彼の心配
長屋くんと話し、自分の中の記憶に疑問を持ってから、私が始めに起こした行動はアルバムの確認だった。もしもこれが聖司や両親の秘密に関わるのなら、私がそれに気付き、探ろうとすると止められるかもしれないと思った。だから、問いただすことはせず、いつも一緒にいる聖司も自宅に帰り、両親が寝静まってからアルバムを探した。
聖司のお父さんが写真を撮るのが好きな人で、いつも沢山の写真を撮っては、水島家の分もプリントしてくれる。その為に、写真はけして少なくない。
結構な量の写真を一枚一枚確認して、私の中の違和感は、大きくなるばかりだった。
この町に越してくるまでの写真がほとんどなかった。家の中や、旅行先の写真がいくつかあるだけで、小学校に入学してから、この町に越してくる小学校三年生までの写真が見当たらない。それはあまりにも極端で、不自然で、これまでそのことを疑問にも思わなかった自分自身にぞっとした。
以前に住んでいた町も、通っていた小学校も、その頃の友達も、何も思い出せない。そういえば、聖司といつ知り合ったのかも覚えていなかった。気付けば聖司はいつも私の隣にいて、離れていこうとすれば言葉を募り、力づくで追い縋ってまで嫌がっていた。私にとってそれは当たり前のことだったけれど、改めて考えてみれば聖司のその様子は余りにも過剰だった。
その後に、アルバムのことだけ母に尋ねてみた。昔のものが見つからない、と曖昧にぼかして。母は困ったように笑って「そうなのよ。引っ越しのときにどこかへやってしまったみたいなの」と言った。それは何も不自然なことではないと思う。引っ越しで物をなくすなど、そう珍しいことでもないだろう。
けれど、嘘だと思った。もう、疑う心しか私の中に残っていなかった。
「千穂、どうかした?難しい顔して」
休日も、聖司は朝から私の家にやってくる。惰眠を貪る私を起こして宥めすかしてダイニングへ誘導するのも聖司の役目だった。本当はそんなに、朝が苦手な訳ではない。惰眠を貪りたい気持ちはあるが、一度目が覚めれば普通に起き上がれる方だと思う。それなのにぐずってベッドにしがみつくのは、私を起こそうとする聖司の優しい声が好きだからだ。
一緒にダイニングで昼食を済ませて、そのあとはリビングで私の両親と一緒にテレビを見ることもあるし、私の部屋で過ごすこともある。今日は昼過ぎからお互いの両親が買い物に出掛けたので、留守番の私と聖司は私の部屋で各々本を読んだり漫画を読んだりしていた。
「そんな顔してないけど」
「してるよ、眉間に皺が寄ってる。納得行かない展開でもあった?」
くすくすと、小さく笑いながら聖司が私の眉間に人差し指で触れた。考え事をしつつもそれを悟られないように漫画を開いてカモフラージュしていたので、漫画が原因だと思ったようだ。
普段、付き合っているとは思えないほど頑なに私に触れようとしない聖司だが、こういった小さな子どもでもするようなささやかさでなら、自然と触れることもある。健全過ぎて不健全だと智美に言われたことを思い出した。
「宿題がちょっと面倒な内容だったなあって思い出しただけ」
漫画の内容など頭に入っていなかったので、それを理由にすればボロが出かねない。私はそう言って誤魔化した。
「ああ、じゃあ、一緒にやろうか。分からないとこがあれば教えるし」
「今から?うーん、うん。そうしようかな」
どうせ暇をしているのだ。自分のタイミングでしようとすれば、ずるずると後回しにしてしまうだろう。それなら今やってしまう方が、余程効率的だし後々楽になるはずだ。
「聖司はいいの?本読んでたのに」
聖司はソフトカバーの本を読んでいた。活字だが小説ではないらしい。ブックカバーをかけており、ちらっと覗いただけでも頭が痛くなりそうな活字っぷりだったのですぐに興味を無くし、何の本を読んでいるかは分からない。聖司は昔から小難しい本を好んでいた。
「大丈夫、俺も自分の宿題をするから」
そう言いながら、本を抱えて聖司は立ち上がった。我が水島家に来たときはその本だけを持ってきていたので、自宅に宿題を取りに戻るのだろう。
「ほら」
ベッドサイドにもたれかかり、座ったまま見送ろうとすれば聖司に手を差し出された。
「何?」
「一緒に行くよ」
「え、やだ。暑いし待ってる」
冷房は今、私の部屋でしか稼働していない。部屋の外だって蒸し暑いのに、聖司の家に行くために一度外へ出るのは更に億劫だった。
「だめだ。今日はおばさん達も家にいないんだから、一人になんてできない」
「宿題取りに行くだけでしょ?何分も掛かんないのに?もう慣れたけど、聖司はいつも過保護すぎ」
そう文句を言えば、聖司の表情が変わった。すぐに私は自分の失態を悟る。反射的に身を引けば、部屋の真ん中に置いているローテーブルに足を引っ掛けた。テーブルの上の半分ほど中身の残ったグラスが、ガチャンと揺れる。聖司から目を逸らせないまま、溢れなくてよかったと思った。
「千穂」
聖司の手が強引に私の腕を掴む。触れた手のひらが熱くて、握りしめられた痛みよりも滲む汗の方が不快で気になった。
こうなった聖司は私が何を言っても聞いてくれない。これ以上拒否したところで、引きずってでも連れて行かれるだろう。そんな見っともないことはしたくないし、ただただ疲れるだけなので、私はすぐに折れることにした。
「ごめん、行くから」
そう答え、立ち上がる。しかし、聖司は未だに手を放してくれなかった。顔を覗きこめば、苦しそうに、もしくは痛そうに顔を歪める彼と目が合う。
「千穂、俺は心配なんだ。人を傷つけることしか知らない怪物のような奴なんていくらでもいるんだよ」
心から私を案じる聖司に、泣きそうだと思った。小学生の頃から彼はよくこんな顔をしていた。泣きそうな顔で懇願しては、私を自分のそばに留めていた。夏は特に、どんなに暑いと言っても私と繋いだ手を離さなかった。
聖司は夏が嫌いだ。いつの間にか嫌いになっていた。そう思う。けれど、私は夏を嫌いになるまでの聖司のことを思い出すことができない。もしかして、私の虫食いだらけの記憶にその答えもあるのではないか、と思った。
「分かったよ。ほら、行こう」
促して、まだ物言いたげに見つめてくる聖司から目を逸し、先に部屋の外へ出れば彼は慌てて私の後を追ってきた。エアコンはつけたままで良いだろう。短時間部屋を離れるくらいならば、こまめに消しすぎる方が電気代も掛かると言うし。
階段を降りて、玄関でサンダルを履き、外へと繋がる扉を開ける。途端に焦げ付くような太陽の光が、燦々と降り注いだ。
「うっわ、暑い!」
思わず声を上げて、不満を訴える。靴を履き終えた聖司が隣に並んで、眩しそうに空を見上げた。
「………………そうだね」
眩しさに細められた目は、どこか忌々しそうにも見えた。聖司は夏が嫌いだ。私には見せようとはしないけれど、夏がくればいつも食欲が減り体調を崩しやすくなることを知っていた。聖司にとって、夏は確実に害悪だった。それは果たして、体質なんて分かりやすい理由だけなのだろうか
彼が苦しいのは嫌だ。辛い思いをしているのなら解消させてあげたいと思う。けれど聖司は、私にその辛さを悟られることを望んでいない。その理由も私の忘れてしまった過去にあり、聖司の秘密に隠されているのかもしれない。
私は、例え聖司が望んでいなくても、彼の苦しみを取り去ってあげたいと思う。
早く夏が終わればいいのに、と彼の横顔を眺めて彼の家に足を踏み入れた。