20:わからないことは多く
メキメキと軋む音が、耳にまとわりつく。
肌に張り付いた液体は、異様に熱く感じられた。
逆に、体自体は急速に冷えて、凍りついていくようだった。
臭いが形を持って鼻から侵入し、脳まで突き刺さるように思えた。
(ナン、ナンダ? コレハ、ナンダ? ナニガオキテイル……)
脳が、心が、理解を拒む。
否、逆だ。理解できないがゆえに、拒んでいるのだ。
だが、どうあがいてもそれから目を逸らすことはできず、この世の何よりもどうしようもなく、それはそこにあった。
『死』
生きている限り、決して理解できぬ、無上の恐怖。
だがそれは、どれほど逃げようとしても、必ずやってくる。人類がその英知を振り絞っても、決して逃げ方も防ぎ方も、知ることのできない。何もわからない、全ての天敵。
ゆえに、人間はどうにかして、『死』を受け入れる方法を探し続けてきた。
あるいは宗教によって。あるいは哲学によって。
あるいは愛によって。あるいは正義によって。
どうにかして、あの恐るべきものを怖がらずにすむようにしたいと、願い続けて来た。
けれど、それすらも決して、上手くいってはいない。
いまだに、それはどこまでも恐怖そのものであった。
(イヤダ……イヤダァッ!)
もしも、『死』の恐怖を飲み込める者がいるのなら――それこそ英雄と呼ばれる者だけだろう。
(ボクハ……ボクハッ)
◆
「…………ッ!」
少年は、掛け布団を跳ね飛ばして、身を起こした。息は荒く、全身に嫌な汗が浮き出て、寝間着が肌に張り付いていた。
「ハァッ、ハァッ、うくっ……ゆ、夢、か」
自分の呼吸の音を、呟きを、耳に聞く。汗の不愉快ささえ、今の公一にとっては安堵の根拠となるものだった。
(感じている……ここが現実だ)
自分自身を味わうように、そのことを確かめると、少年はベッドから出て、汗に濡れた衣服を着替えた。
「仕事になる前に……気分を変えるかな」
ダーリング邸で二度目の朝を迎えた公一は、新鮮な朝の空気でも味わおうと思い立ち、窓を開けた。
ナピレテプによると、今の季節は春。このドナルレヴェンは、公一のいた地球とは違い、一年はちょうど三六〇日である。一年を十二の月に、一月を三十日に分けて暦にしている。
今日は五月四日。公一たちは五月一日の夜に、この世界に来たことになる。
「今日もいい天気みたいだな」
空を見上げれば、浮かぶ雲は白く、数はまばらで、雨を降らせるようには見えない。朝の少し冷えた空気を浴びて、かすかに残った眠気を消した公一は、今日も始まる異世界の暮らしに心構えをする。
(来て早々、怪人との戦い。次の日には魔物との戦い)
いくら異世界。いくら召喚された勇者とはいえ、ハードなものだと公一は思う。スタンダードな異世界召喚がどんなものかは知らないけれど。
(でもここでの仕事は良かったな)
仕事量は多いが、体力の増えた今の公一であればへばることもなくやっていける。元の世界で死んだ時点から、ろくでもないことばかりであったが、ジェイン・ダーリングと出会えたことは、間違いなく幸運であったと思う。
「ん?」
ふと、公一は朝の空気に、小鳥の歌声や、犬や馬の鳴き声ばかりでなく、人間の声と何かを振り回している音が混ざっているのを聞き取った。
「なんだろう?」
気になった公一は素早く着替えて、日の出たばかりの庭へと出る。
耳をすませ、音のする方へと足を進める。音は昨日、ミシェルが洗濯をしていた井戸の方から聞こえてきていた。
「フッ! ハッ!」
公一の目に入ったのは気合の籠った声をあげながら、長い槍を振るう、若き女領主の姿であった。
出会った時に見ている、貴族らしい高級な布を使って仕立てたコートや男性用のスーツではない。体にピッタリと合った、白いタンクトップと裾の長いズボンという姿である。おそらく稽古着なのだろう。
炎のように赤い髪がたなびき、振るわれる槍は穂先が見えないほどに速く鋭い。体の動きは汗が飛び散るほどに激しく、しかし舞踏のように美しい。ぎくしゃくとした無駄な動作がないゆえの美である。
武術などてんで素人な公一にも、技量の高さが感じ取れた。動きの美しさもさることながら、その身から放たれる熱気と、流れる汗の匂いが周囲に揺蕩い、朝からジェインの真剣な気迫を感じさせる。こちらも力が湧いてくるかのようだった。
「ハッ……んっ? コーイチ?」
ジェインはやってきた少年に気づき、動きを止める。
「おはようございます、ジェイン様……すみません稽古の邪魔してしまって」
「いや、もう終わるつもりだった。それに稽古というほどのものじゃない。体が鈍らないよう、引き締めていただけさ」
朝のラジオ体操のようなものだろうかと、公一は自分の世界のものに当てはめて考える。
「でも凄いものに見えましたよ? あんな槍捌きなんて見るの初めてでしたけど、凄く綺麗でした」
「きれ……⁉ い、いや、そんな、男が女にっ、そんな簡単にそういう風に言うのはどうかと思うぞっ」
公一は心から、見事な働きをしたスポーツ選手へ言葉を贈るように、自身が抱いた感動を伝える。しかしその素直な賞賛に、ジェインは恐ろしく戸惑い、顔を赤らめて叱りつけてしまう。
「えっ? あの、僕なんか変なこと言いました⁉」
「いやだから……き、綺麗だとか」
言われた公一は何が怒られるようなことだかわからず、混乱し慌てて、何がまずかったのか訊く。ジェインは公一の顔を見返すこともできず、横に視線を逸らし、小声でまずかった部分を言ってやったが、公一にはそれでもわからない。
(褒めずに不機嫌になるならわかるけど……)
公一と仲の良かった幼馴染は、テストの点が良かったときとか、新しい服を着たときなどには、さりげなく褒め言葉を催促する態度をとっていた。気づかずに褒めずにいると不機嫌になり、後々、機嫌を直すのに苦労したものだ。
かと言って、本心ではなくお世辞で褒めても、敏感に察知して不機嫌になる。正直大変であった。
(けど、今は本当に綺麗だったから、正直に言ったんだけどな)
幼馴染であったら、鼻を高くしてご機嫌になるところであるのに。誤解されたのだろうかと、公一はジェインへ口を開く。
「ええっと、でも嘘とかお世辞じゃないですよ? ダーリング様の槍を振るうところ、本当に綺麗で……」
「~~~~っ!」
ジェインは顔をこの上ないほど真っ赤にしたかと思ったら、手の槍を先ほどの素振りなど比較にならぬ速さで振るった。なるほど、確かにこの速さに比べれば、さっきの動きなど稽古にもならぬものであったと公一はつい思った。
槍の穂先を鼻に触れるか触れないという位置に突きつけられて、そう思うのは正解であるかはわからないが。
「う……お……?」
ちなみに槍の穂先はよく砥がれて輝き、紙を被せただけで動かすまでもなく、貫いてしまいそうであった。
「この話は終わりだっ! ハイかワカリマシタで返事をしろ!」
「はいっ、わかりましたっ!」
ジェインの命令に、公一は思わず直立不動の体勢になり、言葉を両方とも使って返事した。
「はぁ……はぁ……よろしい。では、今日も仕事に励むように! あと、今日はお前たちを連れて行くところがあるから、そのつもりで!」
勢いで誤魔化すがごとく言いつけると、ジェインは早足でその場を離れていった。後には、直立不動のまま、わけがわからず頭上にクエスチョンマークを浮かべる公一が残されるのだった。
◆
「ギモージア様。領主の屋敷に張り付けていた者からの連絡で、先ほど領主所有の馬車が出発したそうです。方角からして監獄。時間から、あと数分で到着するでしょう」
朝からエールを楽しみ、チーズを口にするギモージアはその報告を聞いて、フフンと鼻を鳴らした。
「もう手遅れよ。あの小賢しい小娘の行く先にはもう何もない。大口を叩いたことを後悔するがいい。ことが片付いたら、今度こそ儂に舐めた真似をしたあの三人に思い知らせてやろう。いっそ、ジェインめの屋敷のメイド姉妹……それに秘書官も、儂に寄越すように言ってもよいかな? クフフ」
そう呟いた後、彼はいかんいかんと首を振った。たるんだ頬が揺れる。
「あそこの女どもには近寄らないのが吉だ。寝床に入れたが最後、寝首をかかれかねん。姉妹は『忠犬』。秘書官は『猟犬』ときておる」
君子危うきに近寄らずと己を戒め、まずは公一たち三人を弄んで楽しむにとどめることにした。ジェインたちに受けた屈辱を晴らすのはそれからだ。
エールを一杯飲み干し、メイドに新たに注がせながら、神殿長は薔薇色の未来を見つめる。
「まったく甘っちょろいことよ。なぁ?」
ギモージアは壁を背に立つ男に声をかける。赤い右目と黒い左目、左右で瞳の色が異なる虹彩異色症の男。やや痩せているが冷たげな美形であり、黒髪をオールバックにしている。背も脚も長く、紳士服を身に着けた今の姿は、社交界に出れば女性たちが放ってはおかないだろう見事さであった。
しかし、彼は社交界に出るような身分でも立場でもなく、また興味もなかった。
「いずれは、ジェインめもお前に刈り取ってもらうかな。なあ……ジェイムズ」
ジェイムズと呼ばれた男は言葉を口にせず、ただコクリと小さく頷いた。
◆
公一は馬車に乗り、首を傾げていた。朝のジェインとの会話は何が悪かったのかと。
「どう思う?」
「う、うう~ん……ご、ごめんなさい、わかりません。綺麗だと言われて怒る理由というのは……お、思い浮かびません……」
公一に良い答えを言えなかったナピが、申し訳なさそうにうなだれる。
「あっ、そんな気にしないでいいんだよ。ちょっと意見を知りたかっただけだから。でもナピもそう思うかぁ」
「はい……どうしてなんでしょう?」
公一とナピは二人仲良く首を捻る。
「う~ん、エレさんはどう思います?」
「……私に女心については聞くな」
今日も変わらぬ鉄面皮で、エレは公一の質問を拒絶する。
「けれど、エレさんには奥さんもいるし、僕よりは女の人について知っているでしょう?」
「もう一度言うぞ。私に、女心については、聞くな」
妻帯者は断固拒絶の姿勢であった。
「そんなに……?」
「女性については私の領分ではない。弟や甥の領分だ」
弟というと筆頭はあのゼウス。甥とすると、忍者好きのヘルメスといった神々のことであろうが、彼らに女性について相談して良い結果を得られるかとなると、疑問だと公一は思った。
ギリシャ神話の恋愛や性的な面でハチャメチャさは、各国、各民族の神話の中でも、群を抜いている。
「妻も姉妹も、部下のヘカテーも、友人のメンテーやレウケーも、まったく私には予測も理解も及ばない。聞くな」
「……さようですか」
おそらく千年や万年はかけて理解しようとし、それでもやはりわからなかったのだろう。そう察した公一は、それ以上この冥府神に問いかけることはしなかった。
仕方なく公一はジェインを怒らせた問題は棚上げにし、別の気になったことをエレに尋ねる。
「それはそうと、僕も何か武術の稽古をした方がいいと思うんだけど」
二日続けて死んでもおかしくない戦いをした後、公一が感じたことである。
二度の戦いを勝利した公一であるが、無我夢中で体を動かし跳び回っていただけであり、何度もそう上手くいくとは思えない。早めに本格的な武術なり戦術なりを、学ぶべきだと判断したのだ。
「エレさんも、ここに来たとき二股の槍を持っていたでしょう? その、できたら……稽古をつけてもらえないか、なぁって」
やや恐る恐るエレにお願いする公一。正直、地獄の支配者に対して、亡者を束ねる神に対して、酷く馴れ馴れしい要求をしているとわかってはいるが、頼める相手は他にいない。
幸い、エレは怒ったりはしなかったが、やや考えてから首を振る。
「……ものを教えるのも私の領分ではない。それはアテナの領分だ」
エレは、自分の姪の名をあげる。
ギリシャ神話における最も有名で、重要な神の一柱。戦争と平和、知恵と技術を司る処女神。
「我が姪は、多くの地で人間に武術を授けた。アイルランドでは『女神スカサハ』を名乗り、ク・ホリンという男にゲイ・ボルグの投げ方を教えた。インドでは『パラシュラーマ』の名を用い、ドローナやカルナといった英雄にブラフマーストラを与えた。日本でも確か、『鞍馬天狗』と称して牛若丸とかいう名の少年に、剣の稽古をつけてやっていたな」
「げ、げーぼるぐ? ぶらふら……ええっと?」
エレの話の中に出る単語の意味がわからぬナピレテプが、目を回しそうな顔になっていた。エレは説明をしてやった。
「……ゲイ・ボルグは槍だ。投げると三十に分裂して敵を殺す魔槍。手ではなく足を使って投げる特殊なもので、大英雄ク・ホリンだけがその投げ方を姪より教わったのだ。ブラフマーストラは放たれれば、止めることも防ぐこともできぬ、究極の武器とその使い方を意味し……当時、『ブラフマン』を名乗った私が生み出したものだ」
ナピはふんふんと異世界の話を興味深そうに聞いていたが、公一はエレの説明におかしな部分を感じた。
「あの、パラシュラーマって男じゃなかったでしたっけ?」
インド神話に伝わるパラシュラーマは、その名の通り、破壊神シヴァから授かった斧を武器とする英雄で、インド神話における最高神ヴィシュヌの十二の化身の一つとされている。当時の世界は戦士階級に支配されていたが、戦士たちは驕り高ぶり、圧制をしいていた。そのためパラシュラーマは、暴君たちへの罰として、戦士階級を二十一回にわたって滅ぼしたという。しかし、パラシュラーマは聖仙ジャマドアグニの末息子――男であったはずである。
「さて、それはわからん。神話として語り継がれている途中で、人間たちが間違えて男として伝えたのか、あるいはアテナがその時は男に姿を変えていたのかもしれない」
「アテナが、男になっていた?」
「我らにとって、肉体的性別などあってないようなものだからな」
ゼウスは意中の女性に近寄るため、女に変身することもあったという。姿かたちなど、神にとっては自在に変化できるものだ。驚くにはあたらないのかもしれない。
(とはいえ……)
驚いている公一とナピを見ながら、エレは内心で呟く。
(ここにアテナがいたとしても、公一に訓練をつけることはないだろうがな……)
そうして公一たちが話している間も、馬車は進んでいく。向かう先は犯罪者たちの監獄。一昨日、公一たちによって捕らえられた、レダ・マッカが捕まっている場所であった。
◆
「……子供ですか」
ナナの呆れ果てたという声に、ジェインは若干涙目で俯く。
二人は公一たちの乗る馬車の、馭者の席に並んで座っていた。馭者として馬を操っているのはナナであり、ジェインは何の仕事もしていない。単に、公一と顔を合わせているのが恥ずかしいから馬車の中に入らないだけだ。
その武力に優れ、槍の冴えは魔物やエルヴィムさえも貫くと噂され、戦いとなれば最前線に立つゆえに、『前線領主』とあだ名されるジェイン・ダーリング――その勇名が見る影もなかった。
「だ、だって……あんな素直に綺麗なんて言われたことなかったんだよ。社交界で挨拶がわりに並べ立てられる歯の浮くような定型句とは違う、正真正銘の誉め言葉だぞ?」
「どんだけ男慣れしていないのですか……ここ十年、身近な男性は所帯持ちのザライだけでしたね。知っています」
ナナはため息まじりに言い、ジェインはますます顔を赤くして俯く。
「いろいろ言いたいことはありますが、これから仕事です。そちらはきちんとやるように」
「うう……わかっている。ちゃんと切り替えるさ!」
言い返すジェインの声は、実際張り切っていた。上手くすれば、ここ三年の間、ゾシウの町に居座っていた問題を解決できるのだ。
しかし物事が上手く運ぶことはむしろ稀である。ジェインはこのすぐ後に、レダ・マッカの死亡という報告を耳にすることになるのだった。




