神はなし
人と違うことは人間として生きるには生き辛いのよ、と水香さんが言った。
杢埜には意味がよくわからなかったけど。
センセは人間で、杢埜は人間じゃない。
水香さんは人間だ、多分。
この町は人間の世界からは少しずれていて、人間が迷い込むことはあっても人間が住んでいるのは珍しいらしい。
センセはこの小さな事務所の主で、困った人を助ける良い人だ。
杢埜はまだ小さいから役立たずだけど、大きくなったらセンセのお手伝いをしたい。
「異能者なんて孤独。世界に受け入れられずに死ぬまで生きていくだけ」
そんなことを言う水香さんは度々事務所にやってくる借金取りだとセンセから聞いた。この町の偉い人にセンセはなにやら借金をしていて、水香さんはその遣いとして取り立てにやってくる。
見た目は長い黒髪のきれいなお姉さんで匂いは人間だと思うけれど、事務所のドアから入ってきたことは一度もなく、気が付けば部屋にいるこの人が本当に人間なのかは疑問がある。
だって杢埜なんてなんの力も無い。頭の上にぴんと立った黒く大きな耳とふさふさした尻尾ぐらいしか特徴を持ってない。
「でもセンセは人助けしてるよ」
センセの右手は不思議な右手。ひとたび触れればどんな無機物も言葉を持ってしまう。
だからモノは記憶を語れるし、感謝を伝えるし、真実を暴きだす。
「インスタント付喪神を生み出すだけの引きこもりにしては頑張ってると思うわ」
水香さんってきれいだけどいじわるだ。
センセがどんなつもりで人助けをしているのか杢埜は知らないけど、困ってた人がほっとした顔で事務所を出て行くとき杢埜は自分のことのようにセンセを誇らしく思うんだ。
杢埜は昔の自分のことをよく覚えてない。
気が付けばセンセと一緒に暮らしていて、センセの仕事を隣で見ていた。
センセは無口でなに考えてるのかわからないし、結構おじさんだし杢埜のタイプじゃないんだけど、何故か杢埜はセンセが大好きだ。
それなりに楽しい日々の不満は事務所の外に出ることを禁じられてること。一人で出たら危ないからと言われても、外の世界が気になってしょうがない。妖怪しかいないような町で妖の杢埜にどんな危険があるというのか。
窓の外ですっくとそびえ立つ一番高い煙突。あそこは銭湯で水香さんが住んでいるところだと聞いた。いつか連れて行ってもらえるかしら。
それにセンセから邪魔者扱いはされてないけど、必要ともされてない気がして、ちょっと寂しい。
大きくなったらなにかできるようになってすごく役に立って、センセに必要だって思ってもらえるはずだ。
でも杢埜が大きくなる前にセンセが死んでしまうかもしれない。人間だしおじさんだもの。
「神様を生み出せるセンセは神様みたいな人だよ」
「付喪神は神じゃなくて妖怪だけど」
「でも神って」
「それは当て字で九十九髪、つまり白髪になるような長い年月を経て魂が宿ったモノの妖怪。インスタントで無理矢理魂持たせてすぐ消えちゃうようなものは妖怪ですらない」
妖怪でもないなら、持ち主を慕うあの魂はなんなんだろう?
水香さんの突き放すような物言いになんだか胸が痛くなる。
「そんな能力なんて欲しくないからうちに借金してまで手袋を買おうとしてるんでしょ」
「手袋?」
「あら聞いてないの? 能力を抑え込む手袋のために借金してるって」
そんなの知らない。だってわざわざ聞いたこともなかったもん。
「闇に紛れるような黒い毛並みをした妖狐の皮で作った革手袋。それをしていれば不用意に能力を使ってしまうこともなく普通の人間として暮らしていけるの」
そう言いながら水香さんの手が耳に触れる。
黒い妖狐というのなら、杢埜がそうなのかもしれない。耳も尻尾も狐っぽいし。じゃあ大きくなったら毛皮にされるのかな?
なんだか痛そうだけど、でも……
「センセが幸せになれるなら杢埜の皮を使っていいよ!」
それが杢埜の役目だとしたら超嬉しいかもしれない。だってセンセの一番の役に立てる。
「ダメだ!」
それまでずっと黙っていたセンセが急に大きな声を出したから、尻尾がびっくりしてしまった。
「毛皮にするために一緒にいるわけじゃない。妖狐なんて大それたもんでもない。ただ耳と尻尾が特徴的な子供なんだから今のままでいいんだ」
「あらあらカンナガワ君ったらムキになっちゃって」
よくわからないけど毛皮にはなれないみたいだ。がっかり。
「気持ちはわかるわ。そんなことしたらまた独りぼっちだものね」
「……用が済んだならさっさと帰ってくれ」
気が付くとセンセの左手が頭の上に乗っていた。ぽんぽんと優しく撫でられている。
「その……さっきは済まなかった。大きな声を出して驚かせたみたいで」
見上げるとセンセが困ってる顔をしていた。いつも気難しい顔をしているから珍しい。
「ちょっとびっくりしたけど、センセが好きだから大丈夫ですよ」
役に立てないのは残念だけど、遠慮がちに触れる優しい手が要らない子じゃないって教えてくれる。
異能者は孤独だと、センセを独りぼっちだと水香さんは言った。もしこうやって触れることすら不慣れなら、センセが慣れるまで傍にいよう。
そのうち杢埜に慣れて独りぼっちじゃなくなって、将来友達が増えたら杢埜はセンセの役に立ってるよね?
いつかセンセが死んじゃって杢埜が独りぼっちになっても、センセが幸せだったことを思い出せばきっと寂しくないはずだ。
「どうしてあの妖怪もどきがすぐに消えちゃうかわかる?」
「妖怪になるための時間が経ってないから?」
水香さんは首を横に振る。
「自分の正体を覚えているからよ。なにであったかを知ってるからすぐに戻ってしまうの」
「じゃあ本当の付喪神は自分の正体を忘れているの?」
それにも同じ動き。
「付喪神は杓文字なら杓文字のまま、行灯なら行灯のまま、動くために足を生やし、喋るために口を開くけれど、あの妖怪もどきは魂のようなものが人の形をとって喋るでしょう? 元の姿なんて殆ど反映されてない」
確かにその通りだ。
「もし正体を無くして自分が何者かを忘れていたなら、すぐに消えたりしないでしょうね。無くした正体を思い出してしまうまでは」
「じゃあ正体を忘れてしまったらずっと存在し続けられる?」
「魂そのものがそこまで強いものじゃないから存在し続けようとしても消滅してしまうだけだと思うわ。元々妖力の強いアイテムにカンナガワ君が十年以上触れ続けて、正体を無くしたそれの行動範囲を制限すれば長持ちするけれど」
「すっごく難しそう」
そんなに頑張っても思い出したら戻っちゃうなら、すぐに戻っちゃっても最初から覚えてて持ち主にお礼を言えたほうが幸せなんじゃないかしら?
「はい、できた。なかなか可愛くなったけど心境の変化でもあったの?」
伸ばしっぱなしだった杢埜の髪がくるくる巻かれ鏡の中でお姫様みたいになっている。これはぐっと女の子らしくなった。
「この町に神様って居ないんでしょ?」
「少なくともこちら側にはいないわね。表側は知らないけれど」
「だから祈っても無駄だし、それなら杢埜が神様の代わりにセンセを幸せにするの。センセが独りぼっちにならないようにお嫁さんにしてもいたいし、女の子らしくしたらお嫁さんにしてくれるかもしれないでしょ」
「本人がすぐ傍にいるのにそれを言っちゃうところは凄いわ」
内緒にするようなことだろうか?
ちらりとそちらを見てみるけれど、センセに特段変わった様子はない。
恐らく預かってきた親戚の子供くらいにしか思ってないのだろう。発言一つで異性として意識されるのならバレバレでもいいのだ。
「つまりは自ら救いの神になろうとしてるのね」
センセにも選ぶ権利はあるけれど、センセのことだもの、選ぶところまでいけないだろう。だったら選択肢なんてないのも同じ、杢埜が家族になればいい。
「まあそれはそれは。カンナガワ君は幸せだこと」
「センセもう幸せになってるの? それだとどうしたらいいかわかんなくなっちゃうから杢埜がお嫁さんになるまで待ってて」
珍しく水香さんがケタケタと笑い出した。なにか可笑しいこと言ったかな?
センセはまた困ってる。でもなんて和やかな日だろう。
なんか変なこと言っちゃってたんだとしても、水香さんが楽しかったなら良かった。
それから結構頑張ったけど、そんなに日常に変化は見られなかった。
センセの仕事を眺めて、ときどき水香さんがやってきて、杢埜はセンセの傍にいた。毎日好きだって言っても返事はなかったけど、欲しいのは返事じゃないから気にしない。
寂しくないように傍にいられればそれでいい。ほんの少し慣れてくれた気もする。
こんな日常でも繰り返せばいつかはセンセを幸せに出来るはず。
「今日は起きられるの?」
「うん」
「そう、いつもより具合がよさそうね」
ある日杢埜の体はゼンマイが切れたように動かなくなった。
脚が重い。腕が重い。頭が重い。体が重い。
もうなにもさせるなと体中が悲鳴をあげている。
センセは心配してないふりをしながら、仕事をしなくなり、この布団のある部屋から離れない。
無表情を装って淡々と杢埜の世話をする。
毎日水香さんがやってきては甘いものを口に運んでくれるけれど、もうあまり飲み込む力がない。
鮮明に見える最期が悲しい。杢埜は結局センセを独りぼっちにしてしまう。
この町に神はいない。この町は神の存在を許さない。
センセの救いの神になろうとした杢埜を町が呪ってしまったのだろうか。
ごめんなさい。なんの力もないのに救いたいと思ってしまって。
苦しいのは体より周りに迷惑をかけていること。最後の力を振り絞ってもこの首をちぎり取ったりできない。
「ねえ、前にした話を覚えてる?」
「どんな?」
「カンナガワ君の生み出す付喪神もどきがすぐに戻ってしまう話。正体を覚えているから戻ってしまうって」
ほんの数か月前にした話だから覚えている。
「びっくりするほどあなたが鈍いから驚いたのよ」
「うーん?」
なんのことだろう?
続きを話そうとする水香さんをセンセが制した。
「カンナガワ君にできるの? できなくてもするって言うなら、いいわ2人きりにしてあげる」
水香さんがそう言って姿を消してしまった。
少し後悔した様子でセンセの目が泳いている。きっとなにかを迷っていて、それは杢埜に関することだろう。
「君はもうすぐ僕の前から消える」
そうだろうね。
「このまま苦しませてじわじわ最期を迎えるのと、今すぐ楽にしてやるのはどっちが幸せだろうかとずっと考えていたけれど、まだ迷ってるんだ」
「センセが杢埜を殺してくれるの?」
後々センセが苦しまないならそうしてほしいけれど、きっと苦しむに違いない。
「殺さないよ。ただもう苦しまなくて良くなるだけだ。けれど、初めての家族を失いたくないってわがままでずっと苦しい思いをさせてしまった」
こんなに話すセンセは仕事のときしか見たことないし、杢埜を家族と呼んだのも驚きだ。センセのわがままで生かされていたなんて幸せでしかない。
杢埜だけが幸せになってしまうのは良くないと思うけれど、もう杢埜はセンセを幸せにすることなんてできないから、素直に喜んでおく。
「センセが幸せになるならなんでもいいよ」
この状況でどっちが幸せかなんてわからない。このまま死んでしまうならセンセの未来を見ることもない。
センセが頭を撫でる。ここ最近は随分慣れた筈の動作なのに、まるで初めて杢埜を撫でたときのようにぎこちない。
よく見れば、いつもの左手は視界にある。じゃあこれは右手だ。仕事以外ではなにも触れないように頑なに懐へ仕舞い込んでいたセンセの不思議な右手。
初めて触れる筈のその感触を懐かしいと思う。
そうだ、懐かしいこの感覚を知っている。
そう思うとさっきまでの苦しさが消えて、重しが外れるように体が楽になった。
無くしていたものはこれだ。
杢埜と呼ばれていた私はこの手をを知っている、私はずっとここに居たのだから。
懐かしさに身を委ねれば、泉のように言葉が溢れだし、流れていきそうな大切な言葉を必死に拾う。
「思い出した……神流川さん、私に名前をくれてありがとう。大切にしてくれてありがとう」
何の工夫もない陳腐な言葉だけど、激流の中わかりやすい言葉しか拾うことができない。
この姿に残された時間は僅かでもなにも伝えられないで消えるより、伝えることができてこれからも一緒にいられるのが嬉しい。
「私は死なないよ、もう話せなくなるけど、神流川さんの右手にこれからもずっと私はいるの」
これから先もずっとずっと愛してると伝えようとしてやめた。
私は付喪神のできそこないで、救いの神にもなれないものだから、杢埜としてその言葉を遺すのは彼の重荷になるだろう。
私はあなたの手袋。黒い化け狐の皮でできていて、ずっと神流川さんの右手にいた。
日常生活を問題なく過ごすためだったけれど私たちはいつも一緒だったし、水香さんのことも知っていた。
何十年も右手の力に触れていて、ある日受けきれずにパンクして出てきてしまった私を神流川さんは邪険にしなかった。私がこの姿でいればいるだけ自分が不便だったのに、なにもかも忘れている私に正体を教えず、代わりに名前をくれたのだ。
杢埜として長持ちするように環境を整えて、町に呪われたわけでもなくただタイムリミットを迎えた杢埜の面倒までみてくれた。
だから彼の重荷になる言葉は拾わない。杢埜は最期までただ感謝をするだけだ。
「たくさん愛してくれて……ありがとう」
「救いの神を失った気分はどう?」
目の前には慣れ親しんだよく知っているはずの手袋が落ちている。拾い上げて久し振りに身に着けると、依然と同じようにしっくりと右手を包み込んでいる。
「やっぱりこの町に神はいないのね。悲劇的だわ」
愉快そうに茶化す声。
「あんたにしては珍しく絡んでくるな。そんなにショックだったのか?」
「そんなわけないでしょう? 私は冷血な人間だもの」
よく言う。普段なら動揺なんて人に悟らせない彼女だ。僕が子供のときからずっとそうだったし、ここまで水香が感情的になるところなんて見たことがない。
僕も彼女も人間のいないこの町で自分の本心をさらけ出すことなんてしなかったから、感情を隠すことが体に染み付いていたはずなのに。
「ねえ、絶望した? 初めての家族を失ってまた独りぼっちでしょ」
不思議とそんな気持ちはない。今の僕は独りだなんて感じない。
「絶望してないってわかってて聞いてるだろ」
「……私とカンナガワ君はこの町の中で一番似てると思ったのに、やっぱり違う人間なのね」
「僕もそう思ってたよ。あんたと僕は似てるって。だけど僕はたった一人でも、それが一瞬でも、愛し愛された記憶があればそれで生きていける」
「私の中にはなにも残らなかった。あの子が救ったのはカンナガワ君だけ」
「杢埜はあんたのことも救おうと思ってたよ」
水香は僕に背を向けた。
誰にも愛されず迷い込んだこの町で出会ったときからその姿は全く変わっていない。僕と違う点があるならば彼女は人間をやるには長く生き過ぎた。
「この町を出ていくの?」
「大曲町の養分になるのをやめて、外の世界で人間として生きて人間として死ぬことにしたよ。この先ずっと二度と愛されないとしても、傍に杢埜がいる」
「……あんな小さかった男の子がいつの間にかこんなおじさんになっちゃって、それで私の知らないところで死んでしまうのね。でもいいわ、私には救いの神なんて必要ないもの」
別れの言葉は特になく、水香とはそれきりになった。
もっと若かったら一緒に行こうと言えたかもしれないが、僕にそんな若さはもうない。
僕は、僕を救った神様と共に生きる。
いつか僕が野垂れ死ぬ日に、手を差し伸べてくれると信じながら。