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目を覚ませば、どうやら麦畑にいた。
照りつける陽射しの陽炎の奥に、巨大な鋼鉄の廃城と、そこから漏れ出した城下町のようなものが見える。
見える景色の全てが、如何にも私が生涯を過ごした世界の文脈ではない。
私の身体は病床に今も有って、覚めない夢を見ることになったのか。
それとも私の煮え切らない業が、荒廃したここを死後の住まいに選ばせたのか。
どちらにせよ、今やそれが肝心ではない。
ここで目を覚ます前、私はまだ幼い頃に行方不明になった私の姉を思っていた。
今では思い出すのも憚れる、切なく、古い記憶だ。
不器用で、人知れず聡明だった5つ上の姉。
世間に馴染めず、若くして恐らくは自ら命を絶った姉。
姉は世間に認められるには優秀過ぎた。
そして千載具眼の徒を待つというには余りにも繊細だったのだろう。
まだ物心も風に靡く幼少期に、姉は私に語った。
曰く、私の意識が私の身体に宿る必然性がいくら探しても見つからないのなら、私は遂に私の鼓動さえもを信頼出来ないのだとか。
私のこの心こそ、私の心とは裏腹に歯車でひとりでに廻っている刹那を知覚する試しがあるのだ。
だとか。
どこからか本を読んで仕入れてくるでもなく、ものの観察だけで発想する姉の話や振る舞いは、周りの大人には気味悪がられ、私にとっては尊敬出来る、刺激的な紙芝居だった。
姉は夜な夜なベッドの中で空想に耽っては次の日、首を長くして待つ私に話を聞かせた。
姉の話で特に奇妙だったのは、特に姉が目を輝かせて語った話でもあった。
なんでも、空想の中で城を建てていて、人もひとりでに自律してそこに住まうと言う話だ。
夢の中は現実と同じく物理法則が抜かりなく支配して、姉の持ち寄る非現実を管理下に置こうとするのだとか。
それに対抗する為に姉は随分と調べものやら実験やらをしていたようだが、思えばあれこそが、姉の救難信号そのものだったのだろうと、あの頃の私は自衛の為に悟ることにした。
あの時姉が職場に姿を現さなくなって私たちが駆け込んでみれば、雑然とした部屋には姉の飼っていた黒猫の、眠るような死体がひとつだけ。
姉はどこにも見つからなかった。
まだ学生だった私には耐えられなかった。
どれだけ悔いて、どれだけ泣いて、どれだけ怒ったか。
姉を殺したこの世を責めるより、軟弱な私は、あの時姉のSOSに気付かなかった私を責めるほうが気を楽にしたのだ。
姉は元々、決して後ろ向きな人間ではなかった。
幼い頃から冗談が好きで、よく笑った。
いつからか姉があまり笑わなくなって、冗談を飛ばさなくなって、それでも私は姉の寂しさを慮ることは出来なかった。
私にとっては偉大な姉が、この世に認められない悔しさばかりだった。
私の姉を想う気持ちは、所詮、自分本位なものだったのだ。
大人になった私が本を読むにつれ、あの頃姉の言っていた事が、学問の定理ではその整合性を崩せない不落の城ばかりであったことに驚いた。
ともすれば姉が言っていた空想の中の城は実在して、姉は帰らぬ気まぐれを起こしただけなのではないかとさえ思った。
姉の死が私の中で吞み込める年齢になればなるほど、姉は私の中で大きい存在になっていった。
時が経ち、私の人生はそんな姉の影響もあってか、このご時世には珍しく探検家などという奇特な命題に多くを注ぐこととなった。
探検家と言っても実際にはその性質は多様なもので、研究者の外注から、場合によってはジャーナリストのような側面もあった。
厳格だった両親の反対を押し切り、レールのない未開に足を踏み入れて、苦難がなかったと言えば嘘になる。
しかし、幸運にも気長な活動は私に、少ないながらも発見と功績をもたらしてくれた。
壮年には子も孫も設け、晩年には血縁のみならず多くの支えもあった。
今では私の人生は曲がりなりにも良きものとして、側から見ればおそらく完遂されたようにも見えただろう。
だからこそただ1つの心残り。あの時姉を救えなかったという傲慢な後悔こそが、死ぬ間際の老人にはしきりに思い出された。
そしてここは、これは、余りにも真贋定め難い高等な夢だ。
見渡せばそのように景色は移り変わり、身体は馴染みある老人のまま、動く事さえ厭われる。
目の前の世界は恐ろしく精巧で、没入というには生温い臨場感だった。
姉の語っていた、緑溢れ命躍動する世界とは少し違うように見えるが、姉の言っていた世界ではないという確証も、無知な私には得られなかった。
しかしこの走馬灯が都合良くあの日の姉へもしも続くなら、私は夢の中でさえ1度、姉を救いたい。
1度でいいのだ。叶うのならば、夢の中でさえ。
1度だけでも。