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やっと、温い土が石畳に、私の素足を2拓3拓と刻み、肉球の轍がそれに続く。
彼は昔から、抱かれるのが嫌いだった。
私から貰った稲穂を咥えて、満足げに私の後についている。
肥えた土は寧ろ、私達に石畳の余所余所しさを説くようで、素足の朝の街は麦畑よりも冷たく感じた。
思えばこの路地には、あの頃よく赴いた。
早朝、街外れはまだ私たちに一会も、齎さない。
しかしそれよりも私が思うのは、この石畳、この店のレンガの1つ1つに至るまでが思い出深いにも関わらず、強い既視感を覚えないのは、創造者の執念深い性質に違いない。ということだった。
私が気付くかつてとの違いは、石畳は土気に色を当てられ、レンガには目地材の劣化に合わせて露出して、それに当てられて磨耗する経年劣化が見られた事だ。
やはり細部まで隔てなく、光陰は刻まれていた。
さらに路地を細かに見渡せば、酒樽や鉢植えなどの物が増えているばかりか、簡素だが物置き小屋のようなものまで増えていた。
どうやら人が増えたようにも思える。
私の想像が生んだ人達が、ひとりでに増えるというのも思えば不気味なものだ。
そんなことを考えて歩いていると、ふと樽の上の割れたワイングラスに目が止まった。
足を止め、手にすると、ある事に気付く。
それは私の創ったものではなかった。
見ればグラスの台座と足の間に、新たにガラスを巻き付けた跡がある。
これはガラスを加工上の不可抗力で、紛れも無く吹きガラスの細工による人工物だった。
私が創作するような「簡単に完全」なものではなく、物理法則に敗北した、正真正銘の「製品」だった。
しかしそれには壊れてしまった今でも、その今はくすんだ銀製の持ち手には、代わる代わる嗜む人間の愉快そうな指々を、笑い声を、連想させる趣きがあった。
私はその優美な不完全性に、思わず見入ってしまう。
そういえば。
かつてここを創った時のように、今でも私は何かを創造出来るのだろうか?
如何にも大それた儀式ではない。
かつてこの城を、この街を創ったのと同じで良いのならば。
単に掌の上にワイングラスがあると、ただ私がイメージすれば良いはずだ。質量保存の法則など元々空想の世界にはあるはずもない。
もしかしたら私が物を創る度に、この空想の世界のどこかの山や谷が削られていっているのかもしれないが、そもそも空想にとってそんな検証は不粋でしかなかった。
それは一見すれば大層な万能能力に聞こえはするが、しかし実際、私にとってイメージとは名ばかりだった。
台座の上に足が立ち、その上に楕円形のカップが乗る。素材はガラスで、透明で光沢を持ち、負荷をかければ殆どヒビを伴うことなく割れてしまう。
香りを立たせるため、一般的に上部はすぼむようになっているが、形状が画一的でないのはブドウの品種によって舌の当たりを適した場所に誘導するためだ。
フルボディの赤ワインを飲む事を想定すれば、香り浮かせに胴は大ぶりで、口のすぼみはしっかりとあるもの。
重さは
と、脳内のグリッドに奥行きをもって対象を投影するように、細部まで3Dを張り巡らせるのだ。
これならば物語でよくある、ある種の魔法の呪文の方が便利なものだとさえ思える。
しかも残念なことに、私自身はワインやワイングラスにだけ、特別思い入れが強いわけではない。
城の前身であるみすぼらしい小屋を創り出したあの時から、私の想像は何を作るにも執拗に具体的だった。
というよりも、そうしなくては何故か上手くいかなかったのだ。
これは思えば当然で、イメージ通りになるという事は、イメージ出来ない部分もその通りになるということだった。
恐らくは私の頭にある設計図を元に、素材まで具現する3Dプリンターのようなものだ。
視覚上の想像が不十分なら全てがドットの荒い昔のゲーム画面のようなものになり、質感の想像が不十分なら創った途端に崩れてしまったり、正常に作動しなかったりする。
しかもこれが、相当に凝って創っても大抵は不出来になる。
いかにも画素数が荒いポリゴン質のものが手元に出来上がったり、見た目は良くても使ってみれば木製にも関わらず不自然に真っ二つに壊れ、中は発泡スチロールのように真っ白だったりする。
これがわたしは気に入らなかった。
「夢の中さえままならないのか!」と、柄にもなく叫んだのを覚えている。
それからというもの、私はあらゆるものを作っては壊し、現実に戻っては調べものを繰り返し、元々持て余していた時間も執着心も大いに味方して、城の施工に至ったのだった。
時間について言えばかつて、ここにいる時間が1日でも、目が覚めてしまえば数時間と経っていないようだった。
そのせいもあって、現実に戻ってしまえば全く使い物にならないと思える研究や実験に、私は現実時間で数千時間と没頭してしまえたのだ。
私が創ったモノの1つ1つを構成するミクロなものは、顕微鏡で近寄って見ればおそらく、全てが原子レベルで再現されたものではないのだろう。
しかし存在するというのは「結果」が既に出ているという事でもある。
結果には常に、非の打ち所のない整合性が伴う。
逆に言えば、それが結果というものだ。
イメージの緻密な結果というものは、あくまで整合性の介入を限定的なものにするに過ぎなかった。
当然全てを意のままに再現出来た訳では無いのだろうが、イメージを細密に、時には抽象的にする事で、前述の随伴する整合性の、偶然の助けもあったのだろう。
こういったことが私があの頃に現実そっちのけで試した実験と検証の成果だった。