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寸鉄でも人は殺せてしまう  作者: 佐々城四郎
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前編

初衣うい:この物語の主人公

春香はるか:初衣の母

圭一けいいち:初衣の父

萌音もね:初衣と家庭教師として知り合い、その後年の離れた友人になる

彰子あきこ:春香の姉、数少ない初衣の親戚

美咲みさき:初衣の学校の友達

翔人しょうと:初衣の学校の友達


 昔々、ある一つの小さな村に一人の女の子がかぞくとしあわせにくらしていました。


 少女はすくすくとそだち、たくさんの人からあいされていました。少女もたくさんの人をあいしていました。

 

 しかしある日とつぜん、女の子はその村からいなくなってしまいました———



 けたたましい電子音が今日も朝早くから部屋に響き渡る。あぁもう分かってる、もう起きてるってば。

 部屋にはもちろん私一人。誰にも見られていないことをいいことに、半分殴りつけるかのように目覚まし時計のボタンを押す。それと同時に忽然と音も息の根を止める。

 背面のスイッチも忘れずにきる。これをきらないと五分後にまたアラームが鳴ってしまう。きり忘れると、朝から親の機嫌を損ねてしまいかねない。

 それにしても誰だろうこんな機能を思いついたの、全然意味を成してないじゃん。小学一年生になりたての私だって二度寝予防のためだって分かる。でもこれじゃ、ボタンと一緒にスイッチも切ってしまったらないのと同然じゃないか。

 すでに、ほぼ同タイミングできるのが習慣になった今、もはや第二のスイッチに存在価値はない。

 もとより目覚まし時計が無くとも私なら起きることができる。


 じゃあなぜ目覚ましをかけるのかって?そんなの決まっている。親がそうしろ、って言うからだ。

 親の機嫌が悪い時のタチの悪さときたらこの上ない。私はもう一人でも大丈夫だ、と以前は言っていた。今はもう、今後とも二度と言うつもりはない。

 それを口にしただけで長い長い説教が始まる。他の家庭もそんなものだろうか。友達との会話の中でその類の話題は今までにはない。

 まあ予想もつくがうちの家が稀なのだ。だからといって後悔はしない、それも疲れたからだ。

 そろそろ動かないと、一階から罵声が飛んでくるかもしれない。

 ある意味この目覚まし時計よりも有効かもしれないが効果は必要としていない。

 今日もまた、いつもと変わらない日常が始まる、何か私に転機が来ないだろうか——。


 「遅いじゃない、目覚まし時計が鳴り止んでから何分経ったと思ってるの?時間は大切にといつも言ってるのに」

「はい、ごめんなさい…」

何を私は朝から母に謝っているのだろう。もはや反射レベルで口にしてしまっている自分が嫌いになる。

 一階に 降りてきてすぐだが食卓に向かう、無駄な時間は過ごしていられない。

 父は先にスマホを片手に朝食を食べ始めていた。私は四人掛けのテーブルの、父が座っている斜め正面、いつもの位置に座る。自分の分はすでに机上に並んでいた。

 静かに手を合わせ、「いただきます」と静かに呟く。父母からの応答はない。

 淡々と朝食を口に運んでいく。母は食器を洗っていた、きっと朝食は済ませているのだろう。誰も一言も発さず、ただBGMがわりにニュースキャスターが画面越しで話すだけ。

 こんなんだから、ご飯が美味しくなくなる。いや、寧ろ味気なくさえ感じた。

 『続いてのニュースです。先日起こりました日本国内初の爆破テロ事件を起こした組織の主犯者の一人が昨日逮捕されました——』

 女性キャスターが抑揚もなくひたすら話し続けている。そういえばこの前そんなことがあった。テロが起こった地域までは小学生の私には分からなかったがここら辺ではないらしい。巻き込まれた人には申し訳ないが私には直接関係はないか。

 それに、この家族には爆破テロごときでは話題のタネにもならない。おそらく世界が半壊するくらいじゃないとうちは動じたりしない。今もこうやってひたすら口に物を運ぶだけの作業が続く。

 父が先に食べ終え席を立った、しかし一言も発さず。母もまるで気がついていないのかと思うほど関心を持たない。なぜって?答えは日課だからとしかいえない。

 私もそろそろ食べ終えないといけない。学校には余裕で間に合うが私の家族にはルーティーンがある。朝食は十分、昼食も十分、夕食だけは20分以内、これ絶対。破った日には母のの機嫌が普段よりも悪くなる。ご飯くらいゆっくり食べたいものだ。

 とは言っていられない、私ももうこの苦痛に慣れてしまっているが、苦痛には変わりない。そもそも根本的に人を嫌な気持ちにさせていい気分になる人間じゃあるまいし、やっぱ家の中では上手く立ち回る必要がある。正直生まれてくる場所を間違えた、と真剣に思う時もあるのだが。

 十分やや手前でなんとか胃に押し込むことができた。若干母の顔に心の声が滲み出ていたが気にしてはいけない。ジロジロ見るのもよくない。

 気がつくと父はいつのまにか家を出たらしい。いつもそうやって静かに出掛けていく。静かすぎて本当に分からない。私も後を追うわけではないが歯を磨いて顔を洗って髪を直して着替えて忘れ物は無いか確認して、母に一言「行ってきます」と言い玄関へ向かった。

 「寄り道はダメよ」

「分かった」

 その言葉は心配故なのか、はたまた面倒ごとは起こすなと言いたいのか、私はまだ聞いたことがない。


 ほらやっぱ間に合うじゃん、間に合うどころか余裕だし。

 朝の学校はいつに増して賑やかである。この歳ですでに人生に息切れつつある私は、別に嫌じゃないが混ざることもない。席に座って本を読むだけだ、早く来る意味もない。

 「おはよう、初衣ちゃん」

「うん、おはよう」

そう、本を読んでいるのは好きでやっていることだが別に友達がいないわけではない。

「難しそうな本読んでるね、初衣ちゃんの?」

「ううん、お母さんに借りたんだ」

嘘だ、本当は部屋から黙って持って来た。本を借りたいと申し出たことがあるがその時は、「本を読んでいる暇があったら今のうちから勉強してなさい」というような内容のことを言われた。それを当の所持者が言っていいものなのか反論してみたくもなったが、私は大人だから見え見えの地雷を踏んだりはしない。

 「初衣ちゃんってすごいよねー、難しい字も読めるし算数もできちゃうもん」

 だんだんと私の席の周りに人が集まってきた。自分で言うのもなんだが、学力においては学年、いや一年ですでに校内成績トップだと自負している。小学課程の漢字と算数はすでに予習済みだ。一年ながら社会や理科も父母に教わっている。父母ともに有名大学卒業らしく私に対して勉学には厳しい。まぁそのお陰でこれだけ周りに慕われるようになったのだが。しかし大切なのは学力じゃないとここ最近思ってたりする。

 「勉強が好きだからね、続けられるんだ」

また嘘をついてしまった。嫌いではないが正直好きにもなれない。

「すげぇなー、でも初衣ってたまに意味わからんこと言うよなー」

気がつくと男子も来て…、意味わからないこと…?そんな事があっただろうか。

「ほら、難しいこと言うじゃん」

「うそ、そうだった?覚えた言葉ってつい使いたくなっちゃうんだよねー…、あはは…」

他の子の反応からも見てきっとそうなのだろう。自覚がない、言葉は選んでいるつもりだがそれでも中に伝わらない言葉があるのか。

 「なぁなにか俺にも難しい言葉教えてくれよ!」

「えぇー…、そうだな、じゃあ四字熟語って知ってる?」

知らなーい、と周りから声が上がる、ちょっと先生になった気分。

「えっとね、漢字を四つ繋げてできた言葉を四字熟語っていうの。例えば…、一石二鳥、以心伝心、一期一会とか」

鉛筆で机に書きながら説明する。

「すげー!」

「なんかかっこいい…」

「最後の美味しそう!」

と口々に喋る。美味しそうって…、苺じゃないんだから…。

「初衣ちゃんってなんでも知ってるね!」

「なんでもは言い過ぎだよ」

「そんなことないよ!初衣ちゃん天才!」

そうなのかな、そこまで言われると悪い気もしなくなる。ただ引っかかるのが天才は親に怒鳴られるのだろうか。もし答えが否なら私はただの凡人に過ぎない。

 そもそも家族に褒められたことがあっただろうか。思い返すが思いつかない。今まで普通のことを維持している感覚だった。努力には変わりないが当然だと過ごしていた。学校にいると途端に家が嫌いになる。

 この歳にしてはもう十分、大人びていると思っている。それでもまだ七歳、垢抜けていない自分が残っていることに少し愛しく感じる。

 まだ皆んなは私の話で持ちきりらしい、私は置いていかれているけれども。

 どうなのだろう。今はまだ、ここにいる皆んなみたいに子供でいたい。どこかで甘えていていたい。親は許してくれないけど、もっと友達と遊んだりしたい。

 馬鹿馬鹿しい内緒話に、意味もない合言葉とか。それもまたいいじゃん。

 もう少し自分に素直でいたい。

「ねぇねぇ、私ね——」

小さな一人の少女は自分の道を確かに進んでいた。


 「初衣!ねぇ初衣!どうしてお母さんの言うことが聞けないの!」

この人は何を言ってるのか、私が今まで言うことを聞かなかった試しなんて無かったのに。

「別に」

「親に向かって何よその口は!」

「これ以外に言い方ないでしょう」

 母の顔はみるみる赤くなっていく。今までは散々言われっぱなしだったから、母の反応にはずいぶん楽しませてもらっているものだ。

 「あれだけ他の子と関わっちゃいけないと言ったのに、まさか遊んで帰るだなんて!あんたも馬鹿になったらどうするの!」

「大丈夫、私が馬鹿になった時はきっと親の教育が悪かったのね」

「あんたって子は…!」

地団駄まで踏み始めた。あぁ怒ってる怒ってる。だが今のは少し私も頭にきた。大切な友達を馬鹿者扱いにされちゃ誰だって癪に触る。

 「反省して二階で勉強してなさい」

「別に反省することがなくても勉強くらい馬鹿でもできるよ」

「ふざけないでっ!」

 そろそろ付き合ってやるのも疲れたし、もう二階に行ってこの場から立ち去ろう。そっぽ向いて階段に向かう、後ろから言葉にならない叫びが聞こえてくる。

自室に戻り扉を閉める、その流れでベッドにダイブを。

 親に反抗するのはこんなにも心地よいものなのか。なら反抗期が人生に二度くる意味に頷ける、いや違うか。

 そんな冗談はさておきこの状況、完全に私の勝ち逃げだ。要するに母は負け惜しみでさらに苛烈になるかもしれない。

 なぜか途端に辛くなった。

 あんなことを言ってしまった故に今後の関わり方がイメージできなくなっていた。何事もなく今まで通りに接するか、それとも対抗を続けるか。

 父とはどうしよう、確実に母側につくから何か言われるに違いない。帰ってきたらいつもよりもきつく叱責が飛ぶだろうか。

 つまり私は自分で自分の首を絞めたまでだったのか…?布団に顔を埋めてそんなことを考えていたら、後悔と嫌気とあと分からない何かで目が滲んできた。

 恐らく開かれる今夜の説教に備えて、今からでも反省のセリフを考えておこう。少しでも伝わる言葉を、推敲を重ねた嘘臭くない物言いを。

 別に今まで呼び出しを食らったことがないわけではない。ただ今日は、もう顔を合わせたくなかった。一人になりたい、いっそいなくなってやろうかとさせ思った。

 そうじゃない。そんなものでさえ私には強がりだ。本当は、本当の私はきっと——。

「ただ寂しいだけなんだ…」

 その瞬間、私の中で  が甦るのを感じた。それは冷めた、いやむしろ温度がないような、暴力的な  だった。

 だが七歳の私にはそれが一体何なのか、まだ理解できていなかった。その  があるだけで、どこか夢に浮かされたような、見えない羽が生えたような、とにかく楽であれた。


 結局その日の夜はちょっとした家族会議になり、二時間ほど、二対一で、二度とないほどこっ酷く説教をされた。当たり前だが私は用意していた謝罪をし、今後とも気をつけるよう言われ、それにて終わった。

 しかし、なぜだか私には苦痛には感じなかった。きっと  があったからだ。  があるだけで不思議と強くなれる気がした。

幼い私には  が何なのかは全くもって知らなかったが、その  が『殺意』である事に気がつくのは、あの日の事だった。


あれから二年とちょっとが経って小学三年になった。この二年いろいろなことがあった、ようで思い返すとこれといったものが思い浮かばなかった。

 ただ父母の勉強方針は相変わらず厳格なままである。ここ最近、父に教わっていた理科と社会は中学、時に高校の内容を含んでいることを聞かされた。体感ではあまり違いがわからないものだったが、正直私は目的を見失っていた。

 どれが小学校レベルで、どれが高校レベルかわからない故、時折学校の先生を驚かせるのを超えて困らせることもあった。

 別段悪いことをしているわけではないのだが、他の生き物を見るかのような目で私を見る人も少なくはなく、私としては傍迷惑極まりなかった。

 しかし、それでも私の友人たちはあくまで今も友達として接し、幾分か大人よりも子供の方が平和主義なのではないかと何度も痛感したものだ。

 なのだが、正直私自身は完全な子供にはなれず、子供と大人の境を行き来している気分で、自分でも不安定なのに気がついていた。

そんな日々を変わらず送って来たのだが、冬休み、それもまだ十二月の日、父の提案で旅行に行くことになった。

 単純に珍しいな、思った。聞くに父親と母親のボーナス日がほぼ同日だったらしい。

 振り返ればこの街から出てないと言っても過言じゃない程、私は遠出をしたことがなかった。久しぶりに心が踊るのを感じた。きっと神様だって少しぐらい息抜きがあってもいい、と言っているに違いない。

 しかしその夢物語は、やはりまやかしに過ぎなかった。

 「何言ってるの?初衣は留守番に決まってるじゃない」

 母の発言だった。余りの衝撃に自分の耳を疑ったものだ。

 つまり、両親が旅行中、私は家で勉強していろ、とのことらしい。すでに家庭教師にも話はつけているらしく、はっきり言って悲しくなった。旅行に行けなかったことが悲しかったのではなく、単純に見放された、そう私は汲み取っていた。

 「お土産なら買って来てあげるから」と言われたが「いらない」と言ってしまった。

 「そんな見栄張らなくてもいいのに」

 別に見栄じゃない、でも本心でもなかった。本心は言えなかった、「私も連れてって」なんて言えなかった。

 もうなんか、どこかで諦めてもいた。ああ、私は父母の頭脳を誇示するための手段なんだな、とか思い始め、自暴自棄になっていた。

 結局私は一人孤独に家にいることになり、数日後、父母は出掛けて行った。どうやら北海道に行くらしい。この寒い時期にどうして、とも思ったがクリスマスとも重なりイベントも盛りだくさんだそうな。きっと美味しいものをたくさん食べたり、自然の絶景にでも癒されてくるのかな。

 そう、この時、私はあの日以来 が内で動くのを感じた。

 もちろん、私は以前よりも覚えた言葉は増えていた。家には私以外誰もいないことをいいことに、ドクドクと溢れる罵詈雑言を惜しげもなく号哭した。

「ふざけないで……!!私はあなた達の手段でも道具でもないの!もう家族なんていらない…、二度と帰って来なければいいのに!」

そして私は、ついに、その言葉を口にしてしまった。

「みんな     ——!」


 「すごい、この問題も解けるの? ここまでできれば私の出番はなさそうだねー…」

「いえ、そんなことないです、それにこれも父母のおかげなんです。私は何も…」

「そんなこと言わないで? 頑張ったのは初衣ちゃん本人だから」

「ありがとうございます…」

 親が出掛けて行ったその次の日から、家庭教師で萌音さんと言う人が毎日家に来てくれた。

 私のイメージではお茶菓子か何かを出すべきだったため、初日には近所の洋菓子屋さんでロールケーキを用意したのだが、萌音さんは一緒に食べよ、誘ってくれた上に次の日からはケーキやお菓子や、それもとびきり美味しくてかわいいものを買って来てくれた。申し訳なくなって、大丈夫ですとお断りしたのだが、「私が好きで持って来てるんだし、いいのいいの」と言われてしまってはもう甘えるしかなかった。

 「初衣ちゃん、一人で留守番寂しくないの?」

「正直なところ、寂しいです」

 萌音さんといると、どうも素直になってしまう。できるだけ迷惑はかけたくないと思っていながら、その柔らかな声に、表情に、気がつくと寄り添ってもらってばっかりであった。

 それにしても、教え方が本当に分かりやすい。当然ながら、今勉強している箇所もかなりのハイレベル。すごいすごい、と言いながら、この人も実は結構な高学歴じゃないだろうか。

 教わっててとても分かりやすかったからつい、休憩時に教師か保育士を目指してるのかと聞いてみたら高校の数学教師を目指しているのだと教えてくれた。通りで分かりやすいはずだ、私でも知っているような有名国公立大に通っていて、毎日教え方を教わっていると面白おかしく話してくれた。

 「私も萌音さんの通っている大学に行きたくなりました」

「ホントに?嬉しいけど…、でも初衣ちゃんならもっとレベルの高い大学にも行けるよ」

「そうですか?いや、やっぱまだ大学のことは分からないことが多いです」

 「だね、まぁ初衣ちゃんはまだ小学生だし、気にすることないよ。これからでも大丈夫」

 やっぱ普通の小学生ならそうなのか。正直に言えないが、すでに大学についても父から聞かされている。早いことに越したことはないと。少しはにかんで「はい」とだけ答えた。相変わらず嘘が好きになれない。

 ——じゃ、休憩終わりっ。続き始めよっか。

 ——はい、あの、さっきの続きなんですけどここの…。

 それでも今この時間はもう少し続いて欲しかった。ただ萌音さんが優しい人だったから、でもない気がするが、兎にも角にも普段張り詰めている空気がないだけで正直に言って楽だった。

 まだ子どもらしくありたいと思う自分はとうの昔にねじ伏せた。「演じてきた自分」が今更変えられない「自分そのもの」になっている。嫌気すら今はない、後悔もない。ただ、自分の中には答えが見えない疑問だけが残っていた。

 本当にこれでいいのかと。


 父母が帰ってくる前日も、変わらず同じ時間に萌音さんは家に来てくれた。ただ、萌音さんはいつも通りではないらしく、何故だか目に涙を浮かべているのが見て取れるほどだ。

 玄関先で、会ってすぐに抱きしめられた。何も言わず、静かにそっと引き寄せされた。嗚咽をこらえていて、肩が震えているのが洋服越しにもわかる。

 「急にどうしたんですか…?」

「……、ごめんねいきなり…、とりあえず中入ろっか」

 萌音さんの、涙で濡れた笑みはいつに増してキラキラしている気がした。

今まで通り私の部屋に迎え入れたが、面と向かう時には、萌音さんの顔は流れた涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 大丈夫ですか、と声をかけた。大丈夫、としゃがれた声が返ってきた。続けて、

「初衣ちゃんは、大丈夫…?」

と聞かれた。何が…?全く心当たりがない。

「私は大丈夫ですけど…。すみません、何かあったんですか?」

 何か近所であったのだろうか、不審者とか空き巣とか。もしかして萌音さんは、その人と偶然出くわして今ここに逃げるように転がり込んだんじゃないだろうか、と色々な推理が脳内を駆け巡る。じゃあ今ももしや、この家の近くにその犯人がいるんじゃないか。さっき玄関の鍵は閉めたっけか、そんなことわざわざ覚えているわけないから尚更心配になる。

 でも、萌音さんはただそこにじっと、震えた拳を膝の上に握りしめていた。

そして、萌音さんはとうとう、口を切った。

「初衣ちゃんの、お父さんとお母さん、事件に巻き込まれて、亡くなったって…」


 内容は頭にすっとは入ってこなかった。驚きはした。でもショックはなかった。怖かった、自分があの時に言った言葉が現実になった。それだけで背筋が本当に凍りつきそうだった。

 「ごめんね、本当にごめんね…」

萌音さんが謝る理由はないです、とは言えなかった。

 こういう時なんと言えば、萌音さんの押し殺した声だけが断続的に部屋に響くだけで。

 喉まで出かかった言葉は、当然ながら喉止まりで、言葉にできない感情は、一方的に私を置き去りにした。

 でも一つだけ、聞かないわけにはいかないことがあった。

「あの、事故じゃなくて事件なんですか…?」

「…うん、車が突然爆発して、それにお母さん達の車も巻き込まれて…。他にもたくさんの人が亡くなったって…」

 車が爆発…?どういうこと?

「去年くらいにさ、国内で初めて爆破テロを起こした人が捕まったじゃん。あの人最近死刑判決が出て、そしたらその人を解放しろって国内で自爆テロが起きて…。犠牲者が出るのは今回が初めてだって…」

 爆破テロ…。記憶の片隅にほんの少しだけ残っていた。私には関係ないスクープだと知らんぷりをしていたあの頃とは反転、私の家族が、犠牲となった。

 急いでテレビをつけたら、確かにその事件でニュース沙汰になっていた。

 泣いている萌音さんに対して、私の目からは涙は出てこなかった。血の繋がりがあるのは私のほうなのに。

 それよりもここから逃げ出したい、一刻も離れなければならないと脳が作動した。

 自分の行き過ぎた行動で、あの時の発言が、事実になるとは思ってもなかった。私のせい?そんなはずはない、だってありえない!呪いとかそういうのは現実味がないから信じてこなかった。それ故に混乱が収まらずにいる。

 偶然か、思い込みか。そうであれと思って止まなそうにない。第一にまず今までにこんなことはなかったじゃないか。いや、ただ願わなかっただけだったかもしれない。

 確か、覚えてないけど、過去にも似たようなことがあったはず。あの時はそれがなんなのかは知らなかった。でも今はわかる。

 『みんな ねばいい———。』

 確かそういった時、あの温もりのない感情が、まるで背中にもたれているように、存在を感じた。

「初衣ちゃんは大丈夫、大丈夫だから…」

 何も言わない私を見かけて萌音さんが声を掛けてくれたみたいだ。素直に申し訳なくなる。でも今の私には、ただ頷くことしかできなかった。

 それに『大丈夫』という言葉が深く突き刺さった。きっとそういう意味合いではないのに、「これからのことは心配しなくていい」じゃなくて、「あなたは何もしていない」に聞こえた。

 あぁ私は人殺しだ、もうそれ以上でもそれ以下でも気持ちの整理が及ばなかった。どうする、萌音さんに打ち明ける?いやいや何を言っているんだ、だからこんなの偶然だって言ってるじゃないか。こんな根拠のないこと言って心配かけてもしょうがない。

 あの時感じたものは私だけに限ることなのかも分からない。一回目は確か、小学一年だったか、もう曖昧な記憶だがなんなのか分からないままただ心強かったことだけは鮮明に覚えて覚えている。今となれば、それが『殺意』と知りむしろ自分が最も怖い。あの時からすでに、私の中で何かが覚め始めたのだろうか。

 なんにせよ、私の父と母は死んだ。つまり私の願いは叶った。口に出して叫んだあの望みが現実になった。

 人の命っていうのは、たった一人の軽はずみな発言で、こうも簡単に奪い去られてしまうものなのか。なんだか寂しくなる。

 目の前では泣き崩れる赤の他人。それを観る係る人。もし神なる者がいるのなら、この世界はどう見えているだろうか。さぞ甘味だろうに。

 でなきゃこんな不幸なことは絶対に起こらない。


 父母の葬式は静粛にこざっぱりと終えられた。おそらく、父母の仕事先の人らが出席した人のほとんどを占めていた。

 そう、知らないことであったのだが、私の親戚は、数えられるほどしかいなかった。この時に、父は一人っ子だった事を知った、私と同じだ。

 もちろん萌音さんも来てくれた。泣いてはいないが堪えてくれているのが見て取るように伝わり、胸が締め付けられる。

 そして私は、母の唯一の姉妹、お姉さんの彰子さんの下で暮らすことになった。

 彰子さんは妹の母とは違い今も一人暮らしをしているらしい。私の世話は一も二もなく引き受けてくれた。もちろん、会うのは初めてのことだ。

「春香の姉の彰子です。呼び方はおばさんでいいからね。今も、これからも、きっとずっと辛いだろうけど、おばさんが初衣ちゃんのことはしっかり守ってあげる。もしどうしても耐えられなくなったら、一人で閉じ込もらないで、初衣ちゃんが言いたいことだけでいいから、私が受け止めてあげるね」

 春香とは母の名前のことだ。あまり名前で呼ばれているとこを見なかったからか、なんだか遠い人のように感じた。そういえば、父は圭一という名前だったけど、父も母も名前で呼び合っているところを見た覚えがなかった。

 ただ彰子さんはとても優しい人だった。実の母親のあの威厳さは面影も見当たらなかった。確かに目元や声が似てるとは思ったがその優しさは、母の分も持って行ったのかというくらい別のものだった。

 「初衣ちゃんはしっかりした子っていうのはよく聞いていたよ」

「えぇと、母に、いえ、お母さんにですか…?」

「うん、あの子自慢の娘だっていつも言ってた、あんな性格だけど私からしたら可愛い妹よ」

 母がそんなこと言っていたなんて知る由も無いし、まずそうだろうと思った試しもなかった。どこかで少し嬉しかったが、それも感情が乱れるほどでもない。

 「そういえばあの子、初衣ちゃんには何も言ってないのよね?」

「…?多分何も聞いてないと思います」

 やっぱそうだよね、と言い、鼻をすすって一呼吸置いてから続けた。

「あの子ね、お腹の中に赤ちゃんがいたのよ——」


 知らなかった、母にはそんな様子は見られなかった筈だ。

 お腹の中に子供を授かれば母親にもそれ相応の苦労が伴うのは私にだって分かる。でも母は辛いと根を吐くこともなく表に出すこともなかった。

 事実を知れば父がいきなり出掛けようと言った意味も分かる気がする。これから母が部屋に籠りきりになる前に、まだ体調が安定している今の内に、外の景色を見せたくなったのかも知れない。

 それも私が台無しにした。

後におばさんから聞いた話だと、旅の中で新たな子供の名前のアイデアを探し、「旅のお土産はあなたの兄弟よ」と私を驚かすつもりだったらしい。

 それも私が亡きものにした。

 全て私が望んだ結果、生まれたものたちだ。私は、最低なことを願った、それを知っているのは私だけ。

 いつか私は、誰からも忌み嫌われるんじゃないだろうかと途端に怖くなった。

 もう二度とあの感情は出さない、それが私に出来る唯一のことだとこれからは肝に命じて生きていくと、この時は強く誓った。


 おばさんの家は、3階建ての集合住宅の一◯二号室だった。部屋の数は少ないほうだったが、二人で住むには全く支障のないほどだ。

 一番初めに目に付いたのはリビングの壁一面を隠した本棚だった。

 「読書、好きなんですか?」

「そうなの、丁度初衣ちゃんの歳くらいに小説にハマり出してね、今はこれほどにまでなっちゃったの」

 おばさんは、読みたい本があったら好きなだけ読んでいい、と優しく言ってくれた。

 「そういえば春香に貸したっきり、最後まで返ってこなかった本があなたの家のお掃除中に何冊か出てきて。『夏目漱石』のとか私もすっかり忘れてたなぁ」

 確かそれ、私が母の部屋でこっそり借りていた本だ。母には似合わないなと思っていたが、まず母のじゃなかったのか。

 「初衣ちゃんは、読書好き?」

「はい、学校の図書室でも何度も借りてました」

 おばさんは、そうよね、と笑って、

「春香が娯楽のための本を買ったなんて聞いたことないもの」

と、懐かしむように遠くを見て言った。

 私は、何て返せばいいか分からなかった。

 「じゃあ、これからは私がたくさん本を買ってあげる。おばさん、感想とか言い合えたら嬉しいな」

「それはもちろん、ありがとうございます」

「いいえこちらこそ、おばさんちょっとお茶とお菓子持ってくる、ちょっとここで待っててね」

 立ち上がったあと、そうだ、と振り返って、

「そんな堅い話し方しなくてもいいのよ、気軽に声掛けてね」


 今まで触れることのなかった直接的な優しさについたじろぎつつだが、それでもおばさんは私を家族の一員として接してくれた。

 時間のゆくままに一緒にお茶をしながら読書をしたり、たまにほのぼのトランプやオセロをしたり、父母を悪く言うつもりはないが不思議と安心できる世界だった。

 トランプやオセロに関しては、一人暮らしだったおばさんにわざわざ用意させてしまったのかと思い、ありがとう、と一言言ったのだが、

「子どもの頃はそんなこと気にすることじゃないよ、初衣ちゃんはほんと偉い子だねぇ」

と逆に褒められてしまった。

 おばさんに褒められると暖かい気持ちになるのだが、なんだかこそばゆかった。

 そして、休日になるとおばさんはよく散歩に連れていってくれた。散歩といっても近所の何もない公園、というかは広場という言葉の方が似合う場所で百均のゴムボールでキャッチボールをするぐらいだが、外で遊ぶだなんてしたことがないし、本当に楽しくて土曜日になるのが楽しみで仕方がなかった。

 楽しい日々は続き、学年が一つ上がって四年生の四月になった頃、すでに嫌な記憶も薄れていた。

 ほんの僅かの軽はずみで、あの広場の花壇に咲いていたパンジーの、横に生えていた名前も知らない雑草に「死んで欲しい」願ってしまった。

 その翌週、おばさんからあの広場がなくなることを聞かされた。

「使う人も少なくなってきたから、あそこただの駐車場にするんだって、おばさん悲しいな」

 衝撃だった。そんなこと、想定できるわけないじゃないか。

 結局私はなんの反省も生かせてなかった。二度と繰り返さない、と誓ったはずなのにこんなにも早い段階でやぶるとは。

 それに前も、既存の家族を失ったとともに、新しい命まで踏み躙った。願いの対象以外も巻き込まれる可能性があることは学習済みなのに、私は思い出の場所を単なる興味の検証の副産物として消し去った。

 私は本当に愚かなのだな。

 だがそれよりも、今回に関してはおばさんへの申し訳なさが感情の大半を占めていた。

 謝罪をするようにわんわんと泣きついた。家族が死んだ時とは違って。

 でもそれを言葉にはしなかった。

おばさんには私がどう見えたのだろうか。子どもなのだと丸め込んだのか。はたまた違和感を感じたかもしれない。

 どちらにしろただ何も言わず、私の頭をずっと撫でてくれた。

 私は、か弱くも堅く決意を改めるのだった。


 それ以来、私は人間関係に臆病になった。

 もう誰も巻き込みたくない、誰も私に勘付かないで欲しいと思うと自然と口数も減った。

 口数が減ることで仲良しも減った。嫌われたりはないが好きと嫌いの間ぐらいの不安定なあたりを、気がつくと漂っていた。

 別に席が隣になっただけで嫌がられるほどでもないがクラスの人気者ではなくなった、その程度だ。

 学力を評価されて学級委員にもなったのだが、中心的存在にはなれずにいた。休み時間はどうせ読書ばかりで、授業になれば物足りなさに窓の外を眺めることがほとんど。

 おかげで学校がつまらなくなって休みがちになった。

 それでもおばさんは私を叱ったりはしなかった。もちろんおばさんにも仕事があって平日の昼間はいないが帰ってきたらお茶をして、ゲームをして、私の相手をしてくれた。

 そのとき、おばさんはあえて学校の話は避けているような気がした。

 そして、私が不登校気味になると、あの萌音さんから家宛に電話が掛かってくるようになった。萌音さんの大学について話したり、最近の出来事を聞いたりしたり、つい可笑しくて笑ってしまうような話をたくさんしてくれた。

 でも決まって最後は、「学校には行って欲しい」という事だった。

「無理は絶対しちゃダメ、でも長引くほど初衣ちゃんも戻るのが辛くなると思うの」

 そう言って、向こうで鼻をすする音が聞こえる。

 「ありがとう、頑張ってみます」

と返してみるも、なかなか自分から変わることはできなかった。

 今私の周りには優しい人がたくさんいる。かける言葉は違えどどれも私を思ってのものだ。

 正直申し訳なさでいっぱいだ。私は、まだ何も出来ていない。

 ほんの少し関わりがあるだけでこれほどよくされると自分の弱さを痛感する。

 学力では評価されない部分で私は大きく欠けていることには気づいているつもりだ、でもやっぱりその一歩が踏み出せない。

 私は小学四年生ですでに人と距離をとって生きるようになっていた。


 結局四年の一学期は丸一ヶ月分ほど学校を休んで夏休みを迎えてしまった。

 クーラーで冷やされた空気に慣れてしまった体を起こす。おばさんはもう起きてるのかキッチンの方から食欲をそそる音がする。

 そうだ、先日の電話で約束した通り、萌音さんが今日遊びに来るんだった。

 大学が夏の長期休暇に入るらしく、会うのは父母の葬式以来だ。もちろん楽しみだがそれよりどんな顔をして会えばいいか、正直自信がなかった。

 少し上半身を起こした状態でぼーっとしていた。カーテンの隙間から陽の光が漏れて、それが綺麗だなと思う。ついため息にも似た笑みがこぼれてしまった。

 「あら起きてたの?ちょうど朝ごはんができたところなのよ。よかったらおいでね」

「うん、今行く」

 今日は急いで支度しなくちゃ。だってずっと会いたかった萌音さんが来るんだもん、グズグズなんかしてられない。

 ベッドを飛び出して締め切ったカーテンを一気に開ける。眩しくて目を閉じたまま伸びをして、

「よしっ」

今日はきっといい日になる、少しだけ期待に胸を膨らませて部屋を後にした。


 この間おばさんに買ってもらったお気に入りのワンピースに身を包んで準備万端、あとは萌音さんが来るのを待つだけだ。

 いざすべきことがなくなるとじっとしていられず、そわそわしていたらおばさんにクスクスと笑われてしまった。

「待ちきれないの?」

「うんっ、会うの楽しみ」

「よかった、やっぱ初衣ちゃんは笑った顔の方が可愛いわ」

「え…、突然どうしたの…?」

「あぁ、いきなりごめんね、最近元気無さそうだったから心配してたのよ」

あぁ、やっぱり良くないことしちゃったな。

「ふふ、ごめんなさい、でも私なら大丈夫よ」

そう言って、くるっと回ってみせた。ワンピースが空気を含んでふわっと浮かぶ。

 「私は、あなたがいてくれて幸せよ」

おばさんは優しく微笑んで返す。それなら私の方こそ、でも恥ずかしくて言葉にはできなかった。

 「本でも読んでいたら、きっとすぐに時間が経つわよ」

「うん、そうするわ」

 そういえば、まだ読み途中の本があったっけな。確か、そう「不思議の国のアリス」。とても昔のお話なのにアニメ映画化もされてて有名だけど、小説は今まで絶版したことがないというもっとすごい豆知識をおばさんに教えてもらった本だ。

 おばさんは文字の方が面白いって言っていたけど、ちょっと怖いし、なんだかよく分からない。でも先が気になるからついページをめくる手が止められない。

 そういえば、おばさんの家に来てから本当に小説が好きになったと思う。

 前の家なんかじゃ、本といえば参考書ばっかで物語となんかほぼ接点がなかったけど、今は一日中読んでいても苦じゃないし本棚に私専用のスペースまで作ってもらった。

 本棚から「不思議の国のアリス」を引き抜いて、窓脇のソファに体を預ける。このポジションが私のルーティーンみたいなもので、いや、正しくは好きな場所だ。ここで陽に当たりながら紅茶を飲んで読書に浸るのが何より心地いい。

 萌音さん早く来ないかな、とか考えながらページをめくる。へえ、なんでもない日をお祝いするなんて、面白い人たちね。でも、よく考えれば私たちだってなんでもない日にこうやってお茶会みたいなことしているな、とか考えてなんだか嬉しくなる。

 本を読んでいると、そのお話の世界に入り込むことができる。正しく言うならば、現実世界から逃げられるようなとこか。辛いことや嫌なことを一時的に忘れられる。

 今こうやって座っているソファに体が急に沈んで、並べられた本が蝶のように羽ばたき始め、床を潜ってゆっくりと知らない部屋に落ちていく、まるで不思議の国に迷い込むアリスのように…。なんて空想もできたりする。

 私も、私にも物語の主人公みたいに、たくさんの人に出会って、たくさんの出来事に巻き込まれて、みたいな人生はもう送れないだろうか。

 いや、私はまだ十歳、人生の一割を超えた程度だ。まだ変われる、今は自分から鳥籠の中に逃げ込んでいるだけでいくらでも外へ飛び出す力ならある。

 萌音さんも、「今なら間に合う」って言っていた。「少し体調が悪い日が多かった、って言い訳ができるうちに戻らないと本当に戻れなくなる」って。

 ここ最近多少自分を甘やかしすぎたみたいだ。夏休みもいい機会だし、また久しぶりに勉強でも始めようかな。

 そうだ、今日萌音さんに勉強教えてもらおう、きっとそれが萌音さんに対して一番の答えになるはずだ。

 なんだか気持ちの整理がついた気がした。本はこんな大切なことも気づかせてくれる、私にとっては道しるべみたいな存在だ。本当に出会えてよかったと思う。

 ピンポーン———。

 インターフォンが待ちに待った萌音さんが到着したことを告げる。

「来たみたいね」

「うん、私がお迎えしてくる」

「そう?じゃあお願いするわ」

 手に持っていた「不思議の国のアリス」に栞を挟んで閉じローテーブルに置く。

 誰かから見たら何でもない日かもしれない、でも私にとっては至高のひと時であり、それ故に子供であれる証明になる日なのだ。


 「彰子さん、今日はお邪魔させていただきます!」

「いらっしゃい、待ってたのよ」

「すみません遅くなっちゃって。実はこれ…、ケーキ買ってきたんですけどどれにするか悩んでました。あとでみんなで食べませんか?」

「あら、わざわざありがとうね。いま紅茶と一緒に用意してくるわ」

おばさんはケーキの入った箱を受け取って台所に向かう途中振り返って、

「初衣ちゃん、お姉さんをリビングに連れて行ってちょうだい」

と言った。

 私はこくりと頷いて「こっち」と手を引いた。

 リビングに通すとと萌音さんは第一声、

「なんだか図書館みたい」

なんて言葉を漏らした。別に私の本じゃないのに、

「すごいでしょ?」

とか言ってしまった。それなのに、

「うん、すごいね!初衣ちゃん!」

なんて笑顔を見せてくれた。途端に恥ずかしくなって、なんだか釣られて笑ってしまった。

 私がまず真っ先にソファに座ると、

「その場所、お気に入りなの?」

と聞いてきた。そんなに分かりやすかったかな。

「そうなの、さっきまでここでこれ読んでた」

手元の「不思議の国のアリス」を見せる。

「うあぁ、難し本読んでるのね、私は英語版のなら読んだことがあるの。翻訳とは違った面白さがあるよ」

英語の本か、ちょっと読んでみたいな。でも、

「私でも英語読めるかな」

「大丈夫、初衣ちゃんなら絶対読めるよ。中学の英語はもう勉強済み?」

「うん、ちょっと前のことで曖昧だけど、お父さんに教えてもらったよ」

 そう言うと、萌音さんはハッとして俯いた。

「ごめんなさい、私余計なこと聞いちゃった…」

「え、いや私は大丈夫だよ…?」

なんで突然謝ったのか、何が余計なことだったのか、私には伝わらなかった。

 少しの間沈黙が流れて何か話さなきゃと話題を探していたら、タイミングよくおばさんがケーキと紅茶をお盆に乗せてやってきた。

「お待たせー、見て初衣ちゃん、萌音さんがもってきてくれたケーキすごい美味しそうよ」

そう言って紅茶のカップを私と萌音さんの前に置いた。ケーキは全部同じではなくて三種類のものを買ってきたみたいだ。

 「初衣ちゃん、先選んでいいよ」

なんて買ってきた本人に言われたら断るわけにはいかない。

「じゃあ…、これにする」

私は果物がたくさん入ったミルクレープを選んだ。なんだか萌音さんも嬉しそうだ。

「彰子さんも先どうぞ」

と、萌音さんは続けたのだが、

「いいえ、萌音さんが先に選びなさいな、こういうのは若い子順でしょ」

とおばさんは優しく笑った。

「いやでも、今日は一日お世話になるので…」

と言ってみるも、「いいのいいの」と返されるばかり。譲り合いになってしまったのだが、結果的に萌音さんが折れる形になった。

 少し悩んだあと、萌音さんはシンプルなショートケーキを選んだ。

「…あぁー、萌音ちゃんもそれ狙ってたかぁ、私もそれが良かったんだよなぁ」

「…え?」

声を漏らしたのは言うまでもない、私と萌音さん二人ともだ。おばさんらしくなくのさっきの態度とは打って変わってショートケーキがよかったと口にしたのだ。

「あのじゃあ、よかったらどうぞ」

「ほんと?嬉しいわぁ。ありがとう萌音ちゃん、優しいのねぇ」

なんだか変な態度だ、おばさんの言うことがころころ変わるなんて私も見たことがない。萌音さんも少し困惑気味みたいだ。

 結局萌音さんのは選んだショートケーキではなく、ガトーショコラに粉砂糖のかかったケーキになった。

 しかし、望みのものを取られたのに何故だか萌音さんは嫌な表情をするどころか、むしろ喜んでるように見えた。でも何で?

「本当はそのチョコケーキが食べたかったんでしょう?」

ん、え?いきなりの答え合わせに思考が追いついていけない。

「すみません…、でも私、何も言ってないのにどうしてわかったんですか?」

萌音さんもあからさまに驚いていた。事実、私もその謎のタネを知りたい。

「初衣ちゃんがミルクレープを選んだ時にね、萌音さん笑っていたの。それで、残りの二つのうちどっちかは自分の好みで選んだのかなって思ったの、だから先を譲ったんだけどね。悩みながら視線はそのチョコケーキに向いていたのをしっかり見てたんだけど、手に取ったのがショートケーキだったから、私嬉しかったのよ」

え、なんでそれだけで嬉しくなったの?

 素っ頓狂な顔でもしてたのか、おばさんが私の顔をみてクスッと笑った。

「初衣ちゃんはまだわからないわよね、ちょっと待ってて」

そう言って席を立って台所へ戻って行った。

 おばさんはすぐに戻ってきた。でもその手には見覚えのある、萌音さんが持ってきたものと同じ柄の箱があった。

「ごめんなさい、被っちゃったわね」

そう言って箱を開けるとその中にも沢山のケーキが入っていた。

「推理小説も沢山読んできたし、相手の考えてることはなんとなく分かるようになってきたけど、流石に未来までは予測できないみたいね」

沢山あるケーキの中にはあのガトーショコラも見られた。

「そのショートケーキ、お店の中で一番安いものだったわよね」

「本当にすみません…」

「謝らなくていいのよ、だって萌音ちゃんはあえてそれを選んだんじゃない。それって優しい人しかできないことよ。学生の頃はお金は大切にしなさい。強いて節約するんじゃなくて、大事に使いなさいな」

おばさんは母親のように窘めた。でもそれには優しさで満ちていることは容易に感じ取れた。私の母親とはまた別の優しさを。

 萌音さんは「もう彰子さん大好きです…!」と抱きついていた。それをおばさんはただ一言も発さず頭を撫でた。

「じゃあそろそろ、お茶しましょ?食べきれなかったケーキは萌音ちゃん好きなだけ持っていってね」

「はい、ありがとうございます!」

もう遠慮をするのはやめたみたいで、なんだか私も温かい気持ちになった。

 やっぱりおばさんには人を安心させる不思議な力がある。不意に、そうなりたいと思う自分がいることに気づく。おばさんは、私にとって大好きな人であり、一生たっても追いつけない目標のような存在になりつつもあった。

 ——どうしてあんなに笑っていられるんだろう、私には分からない。


 楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう、なんて言うから私は一瞬一瞬を噛み締めるように楽しんだのだが、それでもやはり名残惜しさは拭えない。

 萌音さんはもうケーキの入った箱を持って帰ってしまった。もちろんあのガトーショコラも一緒に。

 ただただ、それは楽しい時間だった。

 最後に、「また来て欲しい」と言いたかったのだが、実は…、


 「彰子さん、初衣ちゃん、実は今日言おうと思ってたことがあるんです」

「うん、どうかしたの?」

萌音さんは一呼吸置いて続けた。

「教員採用の一次試験が近々あるんです、最後の追い上げに入るんで今後少し連絡が減るかもしれないですけど…」

ティーカップがお皿に触れてカチリと音を鳴らす。空いた手を膝の上で握りしめ、萌音さんの視線が落ちる。

「大丈夫よ、気兼ねなく勉強に集中なさい。その代わり、いい報告をよろしくね」

萌音さんは「ほわぁ」とも「はわぁ」とも聞き取れるような声を出して、

「彰子さぁぁん…」

と泣き、縋り付いた。もう萌音さんったら、今日だけで何回目なのかしら。年下の私から見てもどこか微笑ましくさえ感じてしまう。

「あの萌音さん、私も、応援します…」

「ありがとぉ…、私、絶対に受かってみせますっ!」


というわけがあったのである。

「あの子なら間違いなくいい先生になれる、私そう思うのよ」

「うん」

「今は、見守っていましょ」

「うん…」

 応援したいのはもちろんなのだが、やはりどこかで寂しさが残っている。私にはまだ子供らしさが残っているかもしれない。それが喜ばしいことなのか悲しいことなのか、複雑すぎて答えが見出せなかった。


 夏休みなんてものは、私にとったては一学期とそう変わりはなかった。

 休みが長いだけのものの、水泳の補習で結局は学校に何度か通っていた。そこで私は運動が苦手なことを知った。去年まではこれほどではなかった。学年が上がって深いプールでの補習だったのだが、おそらくそれが主な原因ではないだろう。

 完全に体が鈍っている、本気で水が嫌いになりそうだった。外の外気に晒されるだけでさえ、もう目が眩んだ。

 それでも、萌音さんと約束したんだ、二学期は絶対に学校に行くと。こんなところで、人生を棒に振るわないと。私よりも、私のことを気にかけてくれる人に気づけた。そしてその人を、なんとかしてでも喜ばせたくなった、ささやかな恩返しのようなものだ。

 額を汗が伝う。夏休みが終わってもどうやら夏は簡単に引き退ったりしないらしい。

 でもたかが暑さじゃ今の私の障害にはならない。私は、私に負けたりはしない。

 始業式当日、期待と不安を胸を騒めかせながらも、熱で揺らぐコンクリートを確かに蹴っていた。

 

 学校は思っていたほど嫌なものではなかった。

 久しく登校した私のことを珍しがることもなく、かといって「大丈夫?」とか声をかけられることもない、といった至って変わらない風景だった。なんかそれもそれで寂しい気もするけど。

 ただ、みんな甘く焦がした飴細工のように肌が日に焼けていて、部屋からほとんど出なかった私の肌は「私って不思議の国のアリスに出る白ウサギだったかしら」と思うほど白く見え、自分が浮いた存在に感じる。私だけのことだろうけどそれがとても気になった。

 小一からかなり目立ってきたわけだからみんな何事もなく話しかけてくる。

「初衣ちゃん、今日学校終わったら一緒に遊びに行かない?」

「ごめんなさい、今日はちょっと…」

「ううん、大丈夫。また今度遊ぼうね」

特に理由もないのに断ってしまった、ちょっと罪悪感。でもこの子顔に見覚えがないし名前も思い出せない。もしかしたら気づかないうちに仲良くなれてたのかもしれない。

 「初衣ちゃんは夏休みどっか行った?」

「うーん…」

本当に外出はほとんどしていない。

「あんまりお出かけできなかったかな。何度か本屋さんに行ったくらいで…」

「本屋かぁ、初衣ちゃんって読書好きなの?」

「うん、すごい好き。夏休みは毎日読んでた」

私の好きなことでならお話はできる、むしろ話したいくらいだ。

「すごい…。今日も何か持ってるの?」

 「あるよ、一通り読んじゃったけど面白いから読み通してるの」

そう言って、机の中からよく見る紙のブックカバーに包まれた本を出してみせた。

「えぇとね、『二分間の冒険』っていう小説なの。とっても面白いから、その…、美咲ちゃんも読んでみて?」

名前、美咲ちゃんであってたかな。

「あー…、私は本読むのちょっと苦手で、読めるかな…」

と、何事もなく照れ笑い浮かべている。どうやら名前は間違いなかったみたいだ。

 そうと分かれば美咲ちゃん、安心したまえ。実はこの本…、

「実はこの本、小学生向けの小説なの。難しい言葉とかもないし、きっと楽しめるよ」

「初衣ちゃんって、もっと難しい本だけ読んでるんだと思ってた」

あからさまに意外そうな顔をしている、私ってそんなに気難しく見られてるのかな。もう苦し紛れに「そんなことないよ〜…」としか言い返せなかった。表情が引きつっていたかもしれない。

 コホン、と咳払いを一つして本題に戻す。そう、この本についてだ。

「じゃあ美咲ちゃんに一つ問題」

「おぉ⁉︎いきなり!なになに?」

美咲ちゃんはなんだか感情豊かで、ついクスッと笑ってしまう。

「『この世でいちばんたしかなもの』ってなーんだ?」

「えぇー、え?ちょっと待って。んー…、うーんとねー…」

すごい考えてくれてる、なんだか嬉しいな。やっぱ今日勇気を出して来て良かった。

 相変わらず、頬杖をついてうんうんと唸っている。それを眺めて待っていると、いきなりパチンッと手を叩いて、

「ごめん、やっぱ分かんないや」

と少年のように無邪気に歯を出して笑った、女の子だけど。

 まあでもここでいきなり答えを当てられてもこちらも困ってしまうから、これもこれで思惑通り。

「答え知りたい?」

「うん、知りたい!」

私は恐らく、不敵な笑みを浮かべているのだろう。

「じゃあこの本読んでみて、その中に答えがあるから」

美咲ちゃんは目をパチパチさせて、鳩が豆鉄砲を食ったかのような顔をした、そして何故か「おぉーー」と声を上げた。

 「分かった!じゃあ読んでみるね!えぇと、どうしよっかな」

「私のでよければこれ貸すよ?」

「いいの?今これ初衣ちゃんが読んでるんじゃないの?」

私は首を横に振った。

「私はもう読んだからいいよ、それにこの本の面白さを誰かと共有したかったんだ」

「そっか。ありがとっ、じゃあ読ませてもらうね」

そして私は美咲ちゃんに「二分間の冒険」を手渡した。

「よっ、初衣。美咲と何話してんの?」

と、男子のよく通る声が後ろから聞こえた。この声ならすぐ分かる、きっと翔人くんだ。一年の時から同じクラスで当時から何度も声をかけてくれている数少ない以前からの友達のうちの一人だ。

 「あ!翔人くん!実はね、今初衣ちゃんに本借りてたとこなんだー」

と答えたのは私ではなく美咲ちゃんだった。余りの勢いに少し驚いてしまった。でもそれはどうも私だけではないらしい。

「おぉ、そっかそっか。んで、その本そんなに面白いの?」

「うん!あ、いや、読んだことあるわけじゃないけど、初衣ちゃんがとっても面白いって!」

「そーなのか?んじゃ俺にも貸してくれよ」

「うん、それはいいよ…」

「だーめ!私が読んでから、そしたら翔人くんに貸してあげるっ」

なんだろう、なんでそこまで激するんだろう。なんだか必死そうにまで見えるし、美咲ちゃんは明るい子だけど、さっきまではこれほどじゃなかった。

「そりゃもちろん、俺は後から読ませてもらうよ」

「うんっ、じゃあ感想聞かせて?」

 他人の所有物で如何の斯うのされるのは当然ながらいい気持ちはしなかったが、読書好きが増えるのは喜ばしいことだし、あまり気にせずにいた。

 そう翔人くんの腕を引いて歩いていく美咲ちゃんの背中を眺めていたら、振り返った翔人くんと目があった。何故か困ったような笑みを浮かべていたのだがこの時の私にはなにも伝わらなかった。


 その後というものの、私は美咲ちゃんと話すことが多くなり、時々それにに翔人くんが加わり三人で話すことがよくあった。

 確認して見たがやはり美咲ちゃんとは今まで同クラスになったことはなかった。

 別に悪いようにはされてないし嫌な気もないからいいのだが少しだけ執拗に感じた。接点もなかったのに何故と疑問に思ったが、私は最近まで不登校気味だったからまだどんな人がいるのかとか分かっていないんだろう、と自分の中で整理をつけ、深く追求するのはそこでやめた。

 しかし、どうしても気にかかることが一つだけあった。

 美咲ちゃんは、友達が少ないらしい。

 良くも悪くも流れが変わったのは、夏が過ぎ、冬が来て世間がクリスマスで賑わう頃だった。


 「ねぇ、翔人くんのとこにはサンタさん来るの?」

 西日が教室に澄み渡り、橙色に染まる放課後。美咲ちゃんは机に腰掛けて足をばたつかせながらそう言った。

「いやいや、俺サンタなんて信じてねぇし。もう母さんが『いない』って言ってた」

白い歯をこぼした。邪気のかけらもない、素直な笑顔だ。翔人くんのことだからきっと、家族とも仲がいいのだろう。私も親が生きていたら、もうクリスマスだねと可愛げな話が出来ただろうか。

 「初衣ちゃんの家はサンタさん来るよねー?」

「うん、きっと来てくれるよ」

「なんだよ二人とも、お前ら本当に子供だなー」

「少なくとも初衣ちゃんの方が大人っぽいよ」

それもそうだな、と翔人くんにあっさり認められ、それに続いて笑いが湧き上がった。

 「なぁ、今更だけどいつまでここにいるんだよ」

そういえば、楽しくてつい時間を忘れてしまっていた。この教室はもちろん、他のクラスも人はもうほとんど残っていないだろう。

 「ねぇ、このまま、明日の朝まで学校にいるなんてどう?」

それは冗談のはずなのに、なぜか期待が滲んでるような気がして季節のせいではないだろう寒気を感じ身震いしそうになった。

「馬鹿言うなよ、ここにいたら凍え死ぬぞ?」

「…そう言って翔人くん、怖いんでしょ」

「いいや、そういうわけじゃねーし」

翔人くんがカバンを持ち上げて肩に担ぐ。もう帰るぞ、と言いたいらしい。

 「ほら、先生に見つかる方が恐いだろ?」

「…わかった、じゃあ帰る」

ほっぺたを膨らましていじけているがそれも彼女にしたら一種のご愛嬌だ。

 でも、そろそろ本当に帰らないとおばさんが心配するかもしれない。

 私も続いて立ち上がる。か弱い小学生の女の子にしたら十分重い荷物を両腕に力を込めて持ち上げると、なぜか翔人くんに笑われてしまった。

 「ごめん、なんか可笑しくって」

「なにそれ、ひどい」

なんだか私の方までつられて笑ってしまった。

 美咲ちゃんは窓の外を見て、んんー、と唸ってなかなか帰ろうとしてくれない。

「ほら、さっさと行かないと置いてくぞ?」

「もう、分かったぁ」

やっとの事でその重い腰を持ち上げてくれた。そうとなれば美咲ちゃんは我一番と教室を出て行ってしまった。

 翔人くんと顔を見合わせてクスクスと笑っていると、

「置いてくよー!」

と聞こえたので私たちも急ぐことにした。

 廊下を舞う埃が陽の光を反射し、まるで光芒のように輝いていてシンプルに綺麗だった。

 夕暮れ時の校内はいつに増して趣が深いと思う。別の見方をすれば確かに気味悪くも感じるが、それでも私には幾分か物懐かしい優しさを思い出させてくれる。

 少し先を行く美咲ちゃんが時々後ろを振り返り、私たちがいるのを確認したらまた前に向き直るのをさっきから繰り返している。

 気の毒に思ったのか、翔人くんが私に「行こう」と言い、私はそれに「うん」とだけ応えた。

 外はすでに日が落ちきろうとしていた。

 校門から出て翔人くんと美咲ちゃんとはすぐに別れた。二人は西方向へ、私は真逆の東方向へ。

 遠く離れても二人が振り返って手を振っているのが西日に目が眩みながらも見えた。

 そんな風景を見て考えていることがあった。美咲ちゃんはなんで家とは真逆の方向に帰って行ったんだろう、と———。


 アパートに着いた頃にはもうすっかり日が落ちていた。おばさんに謝らなくちゃ、その思いが足を加速させる。

 だがその足は、私とおばさんが住む部屋の、扉の前で無力にも止められた。鍵が開いていない。インターフォンを鳴らしても扉を叩いても声に出して呼んでみても、中から応答は返ってこなかった。

 おかしい、この時間ならもう絶対に家にいるはずなのに。仕事でも長引いているのかなと思って、玄関を背もたれにして待っていることにした。

 しかし、一向に帰ってくる気配がない。その場にしゃがんで、膝に顔を埋めて寒さと寂しさを堪えていた。『二分間の冒険』も貸してしまったし、ただ待つだけの時間が苦痛だった。

 三十分ほどこうしていただろうか、階段を駆け足で上がる音がして、ふと期待が込み上がってきた。でもそれは、おばさんではなくこのアパートの大家さんの奥さんだった。会ったのは数回だが記憶力の良さがこういうところで発揮される。

 奥さんは息も切れ切れで、相当急いできてくれたみたいだ。その時はおばさんが急用で帰れなくなって、かわりに鍵を開けにきてくれたのだと思っていた。

 でも、現実はそんなに甘くなかった。

「初衣ちゃん…!ごめんなさい、ずっと待ってたでしょ」

「はい、でも大丈夫ですよ」

奥さんは手すりに手を置いて、整わない息でこう言った。

「彰子さんが事故に巻き込まれて、今総合病院で手術中なの、私と一緒に来てちょうだい」

 はぁ、どうして、どうしてこうもまた簡単に奪われるのだろう。

 正直、病院には行きたくなかった。行ってしまったら、おばさんが死んじゃう気がした。

 でも常識的に考えて断るような状況じゃなかった。断れなかった。

 この時ひしひしと感じていたものは、驚きや焦り、悲しみなんかじゃなく、自分自身への無力感だった。


 奥さんの車に乗せられて病院に向かった。その間、ただつま先を一点見続けることしかしなかった。

 病院に着いて受付で説明を受けたあと、まず先生のいる部屋に通された。当たり前だが随分と無味な部屋で、壁にはコルクボードとホワイトボードが、卓上にはパソコンと文房具が少々、金属製の棚には難しそうな書類が整頓されて並んでいた。

 きっと普段は朗らかで優しいのだろうその先生は、表情だけでそれ以上は語るに足りなかった。

「彰子さんなんですが、一命は取り留めたのですが…、正直に言いますと、銃弾が頭に当たっていますので脳の損傷はかなりのものです。もう眼を覚ますことはないでしょう」

「ちょっと待ってください…」

銃弾が頭に?言っている意味が全く分からない。

「あの、ごめんなさい。まだ私、何も聞いていないんです…。おばさんに何があったんですか」

 奥さんの方を向いて話していたのに、子供の私から声を掛けられて少し驚いた様子だったが、何か納得したのかすぐに先の調子に戻った。

「君、しっかりしてるね。じゃあ君があの初衣さんか…。分かりました、私が知っている範囲で一から説明します」

そう言って、一呼吸置いて続ける。

「彰子さんはいつも通り三時過ぎに仕事を終えた後、この日は駅に向かったみたいです。所持品からしておそらく、地下の食品売り場で買い物をしようとしていた、と考えていいでしょう。そして四時半を過ぎた頃、駅内でテロが起こりました」

「テロ、ですか…」

「はい、数年前にあった国内初の自爆テロの主犯格の一人が逮捕されたのをを覚えていますか」

「はい、覚えています」

奥さんはあんまり記憶がないのか素っ頓狂な顔をしている。

「その逮捕された主犯格は現在死刑を待つ状態なのですが、その主犯格を解放を求めてテロが起きたのです」

「じゃあ、そのテロにおばさんは巻き込まれたということですか?」

「いや、結果的にはそうなんですが…。その場に居合わせた目撃者によると彰子さんの方から接触したそうです」

「なんでですか!?相手は武器だって持っててもおかしくないのに…」

 先生は困ったように眼をそらして、そしてもう一度私に向き直った。

「彰子さんは、武装者相手に考え直すよう促そうとしたみたいです」

衝撃で胸が押し潰れそうだった。おばさんは優しいから、もしかしたらと思っていたが真実だと知ると急に虚しくなった。

 「かなり長い間交渉していたみたいです。銃を突きつけられながらずっと語りかけていたらしく、本当にあと少しで本当に思いが伝わるところだったのですが…」

「……何ですか」

 無骨な部屋が、気まずい緊張感を一層引き立てていた。

「ちょうどそのタイミングで、武装した部隊の突入が開始されたのです。彰子さんに銃口を向けてたテロ犯罪者が思わず引き金を引いてしまったらしく、その銃弾は彰子さんの頭に…」

「…………」

握った手のひらに力が入る。想像はしたくなかった。しただけで本気で吐いてしまいそうだった。

「初衣さんなら、脳死と言って分かりますか」

「はい…」

「彰子さんの現在の家族はあなただけですが、あなたに判断を迫るのは余りに酷です…。彰子さんのご両親はすでに亡くなっているので実質あなた以上の血縁関係はいないのですが…」

まずここで私のおじいちゃんとおばあちゃんがすでにいないことを初めて知ったのだが、もうなんだかそのことは重要視できなかった。

 「いえ、私が責任持って決めます」

そう、それよりも私は責任を感じていた。もしかしたら、私のせいで事件に巻き込まれて死ぬようにとプログラムされたのではないか。

 もう私がそばにいるだけで誰かを殺してしまうのではないか、そう漠然と確信をしていた。

「おばさんを、天国に送ってあげてください…」

 私は喉の奥から絞り出すようにそう言った。

 そして、おばさんは、私の父母を、母とおばさんの父母を、そして顔を見ることも叶わなかった私の妹を、追うようにしてこの世を旅立って行った。

 悔しかった、ただただ悔しかった。また私の言葉で死なせてしまった。でも悔しい理由はそれだけではなかった。

 誰かに言いたかった、私のせいじゃないと。今回においては『死んで欲しい』なんて願ってなんかいないと。私以外の全員が私に対して不審な眼を向けている気がした、そんなはずはないのに。

 誰かに疑われているんじゃないかと思うだけでとにかく怖くなった。『誰か分かって』と願い乞うことをひたすらに繰り返していた、その存在し得ない誰かに。

 そういう感情が強くて、素直におばさんの死を悲しめない私に、怒りで首を素手で締めそうになった。苛立ちで叫び散らしそうだった。

 もう、嫌だった——。

 いろんな感情が混ざって自分が自分だと思えなくなっていた。

 そんな中、一つだけ独り歩きした感情があった。それは———。

 いつの日かの『殺意』だった。

 遠くでぽつんと私を眺めていた。「何やらかしてんのさ」とでも冷笑するかのように。

 彼女の含み笑いは、冬の冷え切った大気とはまた違った、凍てついた温度を感じない笑みだった。私の顔で笑うから余計にまた腹が立った。


 病院を後にすると、夜空には星々が慎ましく光っていた。こんな状況なのに、不思議とそれが綺麗で印象的だった。

 トボトボと駐車場を車に向かって歩く。その間奥さんとの会話は勿論一切ない。ポツンと一台止まった車が、私がまた一人になったことを皮肉に笑っているように感じたが、感情を表に出す元気もなくなっていた。

 一歩一歩とコンクリートの地面を踏みしめ、その度におばさんとの思い出が浮かんでは消えた。

 いっそのこと私も後を追おうかと良くないことが脳裏を過ぎったが、呆れたことにどうやらそんな勇気は持ち合わせていないらしい。

 大切な人をまた失った、それでも私だけは確かに生き続けている。

 幼い少女が一人、誰の耳にも届かぬように小さく「ごめんなさい」と言ったことは、乾燥しきった夜だけが知っている。

 


 そうその女の子は、村の人たちからのろいの子と言われるようになったのです。


 かぞくからもきらわれ、女の子は毎日一人でなきました。


 たえられなくなった女の子は一人でよるの森ににげました。にげてにげて、にげつづけました。

 

 でも、森の中にも女の子に居場所はありませんでした。


 くらいやみの中を女の子はなきながら走りました。


 気がつくと、しらない大きな町に女の子は出ていました。


 町の人たちは、どろまみれになった女の子をこわがって近づこうとしませんでした。


 それでも、女の子に手をさしのべてくれる人もいたのです。


 女の子はとてもうれしくなりました。ひさしぶりのやさしさに心があたたかくなりました。


 しかし、いいことばかりつづくことは決してありません。


 こんどは、女の子をたすけた人たちが町の人たちにいじめられるようになりました。


 やっぱり、わたしはのろいの子なんだ。女の子は悲しくなりました。


 助けてくれた人たちのためにも、女の子はまたよるの森ににげることにしました。


 だれにも言わず、こっそり町をぬけだそうとしました。


 しかし、よるの森に入るところを一人の男の子に見られてしまいました。


 男の子は、「どこに行くの?」と聞きました。


 女の子は、「どこか遠いところ」と答えました。


 じゃあオレも行く———


 男の子は女の子の左手をしっかりにぎりました。


 女の子はびっくりしてしまいました。


 でも男の子は、「一人よりも、二人の方がさびしくないだろ?」と言いました。


 「わたしがこわくないの?」女の子はおそるおそる聞きました。


 男の子はそれに、なにも言わずわらって見せました。


 女の子は、うれしくてなみだがこぼれました。こんなきもちははじめてでした。


「じゃあ行こう」そう言って、二人の子どもは森の中に入って行きました。



    後半に続く

随分と久し振りに浮上しました、佐々城四郎です。まとめて一気に投稿の方がなんだか小説家っぽくて少し憧れていた部分もあり、半年以上も空いてしまいました。今回投稿させていただきましたものは、『Tri Loves』とはまた別のお話の『寸鉄でも人は殺せてしまう』です。随分と淡々としたお話になってしまいました。ちなみに、「寸鉄人を殺す」ということわざを知っていますか?少々野蛮に聞こえるかもしれないですが、短く鋭い言葉で人の急所を突く、という意味になります。このお話では、主人公の初衣ういのある発言が悲劇の引き金を引くことになります。本文ではあえて空白にしていますので、彼女が何と言ったかは想像にお任せしたいと思います。この物語に込めたものは、人の言葉の影響力と思い違いの夥さなのですが、実は僕自身もこういうのはすごい当てはまったりするんです(笑)。些細な言葉で深く思い込んだり、またその逆で自分の発言を後悔したり、勘違いなんかほんとすごい頻度だったりします。そんな中でふと思いついたシナリオを勢いのまま綴ってみました。いやぁまぁ、言葉って不便ですよね…(笑)。突然何言ってるんですかね、ほんとすみません。でもその分、言葉には力があると思うんです。完璧に使いこなすのは難しいですけど、気持ちっていうのは不思議と確かに伝わるものです。ときどき言葉の偉大さに気がついて、たったそれだけで何故だか感動したりすることがあります。もう、使い慣れてしまった一つ一つの言葉と、一度素直な気持ちで向き合ってみてはいかがでしょうか。少し長くなってしまいました。このお話ももちろん後編も考えています(少し恋の予感を匂わせる終わり方にしました)。拙い物語ですが、よかったら感想をいただけると嬉しいです。それではまた、次の機会まで。

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