終焉
本当の意味で一人になってから、どれくらいの時間が経っただろう。
僕は花町家から着の身着のままで出てきたため、正確な時刻は分からなかったが、体感では相当経っているように感じた。
それなのに、雨は治まるどころか、どんどん激しさを増していく。
雨が目に入って前は見づらく、ぬかるみや水たまりで足元は悪い。
正絹性の着物は雨水をどんどん吸い、もはや体に重りをつけているようだ。
「優雅ちゃんから今すぐ離れなさい! 言うことを聞かないなら、殺してやる!」
数時間前、宮緒様に言われた言葉が未だ耳から離れない。
まるで耳元でずっと囁かれ続けているよう。
僕はそれに追い立てられるように走り続けていた。
宮緒様は僕に死んでほしいと思っているんだ。
ただ、走っている理由はそれだけではない。
僕は、時々後ろを振り返った。
気のせいかもしれないが、さきほどから誰かにつけられているような感じがする。
邪魔されるのはいやだ。
「はぁ……はぁ……」
どちらにせよ、こんなに長く走ったのは生まれて初めてであった。
全身筋肉痛で、疲労がひどく、足の親指と人差し指の間が下駄の鼻緒で擦れて痛い。
呼吸が苦しく、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
走ることがこんなに辛いことだなんて知らなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
それでも、僕は足を止めなかった。
意識は朦朧としてきたが関係ない。
むしろ、その方が都合が良かった。
決意が揺らがずに済むし、辛いこと、悲しいことでこれ以上悩みたくない。
それに、これは自分への罰だと思っていた。
宮緒様の気持ちを察せられなかった罰。
だったら、苦しくて当たり前だ。
だって、罰なのだから。
「はぁ……はぁ……はっ!」
僕は自分を叱咤するために太ももをはたいた。
そして、自分を奮い立たせると、僕は加速した。
周りの建物がさっきより早く過ぎ去っていく。
まだ余力が残っていたみたい。
限界だと決めつけていたが、それは間違っていたようだ。
でも、良かった。
これで、まだ僕は走れることが分かった。
今はただ走り続けられさえすれば、他はどうでもいい。
人の目だって、今は気にならない。
なぜなら、もうすぐ全てが終わるのだから。
僕は人がいない方、建物がより古い方へ前進した。
最期は人目につかない場所で、ひっそりと……。
それまで、僕は負けるわけにはいかな……。
「はぁ……は、はうっ!」
突然、つま先から体が前にグラッと傾く。
そう思った時には遅かった。
僕は体を強く打ち、コンクリートに転がった。
「いったいぃぃぃー!」
右肘と膝に激痛が走った。
僕は近くの街路樹に背中を預けると、すぐさま怪我の状態を見る。
擦り傷ができているが、それ以上に皮膚の下が痛い。
曲げようとしたら、痛みで曲げられなかった。
伸ばすことも同じで、難しい。
なんで!?
僕は転ぶ時に変な感覚がした右足を見ると、下駄の鼻緒が切れていた。
そんなのってないよ!
こんな時に限って、何で切れるかなぁ。
僕は泣きそうになったが、首を振ってその気持ちを振り払う。
そして、痛くない、痛くないと何度も念じた。
そうしないと痛みに飲まれそうだったから。
しかし、なかなか痛みは引かない。
ちらっと患部を見た。
すると、内出血を起こし腫れてきていた。
見たら、余計に痛くなってきた。
痛い、痛い、痛い、痛い!
これじゃあ、走れないよぉ……。
そう思ったら、目がじわっと潤んできた。
視界がぼやけていく。
こんなはずじゃなかったのに。
すると、頭の中でまた声が聞こえてきた。
体の痛みは心の痛みを呼び覚ます。
今まで抑えつけていた感情が、この瞬間にどっと溢れ出してきた。
「偽物の分際で、どこまで私を苦しめるつもり!? まさか、最初からそのつもりだったってこと? 答えなさい!」
宮緒様は怒りをあらわにして、怒鳴っていた。
そんなつもりじゃ……。
僕は、ただ宮緒様に愛してもらいたくて……。
「女子だったら! せめて女子だったら良かったのに! 何で女子じゃないの!?」
僕も、宮緒様が望むなら女子が良かった。
何で、僕は女子に生まれなかったんだろう。
宮緒様の前では言えなかったが、心の中では思っていた。
その気持ちが湧き上がってきたのと同時に、悲しみで目に涙がたまっていく。
泣くな! 泣くなよ!
そんなだから、だめなんだ。
僕は着物の袖で目を拭うと、泣くまいと歯を食いしばった。
だが、口周りの筋肉は震え、言うことを聞かない。
そこへ、宮緒様に言われた最後の言葉を思い出す。
「消えなさい! そして、もう2度と姿を見せないで!」
それが引き金となる。
いよいよ涙が止まらない。
もう、泣くなって言ってるのに!
もういやぁ!
考えるな! 何も考えるなぁ!
僕は胸を抱いて、必死に感情を押し殺そうとした。
しかし、効果はない。
僕は自分に嫌気が差した。
「泣くなって……、泣くなって言ってるだろぉー!」
突如、僕は寄りかかっていた木から体を離すと、行き場のない怒りを発散させるように頭突きをした。
もうどんな方法でもいいから、胸苦しさから解放されたかった。
それを消すためなら、今なら僕は何でもできた。
頭頂部に固いもの独特の感触がした後、割けたかと思う程の痛みが来た。
頭もクラクラした。
だが、それだけだった。
胸のつかえは取れない。
むしろ、頭痛みが加わり三重苦となった。
僕の存在を早くなかったことにしたい……。
涙を止める気にはもうならなかった。
土砂降りの中、僕は涙や血や汗にまみれた。
なんで生まれてきたんだろう。
なんで僕なんだろう。
力なく木に寄りかかると目を閉じた。