旧家 二
それから、僕はのめり込むように芸者の修行に励んだ。
宮緒様に怒られたのは、僕が宮緒様の期待に応えられなかったからだ。
こっちを見てくれなかったのは、僕が宮緒様に迷惑をかけているからだ。
だから、早く優雅お姐様と同じくらい上手に踊れるように、弾けるように、会話できるようになろう。
そうなれば、宮緒様に褒めてもらえる。優しくしてもらえる。
そう信じて、稽古に没頭した。
結果、優雅お姐様が立ててくれた目標を上回る早さで技術は磨かれていった。
しかし、その過程で、僕は気づいてしまった。
自分の持てる全てを出し切っても、なお、優雅お姐様には勝てないかもしれないということに。
僕が一つのことを覚える間に、優雅お姐様は二つ覚えてしまう。
それも、僕はまだ基本的な技術だが、優雅お姐様は応用的な技術なのに。
僕と優雅お姐様は6歳離れていて、子どもと大人のようで、経験の差は大きいが、才能の差はもっと大きいように感じた。
僕が優雅お姐様と同じくらいの年齢になって、同じことができるとは思えなかった。
でも、だからといって、僕は永遠に優雅お姐様に追いつけないということを認めるわけにはいかない。
だって、認めてしまえば、それはつまり、僕には宮緒様に優しくされる資格がないということだから。
僕は折れそうになる心を諦めるなと叱咤した。
しかし、それとは別に、優雅お姐様に対して沸々と暗い感情が湧き上がってきた。
優雅お姐様のおかげで、今の僕がいるのに。
優雅お姐様はいつも優しくて、誰にも負けないくらい芯が強くて、僕の理想の人なのに。
いけないことと分かっているのに、どうしても自分を抑えられない。
優雅お姐様さえいなかったら、宮緒様は僕を見てくれたのに。
宮緒様のことで嫉妬はしていても、それ以上に優雅お姐様のことが大好きだから、口にはもちろん出さないが、考えを止めることだけはできなかった。
僕が悶々とした気持ちを抱えていると、優雅お姐様を通して宮緒様から次の課題を出された。
内容は、御職屋の常連客の御令嬢と信頼関係を築くこと。
言い換えれば、それだけ人付き合いが上手になりなさいという意味だと思った。
課題の難易度が上がったが、僕は嬉しかった。
宮緒様は、まだ僕をいらないとは考えていないんだと思ったから。
そうじゃなきゃ、チャンスなんて与えないよね。
今、僕は宮緒様にとって必要か試されているんだ。
だから、僕はお客様をもてなすことに全力を尽くそうと思った。
芸者の素養だけでなく、自分の価値を高めるために日々学んでいた料理や掃除、洗濯、裁縫などの家事や学問の知識、経験など総力を結集させる。
家庭教師の姫初先生に「全然駄目です」と叱られ涙目になる時もあったが、なんとか頑張ってきて良かったと思った。
ただ、やる気は十分にあるのだが、淀市少年の時のこともあって、実際に、しっかり応対できるか不安だった。
人に見られるのは相変わらず恥ずかしいし、声を聞かれるのもそう。
表情と所作には自信がなく、緊張し過ぎて自分でもよく分からないことを話し出すかもしれないし、頭が真っ白になるかもしれない。
あぁ、今から怖くなってきた……。
そして、僕は期待と不安がないまぜになった状態のまま、課題に臨んだ。
一人目は優しそうな雰囲気の子で、僕は安堵した。
軽食は僕が用意した。
テーマは話しのネタになるおいしいお菓子に決めて、八重ととレモンクッキーを選択。
八重は甘い和菓子飲料で、カラフルで、あられがぷかぷかと浮いている様はなにこれ?と聞きたくなる見た目をしている。
レモンクッキーは甘酸っぱくて、小さな山が雪化粧をしているようで可愛い。
お菓子を楽しみながらの会話は予想以上に弾んだ。
「食べ物は何が好きなんですか?」
「どういうところに住みたいですか?」
「その……、どんな人が好きですか?」
とは言っても、女の子が話して僕が答えることが多かった。
情けないけど。
二人目はフランクな女の子だった。
最初からストレートな質問を投げかけられ、対応が後手に回ってしまった。
「今まで何人くらいと会ったの?」
「気になった人とかいる?」
「わたしのことどう思う?」
「わたしはね……」
手や腕などのボディタッチが多く、くすぐったかったが、雰囲気を壊したくなくて、されるがまま応対した。
2人とも上手にもてなせたとは言えなかったが、それでもいい雰囲気ではあった。
これで、宮緒様に良い報告ができると思ったのだが……。
途中から、2人とも様子がおかしくなったのだ。
ちょうど、花町家を案内すると言って、優雅お姐様が女の子を引き連れて、お座敷を出て行った頃のことだ。
一人目の子は、「お持ち帰りしていいって聞いてたのに」と困惑した様子で戻ってきて、そのまま帰ってしまった。
二人目の子も、「調子に乗りました……」としょんぼりして、同じようにそのまま帰ってしまった。
案の定、宮緒様からは「その程度の関係しか構築できなかったの?」と不合格を言い渡された。
それから季節は廻り、宮緒様との距離を全然縮められないまま、僕は学齢期になった。
これからは学校に通わなければならない。
それは、宮緒様に勉強で優秀な成績を修めて認めてもらうチャンスでもあったが、僕の気分は重かった。
宮緒様と会える機会が減っちゃう方がいやだ。
宮緒様を見ることができるだけで僕は嬉しいのだ。
だから、学校には行きたくなかった。
勉強なら姫初先生に教えてもらえていたし、第一、課題で少しは人に慣れてきたとはいえ、知らない子達の中に入っていける勇気がなかった。
学校には優雅お姐様がいない。
高雅は僕より学年が2つ上で同じ学校の中にはいるが、高雅は高雅で友達がいると思うので、気軽に会いには行けない。
味方が誰もいないところに行くのは怖かった。
それでも、登校日に、宮緒様から「早く学校に行きなさい」と言われた時、僕はこれは避けられないことなんだと悟ると、びくびくしながらも学校へ行くことにした。
途中、スーツを着た知らない大人の人に声をかけられて車に乗せられそうになったが、間一髪のところで、優雅お姐様に助けられた。
それからは、優雅お姐様の計らいで、途中まで一緒に登校することになった。
学校では、勉強は躓かなかったが、扱われ方に戸惑った。
席や整列時の列、先生の呼び方、着替え、トイレ等で、僕は男子に別けられたのだ。
だから、後で、僕は先生に間違っていることを伝えに職員室へ行った。
宮緒様に女子と言われたので、僕は女子だと言った。
しかし、先生は僕を訝し気な目で見ると、「男で合ってる」と机の上の書類を見ながら言うのだった。
僕は混乱した。
それじゃあ、宮緒様が嘘をついていることになっちゃう。
そんなはずない。
宮緒様は聡明な方で、宮緒様の言うことは正しいんだ。
みんなの方が間違っている……はずなのに、先生や周りは僕が間違っていると言う。
だから、ほんの少しだけど、僕の中で、「本当に女子なのかなぁ?」と疑問が生まれてしまった。
宮緒様を疑うのはよくないことなのに。
でも、仮に、宮緒様の言葉が嘘だったとしても、それはきっと宮緒様の考えあってのことだと思った。
なので、どっちにしても、僕は従うだけだ。
僕はそう理由付けをすると、納得して自分を安心させた。
そうして、僕は学校に通うようになったのだが、本当に通うだけだった。
登校して、午前授業を受け、給食を食べて、午後からまた授業を受け、掃除して、帰る。
単調な毎日の繰り返しだった。
僕も一緒に遊びたい、みんなと同じように友達を作りたいと思っていたが、それは叶わなかった。
学校には宮緒様から渡された女の子もののトップスとスカートやワンピースを着て行ったのだが、それにより、変態だとからかわれた。
まだ言い返したりすれば違ったのかもしれないが、僕は縮こまるばかりで、さらに距離を遠くさせてしまった。
そんなことがあって僕がナイーブな感じになっていたら、ある時、高雅に声をかけられた。
僕が学校から帰ってきて、優雅お姐様との稽古が始まる前のことだった。
高雅は、茶髪茶目の背が高いモデル体型で、綺麗な容姿をしているが、口調や振る舞いは妙に男っぽい。
高雅は、優雅お姐様のように外から連れて来られたのだが、芸者になる気は全くないらしく、早々に修行をやめると、代わりになぜか武術を学び始めた。
それで、なんで、花町家を追い出されないのか不思議だが、僕が緊張しないで付き合える唯一の存在であることは確かだ。
僕は優雅お姐様の支度が終わるまで、手を後ろに組んで花壇の花をぼーっと見ていたら、向こうから高雅が来た。
高雅は花壇を回り込んで隣に来ると、快活な笑顔で、被っていた野球帽を僕の頭の上に乗せてきた。
「典、元気か!?」
僕はその声がけに口元を緩ませると、静かに答えた。
「うん、花のいい香りを嗅いだら元気が出たよ」
白のジャスミンの花の匂いは、ほんわかした気持ちになる。
「じゃあ、さっきまで元気じゃなかったんだな」
「ふふふ、そうだね」
僕は曖昧に笑った。
すると、高雅はイラッとした顔をして、なぜか勢いよくわき腹を突いてきた。
「男が口に手を当てて、ふふふーとか笑ってんじゃねーよ!」
「はぐっ!」
僕はよろめいた。
結構痛かった。うう……。
僕は恨めし気な目で高雅を見た。
「典は男だぞ!? 男なんだぞ!? ほら、言ってみろ! お・と・こ!」
高雅は僕の肩を掴むとガクガク揺さぶった。
高雅は会った時から、僕が女子らしい振る舞いをすることを死ぬほどいやがっているのだ。
僕は学校でのことが頭をよぎり、痛かったお返しをしようと決めた。
「こうが、らめぇー! そんな風に乱暴しちゃらめなのぉー!」
あらん限りの猫なで声を聞かせた。
他の人の前では出せないような声も、高雅の前でなら恥ずかしくなかった。
「おい、その言い方やめろ! ぞわっとするからやめろ!」
高雅が必死で何か言っているような気がしたが、きっと気のせいだ。
「壊れちゃうのおおおおおおー!」
「うるせええええええ!」
高雅は呆れたように溜め息をついた。
「男のくせに甘い声出してんじゃねーよ」
「高雅こそ、女子なのに荒っぽいことはしちゃいけないんだよ?」
「うるせーよ! オレはいいんだよ! お前はだめだがな!」
「なにそれー」
じとっとした目で見ると、高雅は僕が被っている帽子のつばを下げた。
僕は前が見えなくなったのでつばを上げようとしたら、その間に、高雅にがしっと手を掴まれた。
「ちょっと話があるんだけど、いいよな?」
なんだろうと思ったが、僕は首を振った。
「ごめん。これから優雅お姐様との日舞の稽古があるから、また今度……」
「よし、いいな! じゃあ行くぞ!」
「え? ちょ、ちょっと、待って!? これから……!」
僕が言い終わる前に、高雅は僕の手をぐいぐい引っ張った。
高雅、力が強い!
僕はなすすべもなくずるずると引きずられて行った。
「待って! 高雅、本当に待って!?」
「やだよ! とりあえず稽古うんぬんは置いておけ!」
「そんなぁー!」
ちょっとした林を抜けて高雅に連れてこられたのは、古いモミの木の下だった。
その古木からは威厳と深い慈しみを感じ、そこにいるだけで落ち着くので、僕のお気に入りの場所だった。
それに、ここは屋敷から遠くて人がほとんど来ない。
「芸者の修行、やめる気はないか?」
高雅はさきほどとは打って変わって、真面目な表情をした。
「え?」
僕がきょとんとすると、高雅は木が風で揺れる様子を見ながら言う。
「典が好きでやってることだからと思っていたが、気が変わった」
「どういうこと?」
「お前、自分を追い込み過ぎじゃないか? いつか倒れるぞ?」
「心配してくれてたんだね。ありがとう。でも、大丈夫だよ」
なんだ。そういうこと。
高雅の心遣いが嬉しくて、僕は微笑んだ。
「ちょこちょこ休んでるし、それに、少しぐらい無理ぐらいしないと優雅お姐様に一生追いつけないからね」
僕がそう言うと、高雅は神妙な顔をした。
「芸者を目指す過程で、座敷に上がるための試験があるらしい。時期は分からないが、典もいつかはそれを受けることになる」
「そうなんだ。高雅、詳しいね」
「別に、屋形のやつに聞けば分かることだ。ただ、問題は……」
高雅は一呼吸おいて、
「それに落ちたら破門だと。ようするに、ここにいられなくなるんだ」
地面を指さした。
「そうなんだ……。じゃあ、もっと頑張らなきゃね!」
僕がぐっと手を握ると、高雅は言いづらそうに目を伏せた。
「それが、オレが思うに、たぶん、宮緒さんは典を合格させるつもりないぞ」
「な!? なんで!?」
「それは、宮緒さんはお前のことが……」
「ことが?」
僕は語尾を繰り返して、続きを促す。
「とにかく、やめる気はないか!?」
だが、高雅は言葉を濁した。
「そんな、そんなこと急に言われても、考えたことないし……」
困るよぉ。
「答えを出すのは、今じゃなくていい。じっくり考えた後でいいんだ」
僕は伏し目がちに高雅の顔を見る。
「もし、もしだけどさ、やめたら、僕はどうすればいいのかな?」
すると、高雅は僕の頭に手をやって、自分の方に寄せた。
「その時は、オレがお前の面倒を見てやるよ!」
「…………え?」
僕はびっくりして、目を大きく開けた。
「オレがお前を男にしてやる! ……って、そういう意味じゃなくて!? ちがくて、あれだ! 野球したり、秘密基地を作ったり、虫取りしたりだとかするんだ! ようするに、典が本物の男になるための修行だな!」
「それ、高雅がただ単に遊び相手が欲しいだけじゃなくて?」
楽しそうだけどね。
「まあ、それもなくはないが。一番は友達作りのためだ。典、友達欲しいだろ?」
「高雅、知ってたの?」
「お前の学校での顔を見たら分かるよ。オレが来た時、なんで逃げたのかもな」
思わぬところに着地した!
今日、外で、囲まれてからかわれていたところを高雅に見られてしまったのだ。
「それは授業に遅れると思って…」
「お前、オレに迷惑かけるとか思ってんだったら、余計な心配だからな」
「そんなこと思ってないよ。高雅、強いし」
「ならいいよ。まあ、どっちにしろ、典をいじめたやつらの顔は覚えたから、明日、ぼっこぼこにしてやるが」
「ぼっこぼこはだめだよ! 今度は高雅が何か言われるようになるかもしれないし、先生に怒られちゃうだろうし、それに! 高雅こそ、女の子なんだから、危ないことはしちゃいけないよ!」
「ああ、典が男らしくなったら、大人しくするよ。そんなことより、やっぱり迷惑かけると思ってんじゃねーか! あほらし。オレが小学生ごときでどうにかなるかよ」
「いや、高雅も小学生じゃん!」
「なぁ、典て、なんで芸者になりたいんだっけ?」
「うん? それはまぁ、その、宮緒様に僕を見てもらえるように」
高雅には前に、独り言を聞かれてしまって知られているが、再度口に出すのは恥ずかしかった。
「その、あれだ。オレじゃだめか?」
「え?」
「オレには甘えたりとかできないか?」
「それはぎゅっとしてもいいってこと?」
「典がしたいなら、いいよ」
「本当に! じゃあ、手をつなぐのは!?」
「まあ、それもいいが、でも、あまり人がいないとこでだなあ」
「やったー! じゃあ、一緒にお風呂入るのは!? 一緒に寝るのは!? 一緒に……」
「ななな、何を言って!? それはだめだ!」
「だめなんだ……」
しゅんとした。
「いや、ちょっとま、待て! 別に、いやとかじゃないんだが、ほら! 温泉とかでも、男女では一緒に入らないだろ!?」
「ふふふ。僕、女子だから」
「あほか! お前は男だ!」
「じゃあ、高雅は男子だよね?」
「ふざけんな! オレは女だ!」
「そんにゃあ!? じゃあ、本当にだめなの?」
「にゃあとか言うな!」
僕は嬉しくて、涙が出てきた。
「泣くなよ! ったく、典は泣き虫だなあ」
高雅は苦笑すると、僕に近づいてそっと抱きしめた。
「ほら、ぎゅっとしてやる」
高雅の体は柔らかく、意外と甘い香りがする。
その後、僕は「そろそろいいだろ」とぶっきらぼうに言う高雅に
「やだぁ。高雅、もっと」
と、いつまでもくっついていた。