視線の意味
このお話に出てくる地名は全て架空のものです。
最近視線を感じる。
そう思いつつも、あえて気づかないふりをしてきた。視線を向けられていることが聖司にバレれば、きっと怒られてしまうし過保護が悪化すると思ったからだ。どういう意図で向けられている視線なのか検討もつかないが、悪意ではないことを祈っている。
視線の主はすぐに分かった。教室で視線を感じて顔を上げ、もう何度も目が合ったからだ。視線の主は、先週うちのクラスに転校してきた、長屋敦くんだった。寡黙な性格らしく、用意された窓際の一番後ろの席で、誰かに積極的に話しかけることもなくじっと座っているか、机にうつ伏せて寝ていることがほとんどだ。親が転勤族で幼い頃から転校を繰り返してきたらしく、転校初日から特に緊張した風もなく、落ち着いた様子だった。上背があるので、妙に堂々として見える。
例えば教室で智美と話していても視線を感じることがある。初めは智美を見ているのかと思ったが、私が一人で席に着いているときも視線を感じたので、どうもそういう訳ではないらしい。彼は黙って視線を向けるだけで、特に何か話しかけてきたり、ということもなかった。そうなれば気にはなるものの、こちらからその意図を尋ねるようなきっかけもない。居心地悪く感じながらも現状に甘んじていた。
「長屋くんってさあ、千穂のこと好きなのかな」
長屋くんが転校してきて一週間が経ち、六月も下旬を迎えた頃、とうとう智美も視線に気付いたらしく、そんなことを呟いた。
「えー、ないよ。話したこともないし」
「一目惚れとか、あるかもしれなじゃん」
「いやー、ないでしょ。ないない」
生憎、一目惚れされるような美貌は持ち合わせていない。仁見先輩くらいの美少女顔なら、もちろんその可能性も検討すべきだろうが。…………………あの人、すれ違う純情な男の子を勘違いさせたりなんてしていないだろうか。見ず知らずな上に存在しているかも分からない想像上の男の子に、深く同情を寄せた。
「そうかなー。まあ、千穂は入る墓まで決まってるしね」
「墓って言い方やめてよ、墓って」
もしかしたらほら、散骨を希望するかもしれないし。そうしたら聖司と結婚しても同じ墓に入るとは限らない。もっとも、それを聖司が許してくれるかどうかはわからないけれど。
「それにさあ、どっちかというと嫌われてるのかなって思ってるんだけど、嫌われるにしてもやっぱり話したことないしなあ……………」
視線に気が付き、振り返った先にいる長屋くんはいつも難しい顔をしていた。眉間に皺を寄せ、気難しそうに唇を引き結び、ともすれば不機嫌そうにも見えた。とてもじゃないが、好きな人と目が合ったときの顔ではない。警戒心の強い野生動物のような印象さえ受けた。
「まあいいや」
気にしないことにしよう。視線を感じるのが勘違いだったとしたら、と思うと自意識過剰の可能性が頭にちらついて、何か用かとこちらから尋ねる気にはならない。普通に過ごしていればクラスメートとはいえ関わることも早々ないし、何かあれば彼の方から話しかけてくるだろう。
そのときが、聖司のいないときに訪れるよう祈るばかりである。
なんて、思っていたら。
「じゃあ、二人。よろしく」
英語教諭はそれだけ言って授業を終えた教室を後にした。英語教諭の言った二人とは、私と長屋くんである。授業中に居眠りをしていた長屋くんと、窓の外を眺めて授業を聞いていなかった私が、罰としてノートとプリントを集めて職員室まで持っていくことになったのだ。
正直ちょっと面倒くさい。しかも相方が話したこともない上にいつも視線だけを向けられる長屋くんだからこそ余計に。
授業を真面目に聞いていなかった私の自業自得なのは分かっている。窓の外から見えるグラウンドに聖司の姿を見かけてしまったのが運の尽きだった。相変わらずクラス委員をしている聖司は、今日も率先して授業の準備をしていたようで、忙しなく動いていた。私のそばでヤンデレをしていない聖司というのは、私からすれば珍しくてちょっと楽しい。
思わず見入ってしまって叱られていたら世話ない、というものである。
「ごめん、ちょっと遠回りしてもらっていいかな」
三分の二以上ノートを持ってくれた長屋くんに甘え、三分の一のノートとプリントを抱えてそう提案する。職員室へ向かうには西階段を使う方が近いのだが、聖司の教室が西階段のそばにある。体育から戻ってきた彼と遭遇しないように、東階段を使うことを提案した。罰という名の先生からの頼まれごととはいえ、男の子と歩いているところを聖司に見つかれば事である。
長屋くんは私の提案に不思議そうな顔こそ浮かべたものの、了承してくれた。
二人で足早に廊下を進むが、沈黙が痛い。もうすぐ梅雨も明けそうで、日中の気温は日々高まっている。それだけではない、緊張による汗もじわじわと滲んでくきた。
「あ、あの、この学校にはもう慣れた?」
悩んだ末に無難な話題を振れた、と思う。よく考えてみればいつも聖司と一緒にいるので、こうして男の子と行動を共にするのはかなり久しぶりだった。神出鬼没の仁見先輩とは聖司がいないときに出くわして一緒に並んで歩くこともあるが、あの人は聖司の友達でもあるし、何となく別枠扱いをしている。
「まあ、一応。まだ完全に校舎を覚えられた訳じゃないけど」
「あー、高校って広いもんねえ。私も覚えるまで、結構かかったな」
転校を繰り返してきたらしい長屋くんは、何度も新しい学校に行って、何度も校舎を覚え直しているのだろうか。私は道を覚えるのもあまり得意ではないので、反射的に大変そうだなと思った。
「慣れてるし、いいんだけど」
「でも、私も一回だけ転校したことあるんだけど、それでも大変だったのに、長屋くんは何回もだからもっと大変だよね」
世間話をしながら、普通に会話が成り立っていることに感動した。謎の視線を向けられ、嫌われているかな、と思っていたので正直普通に会話をできるか不安だった。もしかしたら、視線を感じていたことさえ、私や智美の勘違いなのかもしれない。
ふと、沈黙が落ちたことに気づき、顔を上げればひどく難しそうな顔をした長屋くんと目が合った。
「何?」
「いや、えっと…………」
問い返せば、長屋くんは一旦口ごもる。少し視線を彷徨わせたが、難しそうな顔をして慎重な様子で口を開いた。
「水島さ、勝見原市の南久木町って知ってる?」
そう聞かれて、考える。勝見原市は私の住む室木市のすぐ隣の県の県庁所在地なので覚えがあるが、さすがにその中の町名までは詳しくなかった。少し考えてもやはり覚えがない。けれど、何となく聞き覚えがあるような気もして、すぐに返答することができなかった。
「こっちに来る前、南久木町に住んでた?」
「…………どうして?」
「昔、そこに住んでたことがあるんだけど、水島と同じ名前の子がいて」
だから気になっていたのだと、長屋くんが言った。これまで向けられていた視線の理由が分かり、少しすっきりする。それなのに、上手く記憶を手繰り寄せられなくて、また別の戸惑いが生まれる。
あれ、私、今の家に越してくる前ってどこに住んでた?
ぞっと血の気が引いた。思い出そうとしても、浮かび上がるのは断片的な記憶で、例えば両親の笑った顔とか、聖司の拗ねた顔とかその程度のものが写真のように浮かび上がるだけだった。もっと記憶らしい動画のような動きのあるものはまるで浮かんでこない。いくら幼い頃の記憶と言えども、いくらなんでも記憶がなさ過ぎる。
え、なんで?私どうしてそれを、今この瞬間まで疑問にすら思っていなかった?
「ど、どうした?ごめん、変なこと言って」
急に黙り込んだ私に驚いたのだろう。背の高い長屋くんが私の顔を覗き込み、慌てたようにそう言った。私は咄嗟に首を横に振る。
「あの、思い出せなくて………えっと、ちょっと忘れちゃった。昔の事だし。ごめんね」
「いや、俺こそ変なこと聞いてごめん」
気まずくなって俯けば、先程以上に居心地の悪い沈黙が生まれた。
「…………早く職員室まで持って行こう。休み時間が終わる」
そう長屋くんに促されて、足を早めた。黙々と歩きながら、考えるのは記憶のこと。
彼にそう言ったように単純に昔のことだから、記憶力の低い私が忘れてしまっているだけかもしれない。けれど、直感が告げていた。冷や汗がじわりじわりと滲むような違和感が、私に可能性を唆す。何かがおかしい。私の記憶にある限り、この町に引っ越してくる前までの話を、両親からさえ一度も聞いたことがなかった。
もしかして、聖司や両親の秘密は、そこにあるのではないだろうか。そんな予感があった。