プロローグ:カドモスの勝利に習って
斑模様の鱗が、緑の森に君臨する。
この森の最も高い樹木も、その巨躯には及ばない。
その口は、人間はおろか、熊とて丸ごとに飲み干すだろう。
満ち溢れた力は動くだけで木々を圧し折り、シュゥシュゥという息と共に毒気が漏れる。
冷血の視線をこちらに向ける、金色の眼。
口の先から時折飛び出す、二股に分かれた赤い舌。
その生物と似たような生き物は、少年の世界にも存在したが、少年にはその生物に対する詳しい知識は無い。
もし知識があれば、元の世界の生物種で確認された最大のものより、目の前のものは更に三倍ほども大きいことに気づいただろう。気づいたところで、何が救われるわけでもないけれど。
「大蛇、ですかぁ……」
象牙色の肌をした黒髪の少年は、冷や汗を流して、首を左右に振った。笑っているような表情だが、実質は恐怖で引きつっているだけだ。
「安心しろ。葬式と埋葬については自信がある。任せておけ」
黒い肌をし、銀髪を腰まで伸ばした男性が、少年の背後で胸を張る。その声は恐ろしく冷静で、全く感情を浮かべぬ無表情であった。
「い、いえあの……できれば、あ、あまり死なない方向で物事を進めたいのですが……」
更に後ろで縮こまっていた、金髪をショートカットにした少女がおずおずと言う。白い肌の顔が、蒼褪めていた。
森の木に隠れ、百歩は離れた距離に存在する大蛇を眺めるが、全く安全地帯にいる気はしない。いや、実際に決して安全ではないのだ。
小山のような巨体と、その巨体からは想像がつかないほどの俊敏性と機動力。相手がこちらに気づき、襲い掛かってくるなら、とても逃げることはできまい。
「事前に調べた情報を、再確認する。種族名『うねり大蛇』。その食欲と獰猛さから、発見時に『うねくる胃袋』とあだ名されたのが、正式に名前になった。馬にも追いついて締め上げる俊敏性と、木々を押し倒して進む怪力を持つ。硬い鱗と弾力のある肉体は、鉄の武器でも跳ね返す。口から吐き出される毒ガスは、一度吸い込んだだけで牛も即死させる。まず、魔物に分類されるだけのことはある」
「……弱点は?」
「しいて言えば、冷気だ。魔物とはいえ、蛇の範疇であるため冷血動物の特徴を持つ。したがって冷気に弱い。ゆえに氷魔術で攻撃するのが常道らしいが、どうだナピレテプ?」
黒肌の男は、金髪の少女に尋ねる。
「氷魔術は使えますが、あの体に効くかは、ちょ、ちょっと……」
どうやら無理そうだ。少年は別の提案をする。
「……逃げて、助けを呼べませんか?」
「無理だな。先ほどからずっとこちらを見ている。どうやら気づかれているな。今はこちらの様子を伺っているが、動き出した途端に襲い掛かってくるだろう」
少年は黒肌の男性に対し、情け容赦を要求したくなった。
「性質は極めて凶暴。人間を確認すれば、すぐさま襲い掛かってくる」
「……お腹いっぱいなら、少しは穏やかになるんじゃ?」
満腹のライオンは、草食動物を襲いはしない。必要以上の獲物を狩るなど、エネルギーの無駄であるからだ。
何か食べた後なら、少しは穏やかになるのではないか? 少なくとも、喰い殺すつもり満々の、殺気立った相手をするよりはマシではないか、という、少年の希望はすぐさま否定される。
「性質は極めて凶暴。動くモノを見つけると、ひとまず攻撃する習性がある。空腹か否かは関係ないようだ。ついでに大食漢で、十人飲み込んでも満腹にならなかったと記録にある」
男の答えに、少年は更に絶望的な気分になる。
「えーっと……肉体的な急所とかはあるんでしょうか?」
「そ、それは普通の生き物と同じと、考えていいでしょう。魔物は確かに、常軌を逸した生物ですが、生物という枠組みを超えてはいません。の、脳や心臓など、重要臓器が破壊されれば、死に至ります……」
蛇の長い体のどこが心臓なのかはわからないので、狙うとしたら脳の方だろう。
「……エレさん。何か、手はありますか?」
「ドラゴンか……。アレスが自分の飼っていたドラゴンを殺されたと、愚痴っていたことがあったな。殺した相手はカドモスと言っていた」
「そういえば、ギリシャ神話でそんな話があったような……それはどうやったんです?」
「カドモスはまず、岩を投げつけたが効かなかった。次に投げ槍を使い、これで傷つけることができた。そして最後に長槍をもって戦い、刺し殺すことに成功したのだと聞いた。人の世に語られている神話には諸説あるが、これが真実だ。戦神アレスから直接聞いた話であるから間違いない」
ギリシャ神話の神から直接、話を聞いたという銀髪の男の言葉に、少年は疑問を差し挟むことはしなかった。しかし、策を使わず正攻法で勝利したという話を聞かされたところで、
「……神話チート、参考にならない」
少年は力なく首を振った。
「後はそうだな。毒なり罠なりを使い、動けなくするなどだな。一応は生物だ。毒も効くだろう」
「ああ、それは知っています。日本の神話で、八岐大蛇という怪物を、酒で酔い潰して、眠らせてから首を撥ねたって」
少年はかつて読んだ、神話や伝説の中の一つを思い出す。
「ああ、その八岐大蛇の正体は、当時の王朝に敵対していた八つの部族の長だ。王朝は彼らと和平を結ぶと宴に誘い、毒を入れた酒を飲ませて、動けなくしたところを殺した。その史実が、神話に姿を変えたものだ」
「……知りたくなかった、そんな歴史の暗黒面」
自分のご先祖がなした非道を知り、落ち込む。遥か古代の話であり、証拠は無いのだが、少年は今の話が事実であると信じた。エレは人類史について、誰よりも――本当に誰よりも知り尽くしているし、嘘をつくこともない。それを少年は、これまでの付き合いで思い知っていたから。
「ともあれ、そんな都合よく、あの巨体に通用する毒など持ち合わせはないが……動けなくする手段が、あるにはある。ただ、そう長時間は持つまい。公一……そのわずかな機会を逃すな」
エレは少年の名を呼ぶと共に、彼の腰に備わる『剣』を視線で示す。その『剣』だけが、彼らの持つ唯一の、大蛇を殺す手段であるからだ。見た目は、古めかしい青銅製の西洋剣だ。その鍔や柄の造り、今は鞘に収められている刃の美しさ――全てが素人の眼にも、名品であるとわかるほどの見事さだったが、剣は剣である。巨大な森の王を殺せるほどの武器とは、思えない。
けれど三人は皆、知っている。この剣以上の剣は、この世で生み出すことはできないことを。
「その剣を使わないのなら、他に通じる武器はない。あとはヘラクレスが獅子にしたように、素手で絞め殺すくらいしか方法はなかろう」
ギリシャの大英雄ヘラクレスは、ネメアで暴れていた獅子を素手で殺したと言う。
しかし公一が真似することはできない。たとえその手に捕らえられるまで近寄れたところで、相手は大蛇だ。あの相手の体に合わせて巻き付く長い体。全身にみなぎる力。他生物を絞め殺すために、生まれてきたと言わんばかりだ。逆に骨まで砕かれるのがオチである。
やはり剣しかない。
「……何であんなの見つけちゃったかなぁ」
「残念だが、これ以上話してはいられない。向こうがしびれを切らしたようだ」
とぐろを巻いていた巨蛇が動き出していた。
スルスルと自分の身を解き、長大な身体を引きずって公一たちへと向かってくる。
「では動きを止める。ナピレテプ、毒の息の方はいいな?」
「は、はい!」
エレとナピレテプが体勢を整えるのを見て、公一も覚悟を決めるしかなかった。
「じゃあ……切り込みますから、お願いします」
「任せろ」
エレの返事を聞き、公一は樹木の陰から飛び出し、剣を抜く。少年の片腕と同じ程度の長さの剣身が、太陽の光を鏡のように反射して輝いた。
「はぁっ!」
声を上げて自分を奮い立たせ、公一は走り出す。
一方、大蛇は正面から自分に迫ってくる相手に対し、警戒するでもなく迎え撃った。この森の生態系の頂点に立つ自負を持って、向かってくる身の程知らずを一飲みにしてやろうとする。しかし、大蛇が鎌首をもたげて頭上から食らいつく動きに入る前に、エレが先手を取っていた。
「『立て』」
黒い指先を地面に当て、言葉を一つ唱えた。
すると、地面から蔦が伸び、大蛇の体を飲み込むように這い回り、覆っていく。からみついたつる草は、大蛇の進行を押しとどめ、その頭を上げさせず、地面に押し付けた。
シャァァァァァッ!
大蛇が鳴いた。その冷たい体に襲い掛かる現象は、自然界に長く身を置いていた魔物にとっても、未知のものであった。
それはエレの力。魔術とは一線を画す『権能』の表れ。今、使われているのは、エレの『権能』の一つである『豊穣』。大地に根を張る植物を活性化させ、成長させ、実りをもたらす力。その応用で、森の植物を操っているのだ。
シャアアアアッ‼
蔦に縛られた魔物は怒り、全身に力を込めて蔦を引きちぎろうとする。エレの力で丈夫になっているとはいえ、つる草であることに変わりはない。魔物の筋力を持ってすれば、いずれは断ち切られるだろう。
しかし、その前に公一が大蛇の前に立ち、剣を振り上げていた。
「はぁぁぁぁぁっ!」
本能的に、大蛇はまずいと感じていた。剣など、本来なら相手にはならない。鱗と筋肉の鎧は、鋼鉄の剣だろうと無意味にする。だが、この剣は危険だと直感していた。
ゆえに、大蛇は口を開き、とっておきの武器を使うことにした。胃や肺とは別に、『うねり大蛇』が内蔵する器官、『毒気袋』に貯め込まれた毒ガス。吐息と共に噴出し、一度吸い込むだけで、人間などひとたまりもなく死に至る。
カハァァァァァァッ!
青白い気体が、公一に向けて噴出する。しかし、
「吹き払え、ビュービート!」
それに備えて準備していた金髪の少女が、魔術を放っていた。
風魔術。気体を自在に動かす魔術。
ナピレテプの魔術はそれほど強いものではないが、激しい風を吹かせる程度のことは可能だ。傷つけるような効果は無いが、蛇の肺活量を上回り、毒気を押し飛ばすくらいなら十分。
シャッ⁉
必殺の武器が無効化された驚き。その間にも、白刃は巨蛇に迫っていた。
シャァァァァァァァッ‼
まさに土壇場。大蛇は渾身の力を振り絞り、蔦を引き裂いて、首を自由にした。そして、迫る刃をかわすことに成功する。しかし、左目が切り裂かれて潰れ、血が流れた。
シャァァァ! シャァァァァァァッ‼
憤怒に鳴き、大蛇は自分の身を傷つけた少年を食らおうと大口をあげ、飛びかかる。だが、
「おおおおおっ!」
公一は、身をかわすことも、後ろに下がることもせずに踏み込む。
此処に来て、身体能力は飛躍的に上昇したが、それだけでもあった。武術を学んだこともない自分が、逃げ惑ったところでジリ貧になる。それを公一はわきまえていた。
カドモスやヘラクレスのような真の英雄には、才能も実力も経験も遠く及ばない自分。だからこそせめて、逃げずに前に攻めることだけでも、英雄に習おうと。
踏み込んだ足で、大蛇の下顎を思い切り強く踏みつけ、固定する。そして口が閉じられる前に、剣先を正面に突き出し、真っ直ぐ突き込んだ。
ジャッ⁉
大蛇の口の中、上顎の内部に、公一の剣が刺さる。一気に根元まで突き刺した後、公一は手首を捻り、傷口を掻き回した。
「…………!」
しばしの静寂。
公一も蛇も動かず、声も無く、時が流れる。
(やったのか? それとも……)
公一が冷や汗を流したと同時に、グラリと大蛇の巨躯が横転した。蛇の力は消滅し、巨大な亡骸のみがこの世に残ったのだ。
「やった……?」
剣を抜き、蛇の口から離れて、公一はようやく一息ついた。改めて見ると、その毒蛇の巨体に圧倒される。尻尾の先まで、視界に収まりきらない。
(こんな、信じられないような怪物を、この僕が……こんな剣一本で……)
公一は、その手に残る、蛇の頭部を貫いた感触に震える。この巨大な魔物を突き殺した感触が、包丁でリンゴを突き刺したのと同じ程度の、サクリという軽い手ごたえに過ぎなかったのだ。機関銃でも貫けないだろう、魔物の強靭な肉体も物ともしない。
なんと恐ろしい切れ味。なんと恐ろしい剣か。
(本当に……どうしてこんなことになってるんだろう)
今更ながらに、公一は自分の置かれている異常な現状を思い知る。
公一は、劣っているというわけではないが、ありふれた能力しか持たない、日本の高校生に過ぎなかったはずなのに。
(悪い冗談だよ。異世界だなんてさ……)