幼少期 一
「柳の御職」といえば、花柳界隈で知らぬ者はないほどの美貌の芸者であった。
その優れた才覚を発揮した日本舞踊は評判が良く、時事問題から日本文化まで通じる教養の深さも相まって、柳町の花街で人気No.1、予約は一ヶ月待ちが常だったといわれる。
御職は、元禄年間に創業し伝統を受け継ぎつつ時代の潮流に乗り今代まで続いてきた置屋――富枝の女将が遺した娘だ。
年頃になると、すでに在籍していたお歴々を凌いでお座敷に呼ばれ、富枝の顔になるほどの活躍ぶりだったが、出産を契機に廃業し、現在は女将として芸者の育成を図っている立派な方である。
ただ惜しむらくはその方こそが、僕の母であったことだ。
物心付いた頃、そばに母――宮緒はいなかった。
だから僕は家庭教師の姫初先生の授業が終わるといつも家中を探し回った。
あの頃、一人がどうしても耐えられなかったのだ。
宮緒は女将として富枝を取り仕切っており、置屋――芸者・芸者見習いの事務所兼下宿所――に暮らす女子たちの一切の面倒を見ていた。
それに関して子供ながらに僕が入る余地はないと知っていたので、見つけても邪魔にならないよう遠くから眺めるだけだった。
見えていればある程度不安な気持ちは収まってくれたから良かった。
富枝の少女たちの中でも、宮緒は優雅と最も長い時間を過ごした。
優雅が宮緒のお気に入りであることは富枝の関係者であれば周知の事実であり、僕も宮緒を目で追っていてその仲睦まじげな様子を何度も見た。
優雅は宮緒に見出され花町家に養女として迎え入れられた後、早くから頭角を現した才女である。
芸事は家元から指導を受けるのが通例であるが、その稀有な才能をどのように染めるかで当時宮緒と先生との間で一悶着あったほどだ。
最終的には宮緒が奥の手「わたくしの子ですよ」と親の意向を持ち出して、芸の能力形成に関わる許可を得た。
また、自身も特別稽古と銘打って優雅に英才教育を施した。
宮緒はどれほど多忙でも、優雅のためならば時間を割くことを惜しまなかった。
それほど大切にしていた。
そういう経緯もあって、当時の僕にはっきりとした自覚はなかったが、今考えると実質宮緒の愛情を受けるにはどうすれば良いかという目で優雅を見ていたように思う。
僕がまだ宮緒様、優雅様と呼んでいたうんと小さい頃のことである。
その日、優雅様から「昼時になったら食事を用意してほしいの」とお願いされた。
宮緒様も召し上がると聞き、僕ははりきって朝のうちから支度を始めることにした。
いつものように置屋の床を舐められるほど掃除した後、僕は裏庭にタラの芽を摘みにいこうと考えた。
タラの芽の天ぷらは仄かな苦みともっちりした食感が美味しく、宮緒様の大好物なのだ。
僕は長靴を履いて膝丈まである雑草を踏み分けながら、タラの木が群生しているポイントまでえっちらおっちら進んだ。
タラの木は見上げるほど高く、鋭い棘で覆われている。
採るのは新芽だ。
僕はおおよそ見当をつけると、棘に気を付けながら摘んだ。
といっても手に当たる時は当たり、棘は容易く軍手を貫通し、僕は痛みで何度か悲鳴を上げてしまった。
手が届かない上の方は幹を折らない程度に曲げて剪定ばさみを使った。
三脚に上がりバランスを保ちながらの作業は怖くて時折体がすくんだが、それでもタラの芽を小さな山菜籠いっぱいに入れ終わると、目の前の成果に自然と顔がほころんだ。
宮緒様の喜ぶ顔を想像すると、もう笑みを抑えられなかった。
僕は軽やかな足取りで台所に向かった。
置屋の表に回ったところで、賑やかな声が聞こえてくる。
僕はとっさに花壇の囲いのところに身を屈めた。
小蝶さんたちが井戸端会議でもしているのかな。
そう思って縁側の方を覗くと、数人の少女らに囲まれて予期せぬ方がいた。
優雅様だ。
烏の濡羽色のような艶やかな黒髪をまとめ、華やかな着物の袖から細く伸びた手は雪を散らしたように白く、ボリュームがある胸元は襟が今にもはだけそうだった。
着物は動けば着崩れするものだから、すでに舞の稽古をしてきたと思われる。
昨日も夜遅くまで仕事だったのに、精が出ると感心する以上に僕は尊敬の念を覚えた。
いよいよお喋りに花が咲く。
特に小蝶さんが熱弁をふるっていた。
「優雅さん姉さんはかの有名な女神、木花咲耶姫のようにお美しく、優雅さん姉さんの舞は天鈿女命のようにお上手で、私も姉さんのようになりたいです。私を姉さんの妹にしてください。何でもします!」
彼女ら――仕込みさんは動きやすい服装をして、炊事、掃除、洗濯、お姉様方のお手伝いを日々こなしながら、行儀作法、花街言葉、着物の着付けを学ぶ身分であり、綺麗な着物を着てお座敷に上がる優雅様は羨望の的であるのだ。
優雅様はそれに対して目を細くして穏やかな笑顔で応えていた。
「あなたたち、ずいぶん余裕があるのね。きっと仕事は全て終わらせたのでしょう?」
突然遠くから冷ややかな声が聞こえた。
声がした方を見れば、薄い表情をした宮緒様が石畳を歩いてこちらに向かってきていた。
プラチナブロンドの髪をまとめ、落ち着いた色合いの着物を召しており、その存在感で自然と背筋が伸びる。
小蝶さんたちもそうだったのか宮緒様に「すみません! お母さん」と畏まって謝り、優雅様にお辞儀をして慌ただしく持ち場に去っていった。
「優雅ちゃんも律儀に相手をしなくてもいいのよ。あなたの時間が勿体ないだけだわ」
その場に2人だけになると宮緒様は言った。
「はい、分かっております。よろしゅうおたの申します、お母さん」
優雅様が答え、2人はお座敷の中に消えていった。
こっちを見ないかなと少し期待したが、宮緒様の目は最後まで優雅様を見つめていた。
もう何回目か分からないが、僕は時刻を確認した。
会食の時間までもう少し。
食事の用意は大方済んでおり、炊飯器に玄米ご飯、2つの鍋にはわかめのおつゆとカボチャの煮物が煮えている。
人に御馳走するのは初めてではないが今日は宮緒様に食べていただけるということで、緊張して包丁で指を切ってしまったり、砂糖と塩を間違えたりしたが何とかここまでできた。
あとは天ぷらだけだ。
出来立ての美味しいものをご馳走したいので、宮緒様と優雅様が食卓に着いた時点で天ぷらを揚げ終わるのが理想的なのだが、もういいのかなぁ。
何時頃に来るだろうか。
一応予定では12時だが、お姉様方は忙しくいつも食べられる時に食べているようなので、都合によっては遅れるかもしれない。
うーん………………。
でも、約束は約束だよね。
よし、もう始めよう!
食材は多めに採ってきたし。
余ったら高雅にでもあげたらいいし。
僕は料理を器に盛り付け始めた。
宮緒様と優雅様が来たのはそれからしばらくして食膳が冷めてしまった後だった。
僕は台所の暖簾をくぐり茶の間にて、お二方を出迎える。
そして温めなおしてから間もなく僕は卓袱台に2人分の食事とタオルを置いた。
「お待たせしました」
「うわぁ、美味しそう!」
優雅様の嬉しそうな声に僕も嬉しくなる。
「熱いうちにお召し上がりください」
次いで僕は宮緒様の顔色を窺った。
何かお言葉を頂きたいなぁ。
ご苦労様とか、よくできましたとか。
「あなたはもう行っていいわ」
しかし、宮緒様は素っ気なかった。
「え、あの……」
僕は一瞬口ごもったが、まだ宮緒様と一緒にいたいという気持ちも手伝って
「あ! 僕、お飲み物お注ぎします」
と急須に手を伸ばそうとした。
だが、再度「行っていいわ」との言葉に、今度は「分かりました」と答えた。
後ろに控えて、あわよくば宮緒様の感想を聞く作戦も不発だった。
僕はしゅんとして台所に戻ろうとすると、優雅様が口を開いた。
「お母さん、お話なのですが、典ちゃんも一緒でいいですか?」
「それで話というのはなに?」
優雅様の一声で、僕はこの場にいることが許された。
僕は急須にほうじ茶の茶葉を入れ、ポットのお湯を注ぐ。
そして少しの間待って抽出した後、2つの湯飲みに何回かに分けて注ぐ。
その間、宮緒様と優雅様はお喋りに花を咲かせていた。
「お母さん、今日は何の日か分かりますか?」
「さて何の日だったかしら?」
宮緒様は思案顔で言った。
「優雅ちゃんとの記念日であれば全部覚えているのだけれど」
「そんな、嬉しいです。覚えていただけているんですね?」
「当たり前よ。それらは何よりも優先されるハレの日ですもの。念入りに準備をしなくちゃ」
宮緒様が優しい顔をする。
いいなぁ。
僕の誕生日なんてあってないようなものなのに。
「ねぇ、優雅ちゃん何か欲しいものはある? 優雅ちゃんの慎ましやかなところは美徳だけれど、たまには甘えていいのよ」
「お母さんはやっぱり鋭いですね」
優雅様は感嘆の声を上げる。
「私が言う前に気づかれてしまいました」
すると優雅様は改めて姿勢を正すと「今日は4月4日。幸せの日です」と言った。
「この幸せの日に典ちゃんを私の妹にすることを許してください」
宮緒様は彫像のように固まった。
僕も頭が真っ白になった。
それからは場の空気が一変した。
宮緒様は「優雅ちゃん、急にどうしたの? 何か悪いものでも食べたの?」と言うと刺すような視線が僕に向けられた。
僕は高速で首を横に振ったが信じてもらえたかはまた別のこと。
ほどなくして「気分が悪くなりました」と宮緒様が退席して会は打ち切られた。
僕は自分が出したことがないくらいの声を出した。
「優雅様、何であんなことを言ったんですか!? 宮緒様がどんな気持ちになるか優雅様なら知っているはずです!」
本来なら僕が目上の人に意見するなんておこがましいと考えるのだが、この時ばかりは違った。
「優雅様、なんで……!?」
すると、優雅様はおもむろに唇に人差し指を当てた。
「ひみつ」
楽しそうに笑う目の前の方。
予想外の反応に僕はぽかんとした。
何か言おうと頭を巡らせるが次の言葉が出てこない。
そうこうしているうちに手を取られた。
「指ケガしてる」
「え?」
優雅様につられて右手の人差し指を見ると血が出ていた。
包丁に添えた時かな。
左手の親指を切ったのは分かっていたけれど、他もやっていたとは。
見ていたら痛くなってきた。
というか恥ずかしい。
僕は後ろに隠そうとしたが、優雅様が離してくれなかった。
「これくらい大丈夫ですから」
「だめ」
「いえ。本当に……」
「私に手当てされるのはいや?」
「とんでもないことです」
優雅様のお手を煩わせるのはいけないことだが、厚意は素直に受け取るべきだ。
僕はそれから静かにじっとしていた。
そして、指に絆創膏が巻かれると「優雅様、ありがとうございます」と言った。
「優雅様?」
「今典ちゃんの手をいたわってあげているの」
手当てが終わっても優雅様は僕の手をさすっていた。
その温かい手は心地よいが、同時に恥ずかしくなった。
「ゆ、ゆうがさま……、お料理どうしましょう」
もういいですとは言えず、僕は話題を変えることでこの場を逃れようとした。
宮緒様は料理に手をつけずそのまま帰られたようだ。
僕が配膳した時のまま変わっていない。
ぼーっと宮緒様が座っていたところを見つめていると、優雅様に声をかけられた。
「典ちゃん、一緒に食べよう」
優雅様が座布団に座るよう勧める。
僕は稍あって「申し訳ありません」と断った。
「僕は遠慮させていただきますが、せっかくですので優雅様は召し上がってください」
そして余った食膳を下げようとした。
「お母さんの分は代わりに典ちゃんが食べていいんだよ」
「これは宮緒様のために作ったものなので!」
思ったより、少し大きな声を出してしまった。
気に障られたかな。
でも、食べる気が起きないのは本当だ。
僕は無言で食膳を台所に運んでいく。
「捨てちゃうの?」
優雅様がぽつりと言った。
僕は返答に詰まり、体を揺らした。
「なら、私が食べる」
僕は耳を疑った。
「食べるから持ってきて」
優雅様が卓袱台を指さす。
凛とした声に思わず従いそうになったが、「それはできません!」と慌てて言った。
「どうして?」
「お体に触ります」
二善食べるなんて午後の稽古に差し障りがあるし、内臓に負担がかかるし、何より宮緒様に怒られてしまう。
「うるさい」
僕はまた耳を疑った。
優雅様がそんな言葉を言うなんて信じられなかったから。
「持ってきなさい」
僕は引き返して優雅様のもとへ持っていった。
優雅様の雰囲気がそれ以外の行動を封じた。
「いただきます」の声の後、しばし沈黙が流れた。
優雅様は食事に集中しているようだったが、段々と箸が進むスピードが遅くなる。
僕は堪えきれず「優雅様」と言った。
「お相伴にあずかってもいいですか?」
優雅様は体をこちらに向けて手招きをされた。
そういえば、誰かと一緒に食事をするって初めてだ。
隣に優雅様が座っている。
緊張感はありつつもすぐ近くに人がいるということにほっとする。
そして、僕と同じで優雅様も好きなものは最後に食べるタイプだということが分かった。
僕が海老を残していると優雅様が言った。
「典ちゃん、海老好き?」
僕が頷くと優雅様は「私も」と笑い、最後に一緒にその好物を食べた。
しだいに僕は自分の気が緩んできたのを感じた。
「優雅様はひどいです」
僕は恨めしそうに優雅様を見た。
「宮緒様にさらに嫌われました」
優雅様が僕の膨らませた頬を撫でる。
「そんな顔をしないでよー。謝るから。ごめんね」
「僕じゃなくて宮緒様に言ってください」
「うん、あとで言うから」
ふいに優雅様は真剣な顔になる。
「でも妹になってほしいのは本気」
その真っすぐな瞳に僕は視線を彷徨わせる。
そんなことを言われても困ります。宮緒様が……。
黙っていると俄かに頭を撫でられた。
「こんなに美味しいお料理が作れるんだから」
優しい手付きにぶるっと体が震えた。
「美味しかったですか?」
「味もだけれど、一番はここ」
優雅様が僕の懐をポンポンとたたく。
「優雅様、くすぐったいです」
「典ちゃんが必要なの。私の妹になって?」
僕は優雅様の目がこっちに向いていることを改めて意識した。
こんなに誰かに見つめられたことってあったかな…………。
そしてさきほど優雅様に触れられたところを意識した。
今もその部分に温かい感触が残っていた。
優雅様は宮緒様を独り占めにするからいい気持ちを持っていなかったのに。
視界が滲んでいく。
「こんなに優しくされたら断れません……」
僕は手の甲で目元を拭うと静かに三つ指を突いた。
「不束者ですがよろしくお願いします」
目を上げた時、優雅様はにこにこ笑っていた。
「おいで?」
そうして僕の芸者見習いとしての修行が始まった……かにみえたが、早々に大きな壁が立ちはだかっていた。
午前7時に起床し、朝食を作って食べ、6畳ほどの自分の部屋の掃除をする。
この時点で新しい生活リズムだからというだけではなくある不安に駆られていたが、それはお座敷での講義中に現実のものとなった。
優雅様からまず最初に見習いの心構えについて教えられていた時、襖がすっと開いた。
「失礼します」
「あ、お母さん。おはようございます」
入ってきたのは宮緒様だった。
「宮緒様、おはようございます」
僕も優雅様に続けてなるべく控えめに言うが、「おはよう、優雅ちゃん」とだけ返す宮緒様。
宮緒様の意にそぐわないことをしているのだから仕方ないと心の中では思ってもやはり落ち込む。
やっぱり安請け合いするんじゃなかったかな。
僕が肩を落とすと、突如くすくすと笑い声が聞こえてきた。
「え」と一瞬戸惑いおそるおそる声がした方を見れば、宮緒様の後ろから華やかな着物姿の女子が現れた。
「この度、小蝶が半玉として店出しすることになりました。ですから、優雅ちゃん。あなたが引いてあげなさい」
「優雅さん姉さん、よろしゅうおたの申します」
宮緒様に続いて、小蝶さんは正座して口上を述べると深々と礼をした。
半玉とは芸者見習いのことであり、店出しとはそのデビューのことであり、引いてあげるとは義姉妹になることを指すが、当時は何を言っているのか分からなかった。
僕は状況を理解しようと優雅様の様子を窺った。
「お母さん。お言葉ですが、私は典ちゃんを妹にすることに決めました」
「典ちゃん? それはどこのどなたのことかしら?」
宮緒様は考える素振りを見せてから、首を振った。
「でも残念。それは優雅ちゃんでも無理だわ。だって、決めるのは女将である私だもの」
「典ちゃんがしたことの責任は私が持つつもりです」
「固めの盃事もしていないでしょう?」
「………………していませんが」
「優雅ちゃん、聞き分けなさいな」
宮緒様が諭すように言う。
「優雅ちゃん……」
すると優雅様は少し間を置いてから「分かりました」と言った。
「認めていただけないことは分かっていました。お母さんには育てていただいた恩があります。それに芸者としてしきたりを破ることもあってはならないことです」
優雅様は神妙な面持ちで胸に手を当てた。
僕はここまで優雅様の一言一句に宮緒様がどう反応するかびくびくしながら聞いていた。
宮緒様が怒らないようにと祈りながら。
だが、その心配ももうないようだ。
優雅様は本意ではないかもしれないけど、結果的に良かっ…………。
「ですが、無理を承知でお願いします!」
優雅様は堂々と言った。
まだ諦めていなかったのだ。
「お母さん、典ちゃんを妹にすることをご検討していただけませんか?」
優雅様が訴えてから間もなく、宮緒様は額に手を当てて溜め息を吐いた。
「優雅ちゃんが私に意見するなんて……」
悲哀に満ちた声だった。
が、次の瞬間「その典ちゃんとやらはさぞ優秀なのでしょうね?」とギロッと目を細める。
震える思いがした。
優雅様がゆっくり頷くと、宮緒様は口元を歪ませた。
「では今から花を生けてもらいます。小蝶より美しければ認めてあげることもやぶさかではないわ」
「ちょ、お母さんちょっと待ってください!」
優雅様が珍しく口ごもる。
「典ちゃんは半玉としてまだ勉強を始めたばかりで……」
「勝負にならないと? あら、それくらいの器量を持っていると理解したのだけれど。仮にもあなたが見染めたのでしょう」
「伸び代がある子なのは確かですが」
宮緒様が目線を上に向けた。
「そういえば、あなたは昔から何でもできる子だったわ」
「そんなことないです!」
優雅様が否定したがその後沈黙が流れる。
優雅様も迷っているのだろうが仕様がない。
だって僕にはそのような芸当はできないから。
「どうするの?」
宮緒様の問いかけに優雅様は僕の方をちらっと見る。
なんだろうと頭にはてなを浮かべる僕に対して優雅様は口元を手で隠してくすっと笑った。
意図を計りかねていると優雅様は三つ指をついた。
「どうぞよろしゅう、おたの申します」
え!?
僕は何を言っているのかわからず優雅様を見て固まったが、宮緒様はもうすでにお座敷の外で控えていたと思われる仕込みさんを呼んでいた。
「取り合わせは今の季節、らっぱ水仙、ヒアシンス、ダバリアファンでいいわね。時間は5分。手短に済ませましょう」
間もなく仕込みさんが花材と花器を二人分持ってきた。
そしてお座敷の両壁際にあるそれぞれの長机に置く。
が、僕はその間ずっと優雅様の方を向いていた。
できません。無理です!
必死に視線で合図を送る。
すると優雅様から声は出さずに口を動かして返事がきた。
解読すると『思い出して』?
それで僕はふっと最初に教えられたことを思い出した。
「厳しいことを言うのは典ちゃんのためなんだよ。だから感謝の気持ちは忘れないでね」
反芻していると声をかけられた。
「ぼさっとしてないで早く座ってくれない? どんくさいんだから」
小蝶さんが僕の横をすたすた通り過ぎて所定の場所に着席する。
それを見て僕は一度深呼吸をしてから「おおきに」と言った。
といっても言ったというより唱えた。
初めて使う言葉で感覚がまだよく理解できず優雅様を真似ただけである。
小蝶さんが怪訝そうな声を出したが、それより僕は優雅様の方を見た。
優雅様は微笑んでいた。
だから僕は間違っていなかったと一先ず安心して反対側の木製の椅子に座った。
水盤を正面に置き、新聞紙から3種の花を取り出すと宮緒様から「はじめなさい」と指示が出る。
緊張で心臓がバクバクするが僕はもうどうにでもなれと半ば投げやりに覚悟を決めて目の前の花をどうするかだけ考えた。
5分は早い。
あっという間に終了の合図が告げられる。
「退きなさい」
宮緒様に促され、席を立つ。
僕は目に手を当てた。
足元が揺らぐような感覚に陥る。
………………。
「もう少し全体的に前に傾斜させて。あと調和を考えなさい。らっぱ水仙は一度葉を取ってから花に添えるように。ヒアシンスはもう少し高低差をつけて。ダバリアファンは水盤を隠すように。分かった?」
僕は驚いて宮緒様を見た。
優しい声ではなかったけれど、いつもの冷淡な声音でもなかったから。
「分かったの?」
「は、はい! 分かりました!」
その後、僕は宮緒様がお座敷を出ていくまでぽーっとなってその行方を見ていた。
小蝶さんの生け花への評価が散々で、腹いせに僕に当たりに来ても負けなかった。
トンツー。トン。トンツー……。
「できました!」
筆を置き、優雅様を呼ぶ。
「難しい字を選んだよね。でも、上手に書けているよ」
「ありがとうございます」
今僕は優雅様から習字を教えられていた。
お題はなく、最初だから好きな言葉を書こうと言われたので、
僕は四字熟語辞典
一言報恩
どうしてこれを選んだの
「僕が今ここにいるのは優雅様のおかげですから」
「典ちゃんらしいね」
勝負の結果、期限付きで 許された。
期限つきとは
そうは言っても、すごいこと
自爆の割合が大きい
それに宮緒様と会話
これから一緒に頑張ろうね
それにしても、
宮緒様がよく生けていましたから
なんか嫉妬
優雅様が嫉妬するのですか
私を何だと思って
そうだこれから優雅様って呼ぶのやめよう
え、おきにさわり
もっとふさわしいことばがあると思うの
お師匠様?
そうして、僕の芸者見習いとしての修行が始まった。
その後、稽古場へ向かい、「わっちにまかせなんし」と先生役を買って出てくれた優雅お姐様の指導の下、芸事の基本である日本舞踊の他、三味線、唄、お囃子を学ぶ。
昼食を挟んで、午後からは茶道、習字を習う。
4時頃になると、優雅お姐様はお座敷の支度があるので、それからは一人で着付けの練習をする。
着物は、優雅お姐様から薄いピンク色のバラと緑色のアイビーの葉をあしらったものをいただいた。
優雅お姐様自身が宮緒様から稽古をつけもらっているので、自分の休憩時間を使って、僕の教育に充ててくれた。
なので、優雅お姐様には頭が上がらない。
僕は感謝の意を示すために、優雅お姐様の言うことは何でも聞いた。
芸事以外では、日々の生活の中で、花町の芸者としての知識や立ち居振る舞い、言葉遣い、それに花町家特有の決まり事をしっかり守って生活することを教えられた。
具体的には、恋愛禁止や人前での携帯電話等の禁止、他者のプライバシーの尊重、ホスピタリティ―思いやりの精神を持つことだ。
また、客の個人情報に関してはもちろん、花町家の秘密として修行の内容は漏らさないと固く誓った。
毎日がハードであったが、目標である優雅お姐様に近づいて、宮緒様に褒めてもらうまでは頑張ろうと決めていた。
そんなある日のこと、優雅お姐様を通して宮緒様から課題を与えられた。
内容は、明日、御職屋の常連客の御子息の遊び相手をすること。
突然のことでびっくりしたが、同時に、宮緒様の関心を引くことができて嬉しいとも思った。
やっぱり芸者になろうと思って良かった。
僕は課題を達成する前から達成した後のことを妄想して、はしゃいでいた。
だが、僕は甘かった。
優雅お姐様に「典ちゃんなら大丈夫」と優しい言葉をかけられてすっかり舞い上がっていた僕は、自分がよく見えていなかった。
なんせ、それまで花町家から一歩も外に出たことがなかったのだ。
人に慣れていない僕がお客様のお世話をするなんて無理なのに。
それに、花町家では宮緒様や優雅お姐様、高雅、家庭教師の姫初先生ら女性、女子に囲まれて生活していたので、自分が女の子の服を着ていることに疑問を抱くことはなかった。
特に、宮緒様の古くからの友人である姫初先生から「宮緒の子どもの頃にそっくりですね」と言われていたので、自分のことを女子だと思っていたのだが……。
花町家には、花屋敷と呼ばれる伝統的な日本家屋がある。
その由縁は名前の通り、多種多様な花々が屋敷の周りに咲いているからだ。
屋敷の中はお座敷になっていて、そこが宴席などの際に客を迎え入れるところであり、今回、常連客とその御子息を応対する場所として設定された。
襖で仕切られた畳の上に年季の入った掛け軸と松の木が描かれている屏風が置かれ、厳かな雰囲気を漂わせる。
真ん中にはちゃぶ台があり、その両側に、僕と優雅お姐様、恰幅の良い中年男性とその子供が相対して座ることになった。
男性は高級感のあるスーツに身を包み、簡単な挨拶の後、優雅お姐様が受け取った名刺からは、淀市という苗字と社長という文字がちらっと見えた。
宮緒様の知り合いなので偉い人ということは想像していたが、実際に会うとその存在感の大きさに驚いた。
子どもの方は僕と同い年ぐらいの整った顔立ちの少年で、黒のジャケットとズボン、インナーに赤のシャツを着ている。
活発そうな印象を受けたが、そのわりに大きな目がずっとこちらを見ているのが気になる。
僕はといえば、昨日の楽観的な考えはもうどこにもなかった。
知らない誰かが自分を見ているという状況にとても緊張して、斜め前に正座して座っている優雅お姐様の着物の袖をぎゅっと握って震えていた。
「典ちゃん、ほら前に出なんし?」
優雅お姐様がおっとりした口調で言う。
いつもは優雅お姐様の言いつけに素直に従うのだが、今はそれができない。
僕は優雅お姐様を上目遣いで見ると、消え入りそうな声で訴えた。
「だって、恥ずかしいよぉ……」
それに、何だかこの場で自分だけ浮いているような気がして、居心地が悪い。
耐え切れず、少しでも自分の姿を隠すために優雅お姐様の後ろに引っ込んだ。
すると、それを見ていた淀市様に大きな声で笑われた。
「あっはっはっ! 奥ゆかしい子ですなあ! うちの倅とは大違いですわ。もうやんちゃ過ぎて困る。見習ってほしいもんです」
「申し訳ありません」
僕は優雅お姐様の肩から目だけを出して謝った。
淀市様は顎に手を当てると、話し始める。
「それにしても、本当に可愛い子ですなあ。これは将来、絶世の美女になりますよ! 職業柄、色々な人とご縁がありましてね、その中に女優やモデルの卵もいましたが負けてませんよ! いや、むしろ頭一つ抜けてるかも……。あ! 今、私が言ったことはくれぐれも内緒にしてくださいよ! 怒られるだけじゃ済まなくなるかもしれませんから! あっはっはっ!」
淀市様は固くなっている僕を和ませようとしたのか褒めてくれた。
でも、逆に僕は困ってしまった。
そんな! そんなこと言わないでください!
返し方が分からないよぉ。
僕は返事に窮し、おたおたした。
その間に、優雅お姐様が話を合わせるように口を開く。
「これからもわっちが丹精込めて育てるので、その通りになりんす。ふふ」
優雅お姐様まで何を言って……!?
僕は慌てて優雅お姐様の肩を指でたたき、「だめ! だめぇ!」とシグナルを送った。
すると、急に優雅お姐様の手が僕の腰に伸びてきて、そのまま膝の上に乗せられた。
座布団に座るより、こっちの方がもっと恥ずかしい。
だが、優雅お姐様に捕まえられたので、それからはお客様の前だからとひたすら自分に言い聞かせ、時が過ぎるのをじっとして待っていた。
緑茶と春の上生菓子を楽しみながら話すこと30分。
優雅お姐様が相槌や表情、仕草などで共感を示し、淀市様は気持ちよく身の上話をしていた。
主な話題は西日本で商売をやっていること、子どもの普段の生活、子どもの勉強や特技のアピール、子どもの将来性についてだ。
自慢の子どもなんだなぁと淀市少年を羨ましく思っていたら、突然こっちに話しを振られた。
「どうです? うちの倅の嫁に来ませんか!?」
え、嫁!?
嫁って、あのお嫁さん!?
びっくりして顔を上げたら、淀市様の視線は僕に向いていた。
えええええ!?
そんな、どうしよう?
僕は何て答えればいいのか迷って、優雅お姉様の顔色をちらちら見た。
すると、優雅お姐様が助け船を出してくれた。
「気に入っていただけたようで何よりです。しかしながら、誠に申し訳ありんせんが、この子は嫁に行けんせん」
さっきまでの合わせるような返事ではなく、はっきりノーという言葉に僕はほっとした。
さすが優雅お姐様!
「そうですか。いやはや、それは残念です。でも、まあ、まだ会ったばかりですから、これからゆっくりお互いを知っていけば気が変わることもあるでしょう」
淀市様は苦笑し、頭を掻いた。
しかし、優雅お姐様はそれにも「そうではありんせん」と首を振った。
商人らしく淀市様は押しが強いが、優雅お姐様も芯のある方だ。
僕はその横顔を頼もしく思って見ていたら、優雅お姐様はなぜか悪戯っぽく笑い、次の瞬間、軽やかな口調で衝撃的なことを言った。
「だってこの子、男子でありんすから」
「ふぇ?」
僕は口からアホっぽい声が漏れ、慌てて両手で押さえた。
え、ええええええ!?
僕って、男子だったの!?
思わず叫びそうになったが、はしたないので何とか堪えた。
代わりに、ずっと黙って話を聞いていた淀市少年が叫んだ。
「はあああ!? ふざけんなあああああああああ!」
その後、僕はすぐさま淀市少年に着物越しに腕を掴まれ、外へ連れ出された。
空は曇っていて、ひんやりと肌寒い。
移動中、アネモネの花が目に留まり、そういえば花言葉は何だったっけとふと思った。
淀市少年は僕の腕を荒っぽく離すと、眉間にしわを寄せ、真剣な表情で聞いてきた。
「お前、本当に男なのか?」
僕はうーんと唸り、その質問に対する答えを探そうと頭を働かせたが、自分では導き出すことができない。
「分からない。でも、優雅お姉様が言うならそうだと思う」
僕は淀市少年が期待した返事を返せず、申し訳なさそうに言った。
「はあ? とぼけたやつだな」
淀市少年は呆れた表情で僕を見た。
淀市少年がそう言うのももっともだと思ったが、僕もさっき自分が男子だと知ったばかりだ。
僕の銀髪は肩まであり、着物以外ではひらひらした服を着るし、てっきり女子だと思っていた。
「俺はとても嫌な思いをした」
淀市少年は溜め息をつき、僕を恨めしそうに見た。
僕が女子だと思ったんだろう。
期待を裏切ってしまったことを謝った。
「ごめんなさい」
そして、償いのつもりで、僕ができる精いっぱいの笑顔を添えて言った。
「僕にできることなら何でもするから」
すると、淀市少年は意地の悪い笑みを浮かべ、命令口調で返した。
「じゃあ、脱げよ」
「………………え?」
一瞬、聞き間違いかなと思い、こんなところで裸になる想像をした自分を恥ずかしく思った。
「だから、脱げって言ってんだよ!」
だが、淀市少年にもう一度言われ、僕は思い直した。
空耳じゃなかった。
淀市少年の手がぐんと伸びてきて、僕の着物の帯を掴もうとした。
が、僕は反射的にギリギリのところで後ろに避けた。
優雅お姐様とちょこちょこする追いかけっこの時の要領で。
淀市少年は避けられるとは思っていなかったのかポカンとしたが、その後、すぐ表情を変え詰め寄ってきた。
「逃げんな! お前、今何でもするって言ったよな? なに、逃げてんだよ?」
淀市少年は憤然として言った。
僕はその責めるような口調に委縮してしまい、遅れてか細い声を出す。
「た、確かに言ったけど、そんにゃつもりじゃなくて……!」
「あん? 聞こえねえ! もっと腹から声出せ!」
腹から出すってどうすればいいの?
出し方が分からないよぉ。
僕は蹴躓きながら、後ずさりする。
「早く脱げよ! 脱いだら許してやる! さあ、脱げ!」
淀市少年は僕を急かすように脱げ脱げと連呼する。
そんなことを言われても困るよぉ……。
着物を着ていても見られるのは恥ずかしいのに、外で、しかも今日会った人の前で脱ぐなんてできないよぉ。
それに、そんなことをしたら、もう宮緒様や優雅お姉様に顔向けできない。
どうしよう?
どうしたらいいんだろう?
こんな時、宮緒様や優雅お姐様なら何て言うのかな?
考えていたら、しびれを切らした淀市少年が獲物を狙うような目つきで手を伸ばして来た。
「自分で脱がねえなら、俺が脱がしてやる!」
着物に手が掠る。
一瞬、ひやりとした。
生きた心地がしない。
でも、未だ何も思いつかず、とりあえず時間稼ぎをしようとするが……。
「な、なんで脱いでほしいのかな? 僕の性別を知りたいのなら、宮緒様に聞いた方が……」
「はあ!? そんなのより脱いだ方が早いだろ! はっきりするだろ!」
「そうなの?」
僕達で判断するより、宮緒様の判断の方が正しいと思うんだけどなぁ。
困惑しながら後ろに下がってると、唐突に僕の背中が屋敷の壁にぶつかった。
うわぁ!? こっち行き止まりだよ!
「おい、覚悟はできたか?」
そんな、覚悟なんてできるわけな……、あ!
もう無理と思った瞬間、頭の中にある情景が思い浮かんだ。
それは、優雅お姐様に日頃の感謝を伝えるために秘密で練習していたこと。
でも、こうなった以上出し惜しみはしていられない。
それに、その後の笑顔を想像したら、むしろ楽しみにさえ思えてきた。
僕はふふっと笑いながら、軽い口調で淀市少年を誘った。
「ねぇ、おやつにしよう! 僕、チョコレート作れるんだよ! これからお互いを知っていけば、きっと分かり合えると思うんだ!」
まぁ、チョコといっても本格的なものではなくメダルチョコだ。
将来的には、そのチョコの表面に贈る相手の顔を描けるくらい完成度が高いものにしたいと思っているが、今はまだその域に達していない。
すると、淀市少年は真顔で叫んだ。
「うるせえ! いいから脱げよ! 俺はにょたい以外興味ねえんだよ!」
それから、僕は着物を脱がされそうになったが、「これどこで結んでるんだよ!」と淀市少年が悩んでいる間に、優雅お姐様が来て助けてくれた。
僕の悲鳴を聞いて、座敷から飛んできたらしい。
肌を見せはしなかったが、乱暴されて、僕はしばらく優雅お姐様に抱かれてぐすぐす泣いていた。
優雅お姐様は僕の乱れた姿に軽蔑するどころか落ち着くまでずっと傍にいてくれて、「大丈夫。わっちがついていんすから」と優しい言葉で慰めてくれ、僕は何度もお礼を言った。
結果的に、僕は淀市様の御子息と遊ぶという宮緒様の言いつけを守れなかった。
また、初めての人との接触が散々なことになり、人って怖いんだと認識するようになった。
淀市様親子が帰った後、僕は重い足取りで、宮緒様に今日の課題の結果を報告しに向かった。
花屋敷から少し離れた丘の上に北欧風の邸宅があり、そこに宮緒様は住んでいた。
木で作られていて、冬でも温かく、中は木の香りがする。
宮緒様はその邸宅をトロと高低のあるアクセントをつけて呼ぶ。
僕は緊張した面持ちで扉のベルを鳴らして、返事を待った。
ほどなくしてメイドが扉を開けてくれ、僕は中に入ることができた。
そのまま客間に通されると、北欧インテリアで囲まれた部屋の奥、腰掛け椅子に、宮緒様は座っていた。
さながら絵画の中の女性のように神秘的な雰囲気を纏っている。
僕はそのテーブルの前まで早足で来ると、心臓がバクバクして不安になってきた。
でも、失敗したのは僕が全部悪いわけじゃないよね?
僕は自分を安心させてから、さっきあったことを詰まりながらも話し始めると、途中で宮緒様は口を開いた。
「それで? 私に何て言ってほしいの?」
「え? あの、宮緒様?」
予想外の返答に、僕は目をパチクリさせると、宮緒様は平然とした態度で歌うように言った。
「可哀想、大丈夫、あなたは悪くない? 言っておくけど、淀市の色ボケ息子をいなせなかったのは、全てあなたが悪いわ」
その言葉に、僕はうろたえた。
そんなひどいこと言われるなんて思わなかったから。
だって、どんな理由があっても暴力を振るうのはいけないことだもん。
そう教えられて、そう思っていたのに。
でも、宮緒様の言う通り、元はといえば、僕の淀市少年の扱い方が下手だったのは確かだ。
少しだけでいいから宮緒様に慰めてほしかった気持ちはあったが、それをぐっと堪えて素直に謝った。
「申し訳ありません、宮緒様!」
「本当に。その程度のことでいちいち泣くなんてありえない」
宮緒様の言葉が心にグサッと突き刺さる。
「申し訳ありません……」
僕は蚊の鳴くような声で再度謝った。
そして、自分が恥ずかしくなった。
そうだ、人のせいにするのはいけないことと教えられたんだった。
それを、僕はしちゃったんだ……。
僕が俯いていると、宮緒様は大きなため息を吐く。
「あなた、優雅ちゃんの大切な1分、1秒を奪っている自覚がないわよね?」
そして、冷たい視線を向けられ、僕ははっとした。
優雅お姐様は僕の教育のために自由時間がないのはもちろん、一人で復習する時間もないんだ。
そんな優雅お姐様に僕はとても感謝していて、僕が優雅お姐様に恩返しできることは一日でも早く一人前になって手を煩わせないことで、でも今の僕は全然ダメで……。
「あの、その、えーと!」
僕は一度に出てきた自分の感情を整理できず、あたふたした。
すると、宮緒様は語気を強めて返事を迫る。
「ないわよね?」
「申し訳ありません!」
常に冷静沈着な宮緒様の珍しく怒りを帯びた声に、僕は謝ることしかできなかった。
「優雅ちゃんはあなたと違って、全てにおいて非凡な才能を持っているの。将来的には、御職と呼ばれた私をも超える可能性がある、いわばダイヤモンドの原石だわ」
宮緒様は立ち上がると、僕に背を向けて、窓辺に手をかけた。
「だから、それを邪魔する奴は誰であろうと絶対に許さない。私の総力をあげて叩き潰す」
宮緒様の目は遠くを見つめているようだった。
宮緒様はやっぱり優雅お姐様のことを高く買っているんだ。
それと同時に、僕は眼中に無いことを改めて理解して、悲しかった。
「話は以上よ。消えなさい」
「分かりました! 宮緒様の貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございます!」
僕は間を置かずに、深々とお辞儀をした。
そして、宮緒様に言われた通り、早々に退室しようとドアの前まで行くが、僕はそこで立ち止まってしまった。
宮緒様にどうしても聞きたいことがあったのを思い出したからだ。
僕は宮緒様の言いつけと自分の想いとで葛藤したが、やむなく宮緒様に質問することを優先した。
宮緒様の言葉を聞き流しているようで心苦しかったが、自分にとって大切なことだったからだ。
次にまた質問された時、しっかり答えられるように。
僕は深呼吸し、頑張れと気持ちを奮い立たせると、宮緒様に声をかけた。
「宮緒様! 失礼をお許しください。一つだけ、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「なに?」
宮緒様は振り向きはしなかったが、返事は返してくれた。
僕は内心安堵すると、単刀直入に聞いた。
「僕は男子ですか!?」
僕は宮緒様が答えてくれるのをドキドキして待った。
すると、何と宮緒様はこちらを向いて話した。
「いいえ、あなたは純然たる女子よ」
「そうなんですか!」
僕は大きく頷いた。
宮緒様が言うんだからそうなんだ。
宮緒様は聡明な方で、その言葉に間違いなんてあるはずがない。
僕はモヤモヤが晴れ、爽快な気分になった。
再度、僕はお礼を言い、今度こそ部屋から出ようとしたら、宮緒様に注文を付けられた。
「この話はこれで最初で最後よ。だから、2度と聞かないで」
「はい! 分かりました!」
僕は大きな声で返事をすると、トロを後にした。