こわいこと
「ごめん、千穂。ちょっと保健室に寄りたいんだけど、付き合ってくれる?」
いつものように放課後に私を迎えに来た聖司は、彼の物ではないもう一つの鞄を持ち上げて、一番にそう口にした。
「仁見が保健室で寝てて、荷物を持って行って様子を見てきて欲しいって頼まれたんだ」
「仁見先輩、体調悪いの?」
「いや、ただのサボりだと思う」
仁見先輩は超がつくマイペースで、すぐに突拍子のない行動を取る。お世辞にも協調性があるタイプではないらしく、聖司曰く彼の扱いに手を焼いている教師は少なくないらしい。そんな仁見先輩と唯一仲が良く、教師受けのいい聖司は何かと仁見先輩のことに関して厄介な頼まれ事をしているそうだ。この間は進路調査票の回収を頼まれていた。
それが同じクラスだった一年の頃から始まり、二年で別のクラスになっても続いているらしい。
「仁見先輩って単位大丈夫なの?」
以前、私が体育館にタオルを忘れた雨の日も、後でよくよく聞けば、午前最後の授業をサボっていたらしい。あまり授業を真面目に受けている印象がなかった。
「それは大丈夫だよ。そういう所はちゃんと計算してるはず」
仁見先輩には自由人のイメージがあった。気の向くままに雨の下に飛び出してしまうような、そういうところが私にそう思わせていた。成績も単位も彼にとってはさして意味のあることではないのだと思っていたのだ。そんなものに一喜一憂する仁見先輩の姿が、どうしても想像つかない。だからそうした、普通のことかもしれないけれど、ちゃんとしているのは少し意外に思う。
保健室を訪ねれば、養護教諭不在の掛札が掛かっていた。聖司は特にそれを気にすることなく、しかし静かに扉を開けて奥へ踏み入る。二つあるベッドの内、カーテンが掛かっているのは一つだけで、すぐにそちらに仁見先輩がいると窺えた。
ベッドは窓際にあり、外の景色が見える。昼過ぎから降り始めた久しぶりの雨は止む気配がない。外はどんよりと暗く、この町を濡らしていた。
「仁見、起きろ」
真っ白なシーツに埋もれるようにして眠る仁見先輩は、美しかった。常々可愛らしいと思っている容姿は、目を瞑り、表情を動かさないことでその端正さが際立っている。普段賑やかな先輩が静かにしているとそれだけで妙に儚げに感じてしまった。メルヘンチックな思考だという自覚はあるが、脳裏に『眠り姫』の物語が浮かぶ。
「起きろ」
聖司の声が、私の聞いたことのない音を発した。腹の底から漏れ出るような低い声である。優しい声ばかり向けられている私は、それだけでちょっと怯える。しかし、聖司に容赦はなく、全く起きる気配のない仁見先輩の胸の上に彼の鞄を載せた。
「ぐぇっ」
見た目の愛らしさにあるまじき、カエルが潰れたような声が上がる。仁見先輩は顔を思い切り顰めながら薄っすらと目を開き、私と聖司の姿を交互に目で追った。それから、大きな溜息と共に脱力する。
「なんだ、夏目と水島か。あー、びっくりした」
「いつまで寝てる。とっくに放課後だ」
「あ、本当か?うわあ、寝過ぎた。起きる起きる」
鞄を胸の上に載せたまま、仁見先輩はまるで重みを気にする様子もなくケラケラと笑う。振動で鞄が揺れた。そのまま鞄を持ち上げて脇に避けると大きく伸びをする。寝て凝り固まった筋肉を解しているようだ。
「水島も悪かったなあ、ここまで来てもらって。夏目が一人で持ってきてくれればいいのにな」
「俺が千穂を置いてくるはずないだろ」
「まあ、保健室は一階で下駄箱に行くついでですし、お気になさらず」
聖司の言うとおり、彼が私を置いて用事を済ませる訳がないのはよく分かっているので、当たり前のようについてきた。口では色々と言いつつも、それを仁見先輩もよく分かっているのだろう。それについて、それ以上特に何か口にすることはなかった。
「じゃあ、俺達はもう帰るから」
「仁見先輩は一緒に帰らないんですか?」
以前のようにこのまま一緒に帰るのかと思っていた。私の自然と浮かんだ疑問に顔を輝かせたのは仁見先輩だった。
「おー、なんだなんだ。水島は僕と帰りたいのか?可愛い奴め」
仁見先輩がベッドの上に上半身だけを起こした状態で、私に向かって笑って両手を広げる。この腕の中に飛び込んでこい、と言わんばかりの態勢だが、行くはずがなかった。恋人でもない異性に抱きつくような節操なしではない。と言っても、仁見先輩は見た目だけならば異性に見えないので、少々心揺れたが。誰だって綺麗で可愛いものは好きだろう。私は大好きだ。
「仁見………?」
「うわっ、顔怖っ!夏目、顔怖いぞ!」
地の底から響くように声を低くする聖司に、仁見先輩が声を上げる。怖いと言って、表情もそれに相応しく取り繕っているが、どこか面白がっているような気がした。
仁見先輩はふと窓の外を眺めて、しばし思案したもののすぐに肩を竦めて口を開く。
「残念だけど、今日は用事があるんだ。僕がいなくては寂しいかもしれないが、仲良く帰ってくれ」
そう言って、仁見先輩は飛び降りるような勢いでベッドの上から素早く降りる。意外ときちんと揃えられていた上靴を足に引っ掛け、踵を踏んだまま鞄を肩に掛けた。
トントン、と二回ずつつま先を地面で叩いて歩き出そうとする仁見先輩を呼び止めたのは聖司だった。
「仁見、傘持ってるか?」
「いんや。朝降ってなかっただろ。走れば余裕余裕」
歯を見せて明るく笑う仁見先輩は、雨の中で濡れながら帰ることに全く抵抗がない様子だった。気になるものが見えたから、と躊躇わず雨の中へ飛び出す人なので、濡れても気にならないのかもしれない。そんなことばかりして、風邪を引かないかだけが心配になった。
「俺の傘を使っていいから、下駄箱のとこから持って行って。千穂、悪いけど一緒に傘に入れてくれる?」
「うん、もちろん」
今朝、聖司に雨が降ると聞いていたので、私も彼もきちんと傘を持ってきていた。私と聖司の家は隣だし、二人で一本の傘を使って多少濡れても問題ない。仁見先輩がどの辺りに住んでいるのかは知らないが、どんな短距離でもこの雨ではずぶ濡れになってしまうだろう。ぜひ、傘を使って欲しいと思う。
「おお、いいのか?ありがとう」
嬉しいな、と満面の笑みを浮かべて仁見先輩は私達を置いてけぼりにする素早さで保健室から出て行った。用事があると言っていたが、もしかしたら時間が迫っているのかもしれない。
さっきまで寝ていたはずなのに、やけに元気に飛び出していった仁見先輩を半ば呆然と見送り、聖司の顔を見上げる。
「帰ろうか」
私がそう声を掛ければ、そうだね、と聖司はすぐに頷いた。エアコンの利いていた保健室から出ると、一気に熱を孕んだ湿気が纏わりつく。ベタベタとする肌が不快で、晴れの日よりも涼しいとはいえ、不快感はそう変わらなかった。
下駄箱で一旦別れ、上靴からローファーに履き替えるとすぐにまた合流する。手を差し出す聖司の手に傘を渡せば彼は自然とそれを受け取って開いた。並んで歩き出すと、傘が雨を受け止める音だけが聴覚を満たす。
聖司は私と手を繋がない。小さい頃は当たり前のように繋いでいたが、気付けばそれもなくなっていた。並んで歩くことはいつものことだが、傘の中に収まるように、こんなに近くにいるのは久しぶりで、少しだけ緊張してしまう。
「そんなに傘傾けなくていいよ。聖司が濡れるよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと収まってる」
嘘つき。聖司の肩はすっかり濡れてしまっている。けれど、彼はそれを指摘したところで、のらりくらりと躱して頑なに私へ傘を傾けることだろう。聖司は優しいのだ。驚くほど私にだけ優しい。だから私は、彼のことが好きなのだ。
「帰ったらアイス食べたいな」
「一本だけにしときなよ。またおばさんに怒られるよ」
「分かってるよ。ていうか、もう子どもじゃないし、そんなアイスばっかり食べないよ」
涼しくて甘くて大好きだが、健康以上に体重が気になってしまう。そう安易な気持ちで甘味ばかり食べる訳にはいかないのだ。
「…………うん、もう子どもじゃないよね」
私より背の高い聖司の声が、頭上から聞こえた。その声は私との会話の為の言葉というよりは、小さな独り事のように雨音に混じる。目の前の交差点を傘を差した元気な小学生達が走り抜けて行って、それがもう少し遅ければその声は喧噪で掻き消えてしまっていただろうと思った。
その呟きで、ふと中学生の頃の情景を思い起こした。
「この間、智美と話したんだ。大人になるのが怖いね、って。ちゃんとした大人になれるのかなって」
「うん?」
「あのとき、まだ私は分かってなかったんだけど、大人になるってことが全然現実感なくて、分からなかったんだけど」
聖司が中学二年生のときの夏だった。私は中学一年生で、そのとき聖司は極端に食欲を無くし、見るからに調子を崩していた。その聖司が一度だけ泣いて弱音を吐いた。頑なに笑おうとする彼が漏らす、珍しい本音だった。
聖司が言った。
『大人になるのが怖い』
と、私はそれが何故なのか、上手く理解出来なかった。ただ、怖いと言われれば何となく怖いような気がして、明確にならない不安感に襲われた。彼のことをきちんと理解してあげられないことが悲しかった。
そのとき、強く聖司のことを理解したいと思ったのが、ただの幼馴染から恋へと変わるきっかけだったと思う。
「聖司も、自分に自信がなかったの?」
彼の横顔を見ようと顔を上げれば、こちらを見下ろす視線と目が合った。聖司は笑っていた。苦しそうに眉を寄せて、困ったような顔で笑っていた。
「そうだね」
肯定を示す言葉。それが本心からのものであるのか、私には分からなかった。