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記憶の手掛かり


今週が終わればとうとう学生が待ちに待つ、夏休みが訪れる。教室内のみならず、どうにも学校全体が浮足だっているような気がする。しかし、私自身はあまり気分が高揚することはなかった。例年の通りならば私に待ち受けている夏休みは確実に緩やかな軟禁生活だからだ。もう慣れてしまっているし、甘んじて受け入れてはいるがけして歓迎はしていないのである。


 私も一度くらい海やプールに行ってみたいとは思うが、それを嫉妬深く過保護な聖司が許すはずもなかった。時々家に遊びに来てくれる友達を待つくらいしか楽しみがない。


「じゃあ、ありがとな」


 智美と一緒にトイレに行って、先に用を済ませたらしい彼女の姿を探して廊下に出ると、すぐに見つかった。智美の視線の先には仁見先輩がいて、彼は智美に礼を述べるとすぐに背を向けて駆けていった。廊下の向こうで先生に廊下を走るな、と注意されている。


「あ、おかえりー」


 私に気付いた智美が振り返る。


「何やってたの?」

「何か千穂の友達だろって話しかけられて、転んで足を擦りむいてたみたいだったから絆創膏あげた」


 その様子が目に浮かぶようである。誰に対してもあの調子で話しかけるらしい仁見先輩は、気軽に声を掛けたのだろう。大きめの制服のスラックスの裾は捲り上げていることが多く、いつものようにふわふわと歩き、露わになった足を擦りむいてしまう姿が容易に想像できた。


「子どもみたいな人だね」

「あー…可愛いよね」

「美少女だよねえ」


 教室に戻りながら、ぽつりと智美が呟く。私達だってそりゃあもちろんまだまだ子どもなのだろうけど、彼女の言いたいことは何となく分かった。仁見先輩は同じ高校生というより、中学生や小学生に見える。マイペースで明るい性格もまた、彼を幼く見せていた。


「いいなあ」


 しみじみ、といった調子で智美が呟く。私は少し驚いた。冗談のように軽く誰かを羨むことをはあっても、今のように心の底を滲ませるような羨望を、智美が素直に表すのは珍しかった。


「何が?」

「仁見先輩が」

「…………美少女だから?」


 聖司に文句を言うとき、時々仁見先輩は『こんなに可愛い僕になんて酷いことを』と言うが、それが全く自惚れにならずにただの事実でしかないのだから恐ろしい話である。あの人、正真正銘男性のはずなんだけどなあ。


「それもあるけど…………」


 智美は少し口ごもってから言葉を続けた。歯切れの悪い彼女は更に珍しい。


「私も、子どものままでいたかったなあって。勝手にさ、身体って大きくなるでしょ。大きくなって歳さえとれば誰だって大人になるでしょ。それがちょっと、私には違和感があるっていうか、怖い。身体ばかり大人になってる気がする。あとたった四年で、二十歳になって、そのときに胸を張って大人だって言い切れる自分になれるのかな」


 自信がないんだ、と本当に自信が無さそうな弱々しい声だった。智美の言っていることは何となく分かるような気がした。時が経つだけで、私達は勝手に大人になる。いくら中身が未熟で幼かったとしても、身体は自然と成長し、大人へとカテゴライズされるようになってしまう。そして、身体の年齢と精神に齟齬を感じた瞬間、自信をなくすのだ。果たして自分は、肉体年齢に相応しい大人になれるているのだろうか、と。今だって、自分が小学生の頃に憧れたような大人な高校生には、とても達しているようには思えない。


「んー…ごめん、なんか変なこと言った」

「そんなことないよ。分かる気がするし」


 私達は生きている限り大人になって、時の流れには逆らえなくて、それはきっと素晴らしく幸福なことで、だけど時々ちょっと、息苦しい。


「あーあ、大人になんかなりたくないなあ。こう自分に言い聞かせてたら、成長止まらないかな」

「いやいやいや、無理でしょ」


 むちゃくちゃな智美の願望に軽く吹き出す。そう都合よく肉体の成長を操れたら、誰も身体的コンプレックスを抱えずに済むだろう。しかし、そんなことはできるはずもない。


「分かんないよー!想像妊娠とかも、本当に妊娠の症状が出るらしいし、目隠しして冷たい金属を『熱した鉄』って伝えて押し当てたら火傷ができるみたいだし。思い込みとかの力って強いって言うじゃん」

「あ、それは私も聞いたことあるなあ」


 でも、そうやって脳を騙すほどの影響を出そうと思えば、一体どれほどの『思い込み』が必要になるのだろう。並大抵の願望では儘ならないのだろうと思う。願望というか、最早自己催眠とか、暗示と言われるのではないだろうか。


「まあ、一応まだ大人になるまで猶予はあるし、今は楽しいことだけ考えようっと。もうすぐ夏休みだしね!」


 教室に辿り着いたところで、智美はそう締めくくる。明るい笑顔の彼女とは裏腹に、強制的引きこもり生活に思いを馳せ、少しだけ溜息に似たものを吐いた。









 夏休みを迎える前に、私には重要な目的があった。それは、長屋くんのメールアドレスを手に入れることである。彼に聞きたいことは山程あった。しかし、正面から彼と会話をしようと思えば、まず間違いなく聖司の逆鱗に触れる。それはどうしても避けたいところだった。

 その為に、彼とメールで連絡を取りたい。私の行動全てを管理したがる聖司の、数少ない譲歩がスマホを勝手に見ないということだった。稀に私が男の子と話をしているのを見つかるとアドレス帳は確認されるが、それも私の目の前で行われる。長屋くんのアドレスを女の子の名前で登録しておこうと考えていた。


 聖司は昼休みと放課後は迎えにくるが、それ以外の授業の合間の十分休憩のときは各々の教室で過ごしている。中学生時代に、私が必死に闘って勝ち得た自由だとお察し頂きたい。アドレスを聞くのは、その十分の休憩時間のときしかなかった。


「長屋くん、ちょっといい?」


 彼の席に近寄って声を掛ければ、私の姿を認めた長屋くんの顔が引き攣った。最近では彼から視線を向けられることもなくなっていたので、こうして目が合うのは久しぶりである。


「その反応なに?」

「い、いや、別に…………」


 しかし、目が合ったかと思えば、その視線もすぐに逸らされた。一緒に職員室に向かったときとは随分反応が違う。どことなく挙動不審に見えた。


「あのね、この間話したときに南久木町を知ってるかって言ってたでしょ?」

「ああ、あれは………変なこと言って悪かったな」


 長屋くんはすぐにそう口にした。バツが悪そうに眉を寄せた彼は少し気まずげだ。会話をしながら次の授業の教科書を取り出しているのは、その気まずさを誤魔化す為かもしれない。私が見てきた限り、彼は普段ならば次の授業が始まってから教科書を用意していた気がする。


「ううん。あの、その話をもっと聞かせて欲しいんだけど、すぐ夏休み始まるでしょ?申し訳ないんだけど、メールで話させてもらえないかな?」

「え、嫌だ。断る」


 即答で拒否された。あまりの素早さに反射的に戸惑った。あれ、私はもしかして、連絡先の交換に対して検討の余地がないほど長屋くんに本気で嫌われているのだろうか。そりゃあ、連絡先が知りたいと思った理由は私の勝手なお願いだが、それでもそれほどあからさまに拒絶するほどだろうか。

 すると、私のショックが伝わったのか、長屋くんは慌てて、いや、と否定の言葉を口にした。


「水島に連絡先を教えるのが嫌なんじゃなくて」

「じゃあなに?」


 聞き返せば、長屋くんは一度ぐっと言葉に詰まった。口ごもり、何故か辺りをチラチラと見回してから、意を決したように口を開いた。


「水島、彼氏いるだろ」

「うん」


 このタイミングで聖司が出てくると、何だか嫌な予感がした。


「ものすごく嫉妬深い彼氏だから、軽い気持ちで近づかない方がいいと聞いたんだ」

「え!何それ!」


 長屋くんに詳しく事情を聞けば、彼は先日一緒に職員室に向かった後、クラスメートにそう忠告されたらしい。長屋くんは昼休みは素早く購買に向かい、授業が終わればすぐに下校する。その為に、私を迎えに来る聖司を見たことがなかったそうだ。


「三倉さんには、拳で訴える前に鞄からナイフ出しそうなタイプって言われた」

「智美!」


 思わず智美の席を振り返れば、私が何を目的にして長屋くんにアドレスを聞きに行っているかまで全て知っている彼女はひらひらと楽しそうに私に手を振り、すぐに手元のスマートフォンに視線を戻す。智美は最近猫を集めるアプリにハマっているらしく、暇があればスマートフォンを眺めていた。


「あ、あの、違うんだよ。確かに嫉妬深くて、私が男の子と話すのは許してくれないけど………」

「…………悪い。俺はまだ刺されたくないし、できることなら日々を平穏に過ごしたいと考えている」

「いや、刺さないし刃物も持ってないから!」


 たぶん、たぶん………今のところそういったものは見たことがない。今度一応鞄の中身を改めておこう。いや、私は聖司のことを信じているけどね…?


「これまでそういうことで人様に手を上げたことはないし!」


 思わず人として当たり前のことを必死に主張してしまう。聖司が怒っても、私がすぐに謝って男の人と離れればその相手の男性を深追いすることはこれまでなかった。

 聖司が誰かに手を上げたのなんて仁見先輩と大喧嘩をしたときだけのはずだ。そう思うとある意味、仁見先輩はすごいな。どうやってそこまで聖司を怒らせたのだろう。私さえ関わらなければ、聖司は基本的に温厚な優等生なのに。 そして聖司は、あの可愛い顔を殴ったのか。見た目だけなら可憐な仁見先輩の美少女顔は、一般的な感性を持っていればけして手を上げられるようなものではないと思う。


「お願い!その南久木町での話が聞きたいの。私、ちょっと昔の記憶が曖昧みたいで、もしかしたらほんとにその町にいたかもしれなくて。他に手がかりもないし…!」


 長屋くんが唯一の手がかりだった。前に通っていた小学校や住所を示すようなものは、どれだけ家を探しても見つからなかった。意識的にその話題を避けているかもしれない聖司や両親に聞けるはずもなく、彼を逃せばあとはもうどうやって探せばいいのか分からない。


「…………分かったから」


 長屋くんは、うっと呻き声を漏らし、散々躊躇いを見せたが、やがて確かに頷いてくれた。


「ありがとう!」


 声を上げて感謝した。これで何とか、あやふやな記憶への手がかりを手放さずに済んだ。長屋くんには、登録名を変えるなどして、聖司に見つからないようにすると約束する。それでも長屋くんの憂いが晴れることはなかったが、一応は納得してくれたようだ。


「いいんだよ、もう……どうせ昔っから貧乏くじ引くんだ。だから大人しくしてたのに…………」


 よくよく聞けば、いつも席で黙って座っているか机の上で俯せているのは、数多い転校生活で身につけた処世術のようなものだったらしい。何事もあまり首を突っ込みすぎずに大人しくしているくらいが、一番過ごしやすいそうだ。背が高くて、あまり愛想がいいタイプでもないようなので、席に一人で座っていると大人しく、というよりも少々人を拒絶しているようにも見えてしまっていたが。


「俺もすぐ転校してしまったし、あんまり役に立たないかもしれなけど」


 そう言いながら、長屋くんがスマートフォンを取り出す。私はもう一度お礼を言って、ようやく記憶への手がかりを手に入れた。





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