1:少年、異世界へと
南郷公一は、見知らぬ場所に立っている自分に気がついた。
そこは、イメージを口にするならば『白亜の神殿』。
目に映る物は、全て青空を漂う雲のように白い。
大人が十人も手を繋いで、ようやく一回りできるだろう、太く巨大な柱が等間隔で立ち並び、百メートルは高みにあるだろう天井を支えていた。
床には塵一つなく、染み一つの穢れも無い。目を凝らしても壁は見えず、見える範囲は、ずっと床と柱しかない。よほど広大な建物だと思われる。
火や電灯などの、光源となるものが見当たらないにも関わらず、不思議な明るさに満たされていた。
いつ、ここに来たのか。
どうやって、ここまで来たのか。
何もわからない。
「ようこそ、『整えの間』へ」
背中から声をかけられた。明るく力強い、自信に溢れた声。
反射的に振り向けば、そこには二人の『眩い輝き』が、公一を見つめていた。
「…………⁉」
人のカタチをしていることはかろうじて認識できたものの、普段は眠っているだろう本能の部分が、目の前の存在が、決して人間ではないことをしきりに訴えていた。
目で捉えられる眩しさではない。魂が怯えるような鮮烈な存在感が、二人から放たれて、公一に降り注いでいた。別に物理的な影響を与えられているのではない、はずなのに、公一は呼吸することさえ難しくなり、鼓動が早まる胸を抑える。
そんな公一の様子を見て、
「ん? ああ、すまないな。力の絞りがまだ足りないか」
男の声を出す側が、呑気に言う。
「あら、か弱い。この程度で怯むようで、使い物になるのかしら」
女の声を出す側が、呆れたように肩をすくめる。
それでも、二人は自分たちの輝きを弱め、公一が真っ直ぐ見ることができるように調整してくれた。
そこでようやく落ち着いて、公一は二人の姿を見る。
公一から見て左側に立っていたのは、西洋人と思われる、二十代半ばほどの歳の男性。本物の黄金よりも輝く金髪に、蒼穹のように青い眼。男でも見惚れるような整った顔立ちに、甘い微笑みを浮かべている。ワンピース状の白い服を着込み、足には若草色のサンダル。黄金に宝石を散りばめた、ベルトや首飾り、腕輪で着飾っているが、下品さはなく、ただ神々しさがあった。
左手を腰に当て、右手には巨大な槍を持っていた。中世の騎士が使っていたというランスのようだが、ランスが円錐状なのに対し、それは角錐状であった。光そのものを固めて形にしたように光輝き、見ているだけで目が潰れそうだと感じられた。
もう一人は、やはり西洋人らしき若い美女。公一から見て、右側に立っていた。春の草原のように美しくも不思議な、緑色の髪をしており、その髪は腰に届くまで伸びている。薄い黄色のロングドレスを纏い、滑らかな木靴を履いていた。眼の色は紫で、公一に冷たい視線を向けている。顔立ちは大変美しいが、針のように鋭く、高慢な印象を受ける。
若木のように細身で、男の方より頭一つ背が低いが、女性としては高い方であるし、足も長い。総じて調和のとれた、綺麗な体型をしていた。
「えっと……貴方たちは……」
公一が恐る恐る口にすると、男性の方が公一の言葉を遮るように語り出した。
「南郷公一。十月二日生まれ、天秤座。血液型はO型。身長一六九センチ、体重六十キロ。勉学や運動は、まあ平均的」
メモを見ることもなく、男は公一の情報を羅列する。初対面の他人に、自分の個人情報を知られているという、中々問題のある状況であった。だが、最初から何が起こっているのかわからない公一は、どう反応すればいいか判断しかね、黙って男性の声を聞き続けていた。
しかし、男性の最後の言葉には、反応せざるを得なかった。
「享年、十七歳」
「……え?」
享年。それは普通、人間が死亡した時の年齢のことを指す言葉だ。
「あ、あの……」
「享年、十七歳。これは間違いではない」
金髪の男は、唇を笑みの形にする。けれどその青い眼は、実験動物を見る科学者のように、感情の入る余地のない、熱無き視線を、公一に向けていた。
「南郷公一。君はもう死んでいる」
ゾクンという刺し込むような寒気が、公一の背筋に落ちる。
『死んでいる』
その言葉を、公一は理屈によらず、理解していた。
自分は、既に生きていない。ここに、こうして存在し、思考しているけれど、南郷公一は、もう終わってしまったのだ。
それは、夢を見ていた人間が目を覚ました瞬間、こちらが現実であることに気づくような、間違いようのない、明確な理解であった。それでも、わかっていながらも、どうしてもわかりたくなくて、公一は抵抗する。
「な、何かの、間違いじゃ……」
「間違いだと? そんなものはない。『死』に間違いなどという概念が挟まる余地はない。それとも、落語の死神のように、寿命を表した蝋燭の長さを勝手に変えたり、誤って死ぬべきでない人間の命の火を吹き消したり、などという茶番があったとでも? それはない。我々はそういったことはしていない。約束しよう。ああそうとも」
この世の他の何よりも、自分こそが正しいという確信を込めて、男は宣言する。
「運命は間違えない」
金髪の男は、まるで自分が運命そのものであるかのように、話していた。何でそんな風に思ったのか。馬鹿なことを考えたと、公一は思った。思いたかった。
「こ、この体は……服も……」
幽霊のように、体が透けているわけでも、足が無いわけでもない。ちゃんと体があり、飾り気のない白いワイシャツと、ジーンズを着ている。
けれど、その反論は一蹴される。
「体と服は、生前どおりのものだ。私が、一時的に生き返らせている。だが、世界は既に君の死を確定している。この空間は現世ではないがゆえ、君が生きていることを許しているが、現世に戻れば、世界の法則が君を死なせずにはいない」
金髪の男の力というものが、どういうものかはわからないが、つまり自分の今の公一の状態は、自然に生きているわけではないということか。
「こ……ここは一体、あ、貴方たちは……?」
口からついて出た質問は、答えを知りたいと思ってなされたものではない。自身の死に直面することを避けたくて、別のことを考えるために、咄嗟に出てきた問いにすぎない。
「ここは先ほども言ったように『整えの間』。我々は……」
金髪の男は少し考え込む。答えるべきかどうかを悩んでいるのではなく、どう答えるべきかを悩んでいた。
「『上位存在』……いや、『クリエイター』……それとも『超越種』と名乗った方がいいか? あるいは『宇宙管理者』、『意志ある法則』、『ルーラー』、『永遠思考体』……いや、誤解を招くかもしれないが、やはり一番わかりやすく言うとしよう」
結局、金髪の男は、今まで最も頻繁に名乗っていた言葉をもって、自らを紹介することにした。
「我々は『神』だ」
神。
酷く不条理な言葉であった。だが不条理そのものの現状には、嫌になるくらいに似合った言葉でもあった。
「か……み……」
「そう、それで納得したまえ。納得できずとも、今後にはあまり関係ない。本題は別にあるからな」
神を名乗る金髪の男は、しかし神の名に頓着せず、話を進めた。公一はもう精神的に疲れ果て、それ以上、問いただす気力もなく、ただ相手の話を聞いていた。
「さて……南郷公一。君は死んだ。それ自体は別にどうということはない。ただの死だ。もとより、人間の寿命など我々の管理下にない」
要するに、公一の死は、彼らのせいではないということだ。死の原因が何であれ、それは普通の、ありふれた死にすぎない。世界を望むままにできる存在が、あえて公一を死に至らしめたわけではなく、そもそも、人間にそのような価値はない。そう言っている。
「しかしだ、人生は我々の管理外であるが、人生が終わった後は別。死後の魂は、我々の管理下となる。そして、生き返ることは原則上許されない。だが、そこで、だ」
それは、神の託宣と呼ばれるべきものであったのだろう。だが、公一にとっては、悪魔の誘惑だと感じられた。後にしてみれば、神も悪魔も、どちらも同じことであったのだが。
「君、生き返りたくはないか?」
ドクンと、公一の胸が鼓動を打つ。
死んだはずなのに、心臓は動いているのだなと、どこかピントのずれたことを、公一は思っていた。多分、度重なる精神的衝撃を受け流すために、敢えてどうでもいいことを考えていたのだろう。
「無論、ただで生き返ることはできない。試練を乗り越えなくてはならない」
金髪の男は、公一が何を考えているのかなど、気にする様子もなく話を続けていた。
公一が何を考えようと、結論は一つになると思っているのだ。金髪の男がこの提案をして、乗らなかった者は一人もいないのだから。
「君には、世界を救ってもらう」
大層なことを口にして、腕を緑髪の美女の方へ伸ばし、指し示す。それまで退屈そうに二人のことを見ていた彼女は、ようやくか、というように頷いた。
「コーイチ……だったわね。私は、貴方の住んでいる世界とは、異なる次元に存在する女神。此度は、同じ神である、彼の助力を受け、この『整えの間』に貴方を呼んだわ」
美しい女性に話しかけられても、公一は嬉しくはなかった。彼女の目、声、仕草は、彼女にとって公一が、蔑むべき存在であることを、はっきりと物語っていた。
「私の世界『ドナルレヴェン』は今、悪しき者どものために、破滅の危機に瀕している。それを、貴方に救ってもらうわ。『加護』と『武器』を与えるから、それを使って悪しき者を滅ぼすのよ。それができれば、貴方を生き返らせて、元の世界に返してあげる。いいわね? 返事は?」
ただただ、一方的に話す彼女は、断られることなど、全く思ってもいないようだった。
だが、彼女の言うことは、私欲を叶えるために、見知らぬ何者かを倒すということ。そしておそらく、この場合の『倒す』とは、『殺す』と同意だ。生き返るために、別の誰かを殺せと言われている。
二つ返事で頷ける話ではなかった。
「なぜ、僕が……?」
「ああ確かに、君はさほど特別ではない。天才だとか、英傑だとかではない、まあごく普通の、凡人であるさ。選ばれたのは、まあ偶然だ。だが、この私が選んだ以上は、『偶然』は『運命』となる」
公一が特別であるから選ばれたのではない。だが、自分が選んだからには、公一は特別になったのだと、金髪の男は言う。正直、納得はいかなかったが、これ以上意味のあることを聞けそうにないと思った公一は、疑問を脇に置く。
「え、ええっと、もっと詳しいことを」
「当然であるな。好きに聞きたまえ」
金髪の男は鷹揚に頷く。問いを許された少年は、まず一番信じられない部分から聞くことにした。
「……本当に生き返ることが、できると?」
「それは私が保証しよう。目的を達成すれば、必ず生き返り、本来の世界に戻ってこれる。冥府を流れるステュクスの水にかけて、誓うとしよう。」
誓いを立てたその瞬間、金髪の男の威圧感が、最初に目にした時と同じように、強烈に上昇したのを感じた。なんだかわからなかったが、その『誓約』は彼にとって、意味のあることだったのだと、公一は納得する。
死者の蘇生という禁忌は可能だと言う、金髪の男の言葉に嘘は無い。公一はそう信じることにした。
「……では、『加護』と『武器』とは」
次の問いは、自分に与えられるというものについて。公一は、自分がこのままで戦ったとして、勝てるとは思えなかった。はっきり言って、自分は平凡な学生に過ぎない。何者かと戦う存在に選ばれるほど、特別な才能の持ち主じゃないと、そう自覚していた。
「ああ。何せ、一つの世界を救うなんて、大仕事だ。我らとしても、徒手空拳でそれを行えなんて無茶は言わない。彼女も言ったとおり、『加護』と『武器』を与える。まず『武器』はこれだ」
金髪の男が、白い布の袋を取り出す。持っているようにも、身に着けているようにも見えなかったが、どこからともなく、その袋は現れていた。野球ボールの2つくらい入れれば、満杯になってしまうであろう、小さな袋だった。
「そして……君、『加護』の方の準備をしてくれ」
金髪の男は、緑髪の女へ向けて言う。彼女の方は、いいから早く頷けと、公一に苛立っているように見えた。やる気に欠ける緩慢な動作で、細く美しい右手を挙げて、パチリと指を鳴らした。
すると、女性の左側後方の空間が、陽炎のように揺らいだ。その揺らぎの中に、人型が映り出す。湖の底から、人が浮かびあがり、空気中に身を出すかのように、一人の少女が、虚空から姿を現した。
「お、お呼びでしょうかっ!」
「……呼んでから、三秒。遅いわよ、ナピレテプ」
「も、申し訳ありません! ルル・エブレクニト様!」
公一と同い年か、少し年下と思える外見の少女は、上ずった声を出しながら、頭を下げる。
まるで妖精のように、非常に可愛らしい顔立ちであるが、その表情はおどおどと怯えている。髪は、ショートボブにした金髪。半袖の白いシャツと、青いハーフパンツを着て、黄色のサンダルを履いている。両の手のひらを重ね合わせ、その間に何かを持っているようだった。碧い眼は不安げに、緑髪の美女を見つめて、返事を待っている。
「馬鹿者っ! みだりに私の名を口にするなっ‼」
ルル・エブレクニトと呼ばれた緑髪の美女は、ナピレテプと呼ばれた少女を激しく叱りつける。言葉が火を噴き、少女を焼いてしまいそうな苛烈さであった。
「ひいっ! す、す、すみませんっ! つ、ついっ、お許しくださいっ」
叱責を受けた少女は、可哀そうなくらいに怯え、泣きながら座り込み、跪いて、頭を床に擦りつける。謝罪を示すナピレテプに、女主人ルル・エブレクニトはため息をついた。どうやら、これらの行動はいつものことのようであった。
「で? ちゃんと持ってきたのでしょうね?」
「は、はいっ! こ、こちらに!」
ナピレテプは重ね合わされた手のひらを開く。その内にあった物を、公一は初め虹色の宝石かと思った。実際には眩く光り輝いているソレは、輝く物体などではなく、輝きそのものであった。形のある物質ではなく、様々な色の光が、少女の手の上で踊っている。
「よろしい。その者に」
「は、はい……」
緑髪の女性がナピレテプに視線で指示を出す。ナピレテプは、おずおずと公一に歩み寄り、手の上に乗った鮮やかな光を、少年へと差し出す。しかし差し出された公一の方は、どうすればいいかわからず困惑してしまう。手で触れればいいのかと悩む公一に、金髪の男が待ったをかける。
「ああ少年、まだそれを手にするな。まだ説明は途中……っ」
説明を続けようとした金髪の男が、急にバッと首を動かし、白亜の床の一点を見る。すると、柱の並ぶ巨大な部屋に、変化が生まれた。
金髪の男の視線の先で、突如として床に大穴が開いた。陥没とか地割れとかいった破壊的なものではなく、さながら口が開いたように、歪みのない綺麗な四角い穴が開かれた。元々、そう造られていたかのように。
「何をしている?」
その穴の奥から声が響く。隠れて煙草を吸っていた不良生徒を咎める、中学校教師のような厳格な声だ。
「……ヤバい」
それまで、貫禄と威厳を見せていた金髪の男が、急にその態度を崩した。同時に、緑髪の女の視線が、鋭く、敵意を孕む。ナピレテプは凍りついたように体を硬直させ、恐怖に蒼ざめた。
穴の奥の闇より、姿を現したのは、一人の長身の男であった。
黒い肌に、輝く銀色の髪。髪は腰にまで届くほど、長く伸ばしている。漆黒のローブをまとい、その右手には、漆黒に塗られた二股の矛を握っていた。
その顔は、神がかりなまで整っているが、公一は何か妙だと思った。違和感というのではなく、むしろ、どこかで同じものを見たような気がしたのだ。
「このような隠し空間を造って……初めは、またぞろ女を連れ込んだのかと思ったが」
銀髪の男は、チラリと緑髪の美女と、金髪の美少女を見て、
「ふむ、女については間違っていなかったようだが……それだけではないな? 死者は私の領分だ。『地獄王』である私に断りもなく連れてくるとは、何を企んでいる? 『ゼウス』よ」
何を『考えている』ではなく、『企んでいる』と聞くあたり、銀髪の男からの、金髪の男――ゼウスの信用度合がうかがえた。
(『ゼウス』? ギリシャ神話の神々の王の名前? 自分を神だと言っていたけど、本当にゼウスなのか?)
美術だか歴史だかの教科書に載っていた、大理石でつくられたゼウスの彫刻の写真を思い浮かべる。その彫刻ではゼウスを、髭を生やした威厳のある老人の姿で表していたが、金髪の若い男の姿の方が、本当の姿なのだろうか。
「ま、待て、話し合おう『兄弟』。これにはわけがだな」
あからさまに慌てる、金髪の男。彼は、手にしていた槍を手放し、両腕を広げた格好で、銀髪の男に歩み寄る。手放された槍は、不思議なことに倒れることもなく、床に対して垂直の向きを保ったまま、床から少しだけ空中に浮いていた。
ゼウスが銀髪の男を『兄弟』と呼びかけたことで、公一は不思議な感覚の意味がわかった。
銀髪の男と、金髪の男――二人の顔は瓜二つなのだ。髪や肌、装身具の色は正反対であることと、何より印象がまるで違うから、気づけなかった。
「せいぜい、口を尽くして説明することだ。ことと次第によっては、お前の奥方に告げ口させてもらう」
銀髪の男は厳しい態度を崩さなかったが、話を聞こうとする冷静さはあるようだった。冷静さが無いのは、緑髪の女性の方だった。
「冥府の者に、話すことなどないわ!」
ゼウスの後ろから走り寄り、彼が手放した槍を掴むと、ルル・エブレクニトと呼ばれた女性は、銀髪の男の左側から、槍を振るった。
「何をっ!」
銀髪の男の反応は素早かった。咄嗟に二股の矛をかざし、槍による横薙ぎを防ぐ。
黄金と漆黒が衝突し、耳を傷めるような、甲高い金属音が空間中に響き渡る。続いて、『ピキッ!』という小さな破砕音が起こった。
「……あ」
そう声を漏らしたのは、ゼウスだった。彼の視線の先には、角錐状の槍があった。より正確には、槍に入った『罅割れ』を、愕然と見つめていたのだ。
「あっ」
「なっ……!」
緑髪の女性が、しまったという声をあげた。銀髪の男の方も、慌てて矛を引く。しかし、もはや手遅れであった。槍の罅割れから、バチバチという音を立てて、眩い光が弾けて飛び出す。ジグザグに空間を走るその光は、雷電の類であった。光と音は、どんどん激しさを増していく。
「何これ……どうなって……!」
ルル・エブレクニトは怯えて、槍から手を放してしまう。槍は床に転がることなく、先ほど同様に、空中で静止したままであった。しかし、電撃は更に力を強め、空気が唸り、風が生まれ始めていた。
「いけない……!」
銀髪の男が、右手を開き、槍へ向けてかざす。何かをしようとしたようだが、その行動は既に遅かった。
罅割れた部分が、『ペキリ』と剥がれ落ちた。槍が毀れ、破片が床に落ちる。三度、床を跳ね、転がった後、その小さな欠片から、幾本もの雷が躍り出る。電光が白亜の床を焼き焦がし、空間を飛び交う。欠片からは次から次へと雷が放たれ、周囲の柱にぶつかり、打ち壊す。
やがて、欠片は床から空中へと浮かび上がり、更に光を強め、竜巻のような強風を巻き起こす。
「な、何っ! 何なのっ⁉」
「返せっ!」
ルル・エブレクニトの手から、ゼウスが槍を取り上げる。
「欠片を、繋ぎ直せば……!」
しかし、ゼウスが何かの対処を実行する前に、欠片から放たれた雷が彼に襲い掛かる。咄嗟に槍を構え、雷を受け止めたが、衝撃を殺しきれずに後方へ吹き飛ばされた。
「ひ、ひいっ!」
「ナピっ! 何してるの! 私を護る楯になりなさいっ!」
怯えて声を上げたナピレテプに、ルル・エブレクニトの命令がくだる。慌てふためく彼女の手から虹色の光が放り投げられ、
「うわっ!」
公一の頭から降りかかった。
虹の輝きが彼を包んだが、触れた感じはせず、熱くも冷たくもなく、光はすぐに消え去った。
一方、ナピレテプは公一のことに目を配る余裕も無く、必死の様子でルル・エブレクニトの傍に走った。そして口元を恐怖で引きつらせ、震えながらも両腕を開き、女主人を雷からかばう体勢で立つ。
「た、盾を構えよ……『イアロット』!」
ナピレテプの口から言葉が放たれ、同時に光の壁のようなものが、少女の前に浮かび上がる。直後、雷がナピレテプの方に飛来するが、光の壁によって弾かれた。それはまさに壁であり、盾であるのだ。しかし、ナピレテプの表情からすると、安心できる状況ではないことがわかる。
「異なる空よ、繋がらぬ道よ、届かぬ声よ! 今こそ一つとなり、結ばれるべし……『オプネミセサ』‼」
ルル・エブレクニトの方は、急いで呪文を紡いでいた。
緑髪の美女の目前の空間に、『黒い穴』が生まれる。いや、『穴』と言うよりは『渦』であろうか。それは螺旋を描いて揺らぎ、こちら側のものを向こう側へと送り出さんとする、力が感じられた。
「ル、ルル・エブレクニト様っ、は、早く脱出してくださ……きゃぁっ!」
主人の退避を促すナピレテプであったが、まさにその時、光の壁が砕け、少女の体が吹き飛んだ。
「ひいっ、は、早く……きゃあっ‼」
ルル・エブレクニトの方は、雷に弾き飛ばされた少女の安否を確かめるどころか、視線を向けることさえせず、その『渦』の中に入ろうとした。しかし、入る前に雷が彼女の足元を撃った。直撃はしなかったものの、すぐ近くで起こった爆発により、ルル・エブレクニトは宙を舞い、床に倒れる。
「ル、ルル様っ! ひえっ! ひあああっ‼」
ナピレテプが悲鳴をあげて、倒れた緑髪の美女に駆け寄ろうとするが、再び躍りかかって来た雷撃に、ナピレテプは転げるように逃げ惑う。
「……いかん!」
事態の収拾が見込めない状況に、銀髪の男が焦り、表情を歪める。次の瞬間、欠片から一際強く、巨大な雷が生み出され、真上に向かって放たれた。
そして天井に直撃した後、公一が感じたのは、光の大爆発だった。視覚の全てが白く染まり、耳が聞こえなくなるほどの轟音が世界を満たす。同時に、空間を衝撃が走り、公一の体は枯れ葉のように吹き飛ばされる。雷と風はより激しく吹き荒れ、周囲の物体が砕け、吹き上げられ、宙を舞う。
「かっは……!」
肺の中の空気が衝撃で押し出されたと思った直後、公一は意識を手放した。
意識が途切れる直前、激しい雷光と暴風の中で微かに見えたのは、凄まじい雷を、凄まじい勢いで吸い込んでいく、『黒い渦』であった。
◆
最後の閃光が放たれた後、『整えの間』と呼ばれた場所を、静寂を取り戻していた。
とはいえ、槍の欠片が落ちた場所を中心に、雷の嵐が吹き荒れた被害は、深く刻まれており、床は焼け砕け、幾本も柱が圧し折れ、天井には大穴が空き、瓦礫が散乱していた。天井の大穴の向こうには、歪んだ虹のような奇妙な色彩の空間が、無意味に広がっている。
「疑似空間だったのが不幸中の幸いだったな……。現実空間であれば、最後の雷の威力で……大陸の一つくらいは、破壊されていたかもしれん」
公一を疑似蘇生させるために、現世ではない空間をつくっていたのが幸いした。
ゼウスは起き上がり、周囲を見渡す。そして、いまだに倒れたままのルル・エブレクニトを見つけ――それ以外の何も見つけられなかった。
南郷公一も、銀髪の男も、ナピレテプも、『黒い渦』も、そして槍の欠片も。
「……ヤバい」
この世界の主神の背筋を、冷たい汗が流れ落ちていった。