なのだから。
体を冷やさないように、僕はクララに夜着を着せ、温かいタオルでその体を清めた。
そして、自分も軽くお湯をかぶると、着替えて彼女のそばに身を横たえた。
僕たちは自分たちの意志で転生し、めぐり逢って愛し合った。
僕たちの二人の未来は、今ここから始まるんだ。やっと二人で。
この先に、どんな苦労や困難があろうと、二人でならきっと乗り越えられる。
彼女の温かい体温に包まれて、僕も眠りに落ちた。
明日、目が覚めたら、クララに伝えよう。いや、いつでも、何度でも伝えよう。
今ここにいる君を、君だけを愛していると。
いよいよ次話で完結です!
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