41:雷霆
『生命の糧をもたらす大地は燃え盛り、鳴動した』
それは、古代ギリシャの詩人ヘシオドスが、筆を執って書き記した『神統記』の一節。
永い年月の中、エレは人間たちが、自分たち神々について書いたものに興味を持ち、読んだことがある。中には、全くの創作、勘違い、妄想、人間側に都合のいい解釈なども多くあったが、真実も少なからず描かれていた。
『果てしない森林の悲鳴が、世界に鳴り響いた』
その真実の一つが、ゼウスの手にした力の凄まじさ。
エレの兄弟神の武器、『雷霆』が、どれほど強く、恐ろしく、世界をも滅ぼす威力を秘めていたのか。
『大地は全て煮え立ち、大洋の流れや雄大なる海さえも沸きかえった』
例えば『神統記』における、ティターン神族との戦いにおいての描写。
エレやゼウスたち、オリュンポス神族から見れば、先代の神々であるティターン神族は、自分たちを弾圧する敵であった。ゆえに、エレたちはゼウスを筆頭として反旗を翻し、戦争に挑んだ。
その時、同じくティターン神族に虐げられていた、一つ目の巨人であるキュクロプス族がいた。共に戦う仲間として、鍛冶の腕に長けたキュクロプス族はオリュンポス神族に、三つの武具を創ってくれた。
すなわち、エレが向こうに置いて来た、『隠れ兜』。エレの弟であるポセイドンに与えられた、海を操る『三つ又の矛』。
そして三つの武具の中でも最強の武器こそが、ゼウスに献上された『雷霆』であった。
『驚くべき炎熱が混沌を掴んだ』
地球全てをまさしく地獄に変え、当時はまだ残っていた『混沌』――有を生み出す無、可能性そのもの――物理的には存在しない、概念に過ぎないものさえも破壊する、物理を超越した力。
『ちょうど大地と天とが、激しく衝突したようであった』
また、巨人ギガス族の王テュポーンとの戦いにおいても、その暴力は振るわれた。
天をも貫く巨体を誇る、魔神テュポーンに対して、ゼウスはその全力を振るった。あれこそは、オリュンポス神族最大の危機であり、最大の戦いであった。
他の神々がことごとく逃げ出す中で、宇宙そのものを打ち壊すほどの戦いが繰り広げられた。
『いと広き大地がたわんだ。神々の座す高い天も、大いなる海も、大洋の流れも、地獄の底の底さえも、揺るがずにはいられなかった』
遥か宇宙の果てから、死の国の底まで、その雷鳴はどこまでも届いた。
エレはそれを憶えている。
『巨大な大地のほとんどが、恐るべき灼熱で焼け焦げ、そして熔けて流れた』
そしてまた、古代ローマの詩人オウィディウスは著書、『変身物語』にて、堕落した人類を、神が洪水で滅ぼした時のことを書いている。そこには、大神ゼウスは、最初は人類を雷で滅ぼそうとしたが、やりすぎてしまうことを恐れ、水で滅ぼすことにしたとされている。
『ゼウスは地上のいたるところに雷を振るおうとし、ふと危惧を覚えた。それほどおびただしい雷火を放てば、あるいは聖なる天空に燃え移り、宇宙の全てが焼き尽くされてしまわないだろうかと』
それもまた真実の一端。エレがいつも頭を痛めている相手、トラブルメーカーの神の王ゼウス。その彼をして、容易く扱うことは戒めねばならぬ、神々の持つ中で最強の武器。
すなわち、全宇宙で最強の力――百億光年を凌駕する大きさの全宇宙を、消滅させられる力。それが『雷霆』。
おそらく『雷霆』の欠片には、本来の千分の一程度の力しかないだろう。だがそれでも、エレからして見ればやり過ぎもいいところであった。
(たかが、百匹程度の悪魔のために、世界を滅ぼす力を使うとは)
実際、羽虫を退治するのに、核兵器を使うどころか、隕石でも落とすような話だ。しかしエレに止める力は無い。
今の『雷霆』を封印するのはエレでも無理だ。
神名を口にし、本来の力を取り戻したとしても、力の消耗した今では敵わないかもしれない。彼の心を満たすのは、エルヴィムの群れに対しても抱かなかった、不安と恐怖。もしもこの雷が暴走すれば、ドナルレヴェンなど百万回滅ぼし尽して、余りある破壊が吹き荒れる。神であるエレでも、おそらく耐えきれない。
(このまま、公一が制御を失敗しないことを祈るしかないか)
エレは祈られる対象であり、祈る相手はいない。異界の神ルル・エブレクニトは、冥府神を嫌っているようなので、多分祈りを聞き届けてはくれないだろう。
だから、せめて自分自身の幸運に祈りを捧げた。
もっとも、エレはくじ運がいたって悪いと、専らの評判であったのだが。
◆
公一を中心に、雷の嵐が生まれた。公一は雷に包み込まれ、
黄金の迸りが、螺旋を描いて天へ昇る。激しく夜の闇を引き裂きながら、空を舞う山羊に似たエルヴィムたちを飲み込んで行く。
その様は、鯨が大きな口を開き、大量の海水もろとも小魚を飲み干していくような、容赦なく、抵抗のしようもないものであった。
雷の内包する灼熱が、エルヴィムを瞬時に、灰も残さず焼却する。燻りさえも消し潰し、神威の竜巻は、悪魔たちを蹂躙する。逃げようとする下位エルヴィムたちも、雷の速さに敵うはずもなく、背中を撃たれ、悲鳴さえ雷鳴にかき消されて滅びていった。
もはや大人げないとさえ言える、一方的で圧倒的な有り様であった。
百を超える下位エルヴィムが空から一掃され、一体の生き残りも無く、徹底的に、周到に滅ぼし終えた。
「ハ、ハハハ、ハハハハハ!」
それまで静かに見ていたフックが、配下の下位エルヴィムたちの全滅を見届けた後、笑い声をあげた。腹の傷からは、自身の体が砕けてできた砂が零れ落ちている。
「なんということだ! 反則もいいところだ! こんな馬鹿げた力で捻じ伏せられるなど! これが異世界の勇者か! ああ、なるほど。二千年かけても勝てないはずだ!」
笑う体は砕けていき、地に落ち、
「だが……終わらぬ! まだ我らの憎しみは、恨みは……終わりはしない! 我々の戦いは……まだこれからだッ‼」
その言葉を残して、全身が崩れ落ち、上位エルヴィムもまた戦場から姿を消した。
◆
空より迫っていた百体のゴートは一掃され、フックも敗れた。
「勝った……?」
ナピレテプが、奇跡とも思える予想外の状況に、やや呆然としていると、
「うわああぁあぁぁぁぁぁっ‼」
公一の絶叫が上がった。
「っ! コーイチさんっ⁉」
見れば、公一の手の中の、『雷霆』の欠片が、よりいっそうの光を放っていた。そこから迸る雷は、先ほどまでより明らかに乱れて荒れ狂い、雷の竜巻は枝分かれし、一本から三本に増えていた。そして、ナピの目の前で、四本に増え、四方の天へ昇っていく。激しさを増し、敵のいなくなった空を、なお焼き焦がそうとしていた。
「暴走……!」
エレの危惧していたことが、起こってしまった。
公一の力では、神の力を止められない。
光はなおも輝きと力を増し、熱量を増し、公一の右手が焦げだしていた。
「ぐああああああっ‼」
必死で抑え込もうとする公一だが、せいぜい動きが弱まる程度、じきに弾け飛び、より大規模な破壊が爆発するのは目に見えていた。
「コーイチっ!」
「お下がりください! ジェインさま!」
駆け寄ろうとするジェインを、ナナたちが抑え込む。
動けぬジェインに代わり、動いた者がいた。
「『伝令開始』」
公一に静かに歩み寄りながら、ナピレテプは薄いピンク色の唇を動かし、その全力を発揮する。伸ばした手の先を、雷の枝が通過する。空気が焼ける臭いが鼻を衝く。
『コーイチさん!』
「っ! ナピ……⁉」
公一の頭に、天使の少女の言葉が響く。
『い、今から、貴方の力を、意志を、雷に向かって伝えます! 多少は、貴方の力を強化して送り込めるはずです!』
公一は、雷の奔流の激しさに息も行えず、ただ必死に、ただ死にもの狂いで、雷に言い聞かせる。
「……止まれぇぇぇぇぇッ‼」
『伝……われぇぇぇぇぇッ‼』
公一の命令を、ナピが届ける。
公一の『加護』を、ナピの『伝令』でより速やかに、『雷霆』へと流し込む!
「コーイチっ! ナピっ! 頑張れぇぇぇ!」
せめてもと、ジェインが声を張り上げる。
(護るんだ……コーイチさんを、護るんだ……絶対!)
神に仕えるために生まれ、神に使われて生きて来た天使は、自らの意志で行動したことなどほとんどなかった。地上に堕ち、初めて自分から、人を助けたいと思った。だから、雷の吹き荒れる中に飛び込もうとも、恐怖はあれど――後悔はなかった。
『公一さんっ! 絶対、止めますからっ!』
『ああ……ナピ!』
公一も思った。この勇敢な少女を。自分のように、罪悪感から自分の身を投げ出すのとは違い、本当に勇気のある優しい少女を、死なせるわけにはいかないと。
(それも、二人もっ!)
ナピとジェイン、二人の顔に視線を向け、暴れる雷の欠片を、その手が燃えるのも構わず、抑え込み、握りしめる。
「止まれぇぇぇぇぇッ‼」
そして、バチンと鞭を強く振るうような音が一度響く。
「あ…………」
呟いたのが誰だったのかはわからない。
あるいはそこにいた全員が呟いたのかもしれない。
夜の静けさと闇が取り戻され、雷の竜巻は、パチパチと弾ける火花を残して、元の黄金色の欠片に戻っていた。
「……良かった」
それを見届けた後、公一も地に膝をつく。ナピレテプが慌てて公一を支え、ジェインが駆け寄ってきたのを感じた瞬間、公一は気を失った。
ちょうど、夜明けの太陽が昇ってきていた。




