旧家 三
花町家には『屋形』と呼ばれる稽古場と寮が一体になっている場所がある。
寮は一人に一部屋、八畳の簡素な和室が与えられ、そこに優雅お姐様と高雅、僕は住んでいた。
僕は自分の部屋で一人で寝るのがいやだ。
幼い頃からずっとそうだ。
微かな物音でびくっとなるし、何より寂しい。
だから、他の人の足音や声が聞こえるととても安心した。
一人じゃないと思えるから。
ある日の夜。
僕は布団の中に入って周りの音に耳を澄ませていると、ふいにノックの音が聞こえた。
自分の部屋だ。
僕は嬉しくなって、襖に向かって「どうぞ!」と明るい声音で返事をした。
すると、襖がそーっと開き、周りをきょろきょろと窺いながら高雅が入ってきた。
高雅は襖を閉めると安堵の表情を浮かべ、僕の近くに来て紙袋を差し出す。
「これ、典にやる」
「え、なにこれ?」
僕は布団から起きると、不思議に思って問いかけた。
高雅はにやりと白い歯を見せ、
「すごくいいものだ」
と意味深に言い、僕に開けてみるよう促した。
「何かな?」
僕は紙袋から中のものを丁寧に取り出すと、目を疑った。
「こ、高雅!? これって!?」
「典、こういうの持ってないだろ?」
入っていたものは男物のボーダーTシャツと紺色のジーンズ、白のスニーカーだった。
いつも宮緒様から与えられる着物やひらひらの服を着ており、こういう服は着たことがないが、興味がなかったわけじゃない。
性別のことで葛藤し始めた頃、僕も着てみたいなぁと思うようになってきた。
まぁ、高雅は、ただ単に僕に男らしい恰好をしてほしいだけかもしれないが。
僕はこの湧き上がる喜びをどうしても伝えたくて、高雅に飛びかかった。
「典は男なんだから持ってた方が……って、きゃ!」
「こうがぁー! ありがとう! 本当にありがとう!」
高雅に抱きつこうとしたのだが、ひらりとかわされた。
「な、な、なにすんだよ!? いきなりはだめだぞ!?」
「えー、高雅に親愛の情を示そうとしたのに」
すると、高雅はそっぽを向いて、いいよと手を振った。
「別にいい! それに、そんな風にされると、オレがしてほしくてあげたみたいななんか変な感じになるじゃん……」
「? そんなこと思ってないけど」
「うるせー! なるんだよ!」
そんなつんけんした態度の高雅を、僕は正面から見ようと回り込む。
そして、高雅を見上げて、手をぎゅっと握り微笑んだ。
「高雅からもらえて嬉しいよ! 一生大切にするからね!」
「好きにしろ」
高雅はぞんざいに言ったが、顔が赤くなっていた。
その様子に、僕も幸せな気持ちになったが、その分だけ着るのが惜しくなった。
「あー、でも、これ着れないかも? 額に飾っておこうかなぁ」
「いや、服だぞ。普通に着ろよ」
それからは、自分の部屋での楽しみができた。
以前は優雅お姐様との稽古が終わった後、部屋で一人になるのが寂しくて嫌だったが、高雅に服をもらってからは変わった。
値札付きのまだ一度も着ていない服を見ると、高雅とのやり取りを思い出し、自然とふにゃっとした笑みがこぼれ、温かい気持ちになるのだ。
寝つきが悪い時なんかは胸に抱いて寝た。
何だか隣に人が、高雅がいるような気がして。
「今日も一緒に寝てくれる……?」
誰もいない部屋で、孤独を紛らわすように一人そう呟くのが癖になった。
そして、段々自分の部屋だけでは我慢できなくなってきた。
例の服が手元にないと落ち着かない気分になるのだ。
だから、部屋の外に行く時は、手提げ鞄の中に忍ばせて持ち歩いた。
僕の心の精神安定剤のようなもので、すぐ近くにあるのとないのでは全然違う。
また、それは、自分が本当は何者なのかを常に問いかけてきた。
宮緒様の言いつけで女子の恰好をしていたが、それが段々と苦しくなってきた。
学校生活において、人の視線や言葉によって自分がとてもいけないことをしているような気持ちになる。
宮緒様の真意は分からないまま、区分においては僕は男子であり、優雅お姐様や高雅もそれを肯定した。
花町家という閉鎖された世界から学校等を含めた大きな世界へ広がるにつれ、導かれるように意識は変化していった。
本当は、僕は男子なんだ。
今まで、自分の言動や所作を一々気にしていたが、僕もみんなみたいに自然体でいいんだ……。
自然体で……。
しかし、現実は、これまでと同じで何も変わらなかった。
人から見た今までの自分を壊す勇気がなかったからというのもあるが、純粋に、普通でいるということがどうすればいいのか分からなかった。
そんなある日、事件は起きた。
僕は優雅お姐様との稽古にとても疲れ、部屋に戻った途端、電気も消さず倒れるように寝てしまった。
それが失敗だった。
はっと目覚めた時には、鞄は開いていて、高雅からもらった服は消えていた。
僕は宮緒様の意思に背いていたという自分がいけないことをしていた自覚と高雅に迷惑をかけるかもしれないという理由から誰にも言うことができず、ただ、途方に暮れてしまった。
そして、僕は何も成せないまま、12歳になった。
僕にとって節目の年齢であった。
なぜなら、舞の試験があるからだ。
それは、見習いから芸者として座敷に上がることを宮緒様に許してもらうための最終試験でもあった。
逆に言えば、不可は才能なし、つまり破門だ。
内容は、予め宮緒様が舞の演目を選び、近しい者達ー御職屋の常連客等を招待して、花町家の敷地内にある歌舞練場で舞を披露する。
試験は、早い人であれば9歳から12歳までの1年間に1度行われ、不可と評価された場合は来年また受けることができるが、僕に与えられたチャンスは一度だけだった。
それも優雅お姐様が宮緒様に直接訴えてくれたおかげだ。
僕はそうしてやっと人並みのスタートラインに立つことができた。
そして、訪れた試験の日。
僕は開演前の舞台袖で、独特な会場の雰囲気に飲まれ、これまで経験したことがないほどの緊張に押しつぶされていた。
これから大勢の人の前で踊り、宮緒様が求める基準以上の結果を出さなければならない。
ちゃんと自分の体は動くか不安で、もうすでに失敗したときのことを考えて半泣きだった。
逃げ出したかった。
怖かった。
でも、ここでダメだったら、もう僕がいてもいい場所はなくなってしまう。
何もかも失ってしまうんだ。
僕は極限の精神状態の中、遂に出番が来た。
正絹性の特別な着物は慣れなかったが、ここまで来たら覚悟を決めるしかなかった。
僕はなけなしの勇気を振り絞ろうと、目を閉じて繰り返し念じた。
成功したら、宮緒様に認めてもらえる。
成功したら、優雅お姐様に今まで稽古をつけていただいた恩返しができる。
成功したら、高雅に絶対服がなくなったことを謝ろう。そして、今度は僕が素敵な物を贈るんだ。
そして、僕は舞台へ上がった。
ライトは眩しく、僕が姿を見せた時の歓声は凄かった。
外見こそ、宮緒様譲りの綺麗な銀髪と顔立ちで容姿端麗と評価されていたため、容姿に文句はないだろう。
問題は踊りの内容だが、大勢の人の目を意識した時、僕の頭は真っ白になった。
そこからは記憶がない。
気づいたら、僕は舞台袖で優雅お姐様の膝で寝ていた。
僕は恐る恐る優雅お姐様に聞いた。
「どうでしたか?」
すると、優雅お姐様は僕の髪を優しく撫でながら微笑んだ。
「良かった。いいものを見せてもらいんした」
客が帰った後、僕は宮緒様から講評を受けるためにトロへ向かった。
道中、なんとなく夜空に浮かんだ月や星を見上げながら歩いた。
いつも通りメイドが出迎えてくれたのだが、客間ではなく屋形の僕の部屋で待ってるように言われた。
宮緒様の指示らしい。
僕は生きた心地がしなかった。
そうして、しばらくすると宮緒様が来た。
宮緒様は僕の部屋を見回すと、顔色ひとつ変えずに言った。
「出て行きなさい」
その言葉は、僕の心の奥までじんわりと浸透していった。
薄々気づいていた。
多分、最後はそうなるんだろうなぁって。
だって、僕には才能がないから。
優雅お姐様のようにはなれないんだ。
でも、どうしても諦めることができなかった。
宮緒様は、僕にとって血のつながっている唯一の肉親で、一番愛してもらいたかった人だから。
それに、日舞は優雅お姐様からお墨付きをもらっていたので、もしかしたら宮緒様も認めてくれるんじゃないかという淡い期待がないわけでもなかった。
しかし、それも今、打ち砕かれた。
僕は大きな悲しみに包まれる中、これが最後かもしれないと震える声で質問をした。
「宮緒様……。僕の何がいけませんでしたか?」
それは、舞の試験の出来だけではない。
これまでの僕の人生そのものを含んだ問いかけでもあった。
僕は顔を上げられず、宮緒様の答えをまるで断頭台に立ったような気分で待った。
宮緒様は絶対零度に感じられるような冷たい声で言った。
「いけないところ? そんなの全てだわ」
「ふふ。そう……ですか」
僕は悲しみを通り越して、笑みが零れた。
宮緒様は鼻を鳴らすと続けて言う。
「全部、無駄な努力だったわね。そもそも、私があなたを仲間に入れてあげるなんていつ言ったのかしら? こうなる前に、こっちは親切で何度もやめさせてあげようと機会を与えたのに、それにも気づかないし」
「宮緒様は僕が芸者になるのに反対だったんですね……」
独り言のように言った。
生まれて初めて宮緒様の気持ちを知った。
チャンスを与えてくれていると思ったが、それは僕の勘違いだったらしい。
ようするに、一人で盛り上がっていたってことか。
「本当にあなたは愚か。私の表面だけ似てる全くの贋作。邪魔をしないならまだ生かしておいてあげたけど、もう無理。我慢できない」
今まで押しとどめていた心の内を吐き出すように言う宮緒様。
僕はもう何も言えず、ただ黙って聞いていた。
その後は、宮緒様は傍に控えさせていたメイドに指示を出すと、僕には目もくれず、別の何かを考えているようだった。
「……ちゃん、いったい何を考えているのかしら?」
これからどこに行けばいいんだろう?
メイド達が部屋から家具を運び出していくが、僕にはどうすることもできなかった。
宮緒様ー花町家の主が僕に「出て行きなさい」と一度言った以上、それはもう決定事項だ。
僕には宮緒様を説得できるほど発言権もなければ、話術も下手だから。
僕はしゃがみ込んだまま、自分の部屋がそうじゃなくなるのを眺めていた。
が、途中から見ていられず、僕は膝を抱えて丸まった。
ふいに、誰かに後ろから体を抱きしめられた。
そうして、頭を優しく撫でられる。
まるで大切なものを扱うかのように。
僕はびくっとすると、耳元で囁かれた。
「典ちゃん、よく頑張りんした」
おっとりとした声の調子に、すぐ優雅お姐様だと分かった。
僕は顔を上げると、助けを求めるような目で優雅お姐様を見た。
優雅お姐様はごくんと喉を鳴らすと、僕の背中と膝に手をやった。
次の瞬間、僕の体が宙に浮いた。
そして、清楚な優雅お姐様らしくない艶を含んだ声で言った。
「わっちの部屋に来なんし、ふふ」
優雅お姐様の部屋は、住人が違えばこんなに変わるのかというほど素敵だった。
白を基調とした家具に、ピンク色で揃えた小物が可愛らしい。
開いていた襖を抜け、優雅お姐様に抱きかかえられたまま部屋の中に入ると、僕は開口一番に言った。
「優雅お姐様の手を煩わせてごめんなさい!」
しかし、優雅お姐様は何も答えなかった。
そして、部屋の奥にある布団まで行くと下ろしてくれたが、僕は畳のところに移動した。
「優雅お姐様が寝るところに座れないです」
すると、優雅お姐様は僕の腰に手を当てた。
「遠慮しないで。わっちと典ちゃんの仲でありんしょう?」
その言葉に、僕は首をブンブン振った。
「そんな、畏れ多いです。気持ちはとても嬉しいですが、優雅お姐様と僕は違いますから」
優雅お姐様と僕は月とすっぽんのように大きな差があり、僕はそれを弁えていなければいけない。
才能も、宮緒様から受ける愛情も。
すると、優雅お姐様は子どもっぽく頬を膨らませた。
「それなら、こうでありんす」
「わっ!」
優雅お姐様は僕を抱きかかえると、一気に布団の上へ持っていった。
そうして、嫌がる僕の腰の上に体重を乗せた。
「うう……優雅お姐様が僕の気持ちを無視する」
僕は抗議の意味を込めてじとっとした目で見た。
しかし、優雅お姐様はそれに目を細めるだけで、逆に、なぜか妖しい笑みを返してくる。
そして、さらに僕の手をしっかり握ると、顔を近づけてきた。
「典ちゃん……」
優雅お姐様と僕の体が重なる。
豊満な胸を押し付けられて、僕は身じろぎした。
体からは甘酸っぱい匂いがする。
なんだかさっきから優雅お姐様の様子がおかしい。
僕はいつもと違う雰囲気に怖れを感じた。
「優雅お姐様、だめです!」
僕は声を上げて抵抗した。
だが、実際は足が少し動いた程度で、全然思うように身動きが取れなかった。
「あら、何がだめ?」
優雅お姐様はおかしそうに笑いながら、着物から露出した太ももで僕の足を抑えつけ、完全に動きを封じる。
弱い者いじめだ。
僕は優雅お姐様に本当のことを言った。
「今の優雅お姐様は少し怖いです」
優雅お姐様は僕で遊んでいるのかな。
でも、こんな時に意地悪しなくてもいいのに。
優雅お姐様は僕の耳元で「はぁ……、はぁ」と断続的に吐息を零す。
「典ちゃん、とても可哀想そう。こんなにビクビク震えちゃって。わっちが慰めてあげんす、ふふ」
「そうなんですか?」
でも、言葉には出さなかったが、重いだけだった。
それに、僕は優しい言葉の方がずっと良かった。
あ、でも、一度甘えるとそのままずるずるいっちゃうからそれも良くない。
僕は優雅お姐様の匂いで、クラクラしながらそんなことを考えていた。
すると、今度はあろうことか、優雅お姐様は僕の首筋の匂いをすんすんと嗅ぎ始めた。
吐息がくすぐったい。
逃れようとしたが、優雅お姐様は僕をがっちり捕まえていて離してくれない。
ふと、犬を飼っている人ってこんな感じなのかなぁと思った。
しかし、現状は力関係からして、まるで僕の方が優雅お姐様の愛玩動物になったよう。
「優雅お姐様、ひどいです」
僕は恨めしそうな声をあげた。
すると、優雅お姐様は首筋から顔を離して囁いた。
「典ちゃんが悪いのよ。わっちが客席で名前を呼んだのに無視するから」
すねた口調で話す優雅お姐様。
予期していなかった話題を唐突に振られ驚いたが、すぐに誤解を解こうと思い直す。
「聞こえなかったんです。ごめんなさい」
すると、優雅お姐様はわざとらしくため息をついた。
「はぁ。昔はわっちだけのものだったのに。なんだか距離を感じんす……」
掴んでいた僕の手を離し、両手で頬を包み込んでくる。
「ゆうはおねえはま……」
上手に発音できなかった。
僕は首を振り優雅お姐様の手から逃れると、想いを伝えた。
「優雅お姐様、そんなことないです! 僕は優雅お姐様を心からお慕いしています! 今、僕がここにいるのは優雅お姐様のおかげで……」
最後まで言えなかった。
さきほど、僕は宮緒様に花町家から出ていくように言われてしまったんだった。
嫌味に聞こえただろうか?
そうだったら、謝らなきゃ。
優雅お姐様は、僕の芸者の修行に心を砕いて教えてくれた。
本当に、優雅お姐様がいたからここまで来れたのだから。
僕は不安に思って、優雅お姐様を恐る恐る上目遣いで見た。
「本当に?」
優雅お姐様は微笑んでいた。
良かった。
「はい。優雅お姐様に嘘はつかないです!」
「典ちゃん……」
優雅お姐様は感動して泣き出しそうな、くぐもった声で僕を呼んだ。
が、すぐにそれが明るい調子に変わる。
「じゃあ、わっちともっと仲を深めんしょう?」
「もちろんです! 僕も優雅お姐様ともっと仲良くなりたいです」
「典ちゃんにそう言ってもらえて嬉しい」
すると、優雅お姐様はまた僕を抱きしめた。
さきほどよりも熱のこもった抱擁だった。
優雅お姐様の巨大な胸がむにゅむにゅと形が変わる程の強さで、僕は背骨が痛かった。
僕はまた落ち着かない気分になったが、今度は仲良くしたいと言った手前、いやとは言えなかった。
もう僕には優雅お姐様しか頼れる人がいないのだから。
機嫌を損ねたら、僕に待っているのは暗闇だけだ。
僕が固まっていると、優雅お姐様にくすくす笑われる。
「体の力を抜いて、わっちに全て委ねなんし? 大丈夫、心配しないで。周りに誰もいなくなっても、わっちだけは典ちゃんの味方でありんすから、ふふ」
その言葉はとても心強かった。
優雅お姐様は僕の首筋の匂いを嗅ぐ以外にも、耳を舌先でチロチロと舐めたり、着物の上から体を撫でてきたが、僕はもう何も言わなかった。
ただ、優雅お姐様に身体を預けていた。
そうして、3日間、優雅お姐様の部屋で過ごした。
僕は優雅お姐様にたのしんでもらえることだけを考えて、求められるまま奉仕した。
しかし、4日目、着物は着ていたが絡み合っているところを宮緒様に見つかってしまった。
僕は散々問い詰められた末に、雨の中、花町家を追い出された。