幸福な理由
俺は怪物になるんだ、と聖司は語った。私には、どうしてそんな風に考えてしまうのかが分からなかった。だって私は、聖司に傷つけられたことなんて一度もない。多少強く腕を掴まれたことはあるがその程度で、それも私を心配する余りとってしまった行動だった。
「聖司はそういう人とは違うでしょ」
「一緒だよ」
「違うよ。だって聖司はいつも私を大事にしてくれた」
身体を離して、それでも両手を握り合ったまま向かい合えば、聖司は私から目を反らしたまま視線を地面へと落としている。やましいことがある子どものようにも、何かに失望する大人びた顔にも見えた。
「……………始めは確かにそうだったんだ。そのつもりだった。全部全部千穂を守りたくしてしてるつもりだった」
でも、と呟く声が掠れている。
「気付いたらそれだけじゃなくて、ただの嫉妬がでてきた。俺がこんなに恐れて、躊躇って、大事にしてるのに、千穂のことを何も知らないような奴が簡単に話しかけて、触れようとするのが、憎くて妬ましくて仕方なかった。彼氏っていうポジションに収まったのをいい事に、千穂を守る為じゃなくて、ただ俺が嫌だから、他の男を遠ざけてた」
いつも微笑んでばかりいた聖司の、きっと初めて聞く本音だった。笑顔でなんとなくなく有耶無耶になっていた、一番深い部分がそれだった。
「おまけに触れたいと、思うんだ。千穂に触れたい。そういうのが一番、許せなかったはずなのに。そんな自分が怖いんだ。いつかきっと千穂を傷つける。そんな自分から目を逸らしたくて、そばにいるのは守らないといけないからだって言い訳に必死だった」
聖司はたぶん、柔らかな言葉を選んだ。彼は普段私に指一本触れない訳ではない。髪を梳くこともあれば、私の顔に触れることもある。だから彼が今口にしたそれは、日常に起こりうる偶発的な触れ合いではなく、所謂恋人同士の間で起こりうることを指しているのだと分かった。
聖司を見上げていた顔を、私も俯ける。どんな表情で、彼の顔を見上げればいいのか分からなかった。いつの間にか夏の暑さも、うるさいほどの蝉の鳴き声も遠くに感じてしまって、触れた手の温度だけがいやに熱かった。
「あのね、ごめん。私は全部忘れてたから、たぶん聖司よりずっと軽く捉えてしまってて、だからね。あのね…………嬉しいよ」
触れ合う手がぎこちなく揺れる。力を込めたのは私か、聖司か。よく分からない。
「聖司が私に触れたいって想ってくれると嬉しいよ。それってちゃんと私を好きでいてくれてるってことでしょ?私は、聖司が好きだから、触れてくれると嬉しいよ」
彼の好意にあぐらをかいて、付き合うときですらあまり明確にしていなかった気持ちを、はっきりと告げた。伝わればいいと思う。私の気持ちも、聖司の抱いてくれた衝動がけして悪いものではないということも。
「私もそうだよ。好きだから聖司に触れたいよ。手を繋ぎたいし、キスだってしたい。それ以上は………ちょっと段階を踏みたいけど、追々…みたいな。ねえ、こんな風に思う私も、怪物なのかな」
違うでしょう、という思いを込めて口にした。ずっと聖司がそれに苦しんできたなら、こんな言葉一つでその気持ちが解消されることはないだろう。それでも知って欲しかった。けして彼は怪物にならないということを。
怪物は、相手の意思を無視して暴力に訴えるから怪物なのだ。自分が望んで、相手にも望まれてそうして想い合って触れることには、もっとずっと相応しい言葉がある。人はきっとそれを、愛と呼ぶのだ。
「私はどこにもいかないし、誰にも傷つけられないよ。だって聖司がそばにいてくれるから」
守ってくれるんでしょ、と俯きがちだった顔を何とか持ち上げる。本当は恥ずかしくて顔を上げたくなかったけど、ちゃんと聖司の目を見て言わなければいけないと思った。
俯いていた聖司の顔がゆっくりと私に向けられる。怯えるように震えた聖司の瞳の中に真っ直ぐ見上げる私が映っていた。
「好きだよ。ずっと苦しんでたんだよね。これからは苦しいとき、悲しいとき、寂しいときはちゃんと言って。不安なときも知りたいな。そうじゃないと聖司のこと、抱きしめてあげられないでしょ」
そう言って顔を隠すつもりで、思い切り聖司に抱きついた。こんなに暑い炎天下で抱き合って、何をやっているのかと思う。けれど、そんな何をやっているのかと思うようなことを、したいと願って実行に移せるこの距離が、愛しいと思った。
震える聖司の腕が、まるで怯えるみたいにぎこちなく私の背に回る。顔は見えないけど、声が震えていて、聖司が頭を乗せている私の肩がしっとりと濡れて、どんな表情をしているかは何となく想像がついた。
「離れて、千穂が傷つけられるのが怖いんだ」
「うん」
「他の男と話してると、怖くて妬ましい」
「うん」
「束縛して、悪いと思うけど、そうしないと不安だ」
「うん。でも、いいんだよ。私、本気で嫌な訳じゃないし」
「なんで」
「だって」
当たり前のことを聞くから、羞恥心よりも笑いがこみ上げてしまう。
「聖司のことが好きだからね」
とても単純な私。けれどその単純さが、とても幸せだと思った。誰かを好きだと思う気持ちを、全ての理由にできたなら、こんなに幸福でおめでたいことはない。
ぎゅっとしがみつくように私を抱きしめる聖司は、ごめん、と絞りだすように二回口にして、吐く息と一緒にありがとう、と呟いた。それから、耳元で消え入りそうな声で口にする。
「好きだよ」
そのたった一言で、束縛される生活も何もかもが報われるのだと、もっと聖司に分かってほしいな、と思った。




