怪物になる前の
できることなら女に生まれたかった。
けして口に出すことのない、夏目聖司のかねてからの願いがそれだった。彼は特段自身の性別に違和感を覚えている訳ではない。男性が好きな訳でも、女性の容姿や格好が好きな訳でもない。それでも彼は女に生まれたかったと切に願う。
彼は女になりたかったのではない。ただ、男になることが、堪らなく恐ろしかった。
事の起こりは聖司が小学校三年生のときだった。両親の友人の娘であり、自身の幼馴染でもある少女が変質者に誘拐され掛けた。聖司は彼女の事を特別好きだった訳ではない。引っ込み思案だった彼に対し、彼女ははっきりと自分の意見を主張する物怖じしない女の子だった。聖司はいつも彼女の意見に押し切られ、それに悔しい思いをしたこともあった。だからと言って嫌っていた訳ではないが、小さな不満がやがて降り積もり、彼は夏休みのある日、それを彼女にぶつけ、大喧嘩をし、彼女を置いて遊んでいた公園から立ち去った。
事件はそのとき起こった。罪悪感の湧き上がった聖司はすぐに公園に引き返し、そこで目撃したのだ。彼女が見たことのない男に突き飛ばされるところを。
運の良いことに近くを通りかかり、聖司の騒ぎ声に気づいた交番のお巡りさんによって男はすぐに捕らえられた。その後、頭をぶつけて意識を失っていた彼女は救急車で病院へと運ばれた。
錯乱しながら事情を説明しようとする聖司を、誰も責めなかった。彼女の両親さえ、彼女が助かったのは彼のお陰だと、感謝の言葉すら口にした。彼は違和感で自身の胸の内側が引き攣れるような心地がした。だって、そもそも、彼女がそんな目に遭ったのは、自分が置いていったからなのに。
目を覚ました彼女は、記憶が曖昧になっていた。自身の両親や聖司のこともしっかりと覚えていたが、過去の出来事に関する記憶があやふやだった。彼女の両親に事件のことには触れないようにしてほしい、と頼まれ、聖司は素直に従った。心配と罪悪感で、彼は検査も兼ねて入院する彼女の病室を毎日見舞っていたが、過去の話をすることはなかった。
そんな中で、聖司は近所の人の立ち話を盗み聞きしてしまう。彼女の話をしているのだと気付き、咄嗟に身を隠して耳をそばだててしまった。
その人達は、彼女の現状と、彼女を傷つけた男の真意や目的に対して推測を、或いはそれがまるで事実であるかのように噂していた。彼女への同情という薄い皮で包んで隠した、下世話な好奇心だったと彼が理解したのは、これより数年経ってからのことだった。
その噂話には、聖司の知らない単語が多く含まれていた。ランドセルを家に置いて彼女の入院する病院へ向かおうと思っていた聖司は、すぐに引き返して自宅に戻り、両親が帰る前にと父の部屋に入り、パソコンを起動させた。彼はこれまで特別パソコンにもインターネットにも興味を示すことはなく、両親はその状態で変に規制して妙な興味を持たせない方がいい、とパソコンの使用を制限していなかった。使用方法は知っていた。小学校の授業で学んだことがあった。彼は好奇心と、使命感のようなもので噂話から拾い上げた単語を次から次へと検索していった。
そして、彼は可能性を知った。自分が彼女を置いてけぼりにしてしまい、もしもそのまま連れ去られていたとしたら、彼女は一体どんな目に遭ってしまったかもしれないのか。
詳しい手段や方法までは調べられなかった。パソコンの画面から恐怖と不快感がとぐろを巻くように聖司に絡みつき、とても見ていられるものではなかった。分かったのは、それが暴力であり、彼女という人間を、女性という性を踏みにじるものであったということ。
パソコンの電源を落とす余裕もなく、椅子から転げ落ちるようにして地面に降り立つと、聖司はそのまま息吐く間もなく駆け出していった。立ち止まることが恐ろしくて、背後に迫った怪物を振り切ろうとするように、どんなに息苦しく、肺が痛み、足がもつれそうでも、足を止めることなく走り続けた。そうやって辿り着いた彼女の病室で、ようやく足を止めた彼は自身が汗だくになっていることに気付いた。肩で息をする彼の存在に気付いた彼女は目を丸くして、聖司に駆け寄った。
『どうしたの、せいじくん。大丈夫?』
一歳年下の女の子は、子どもの聖司よりも更に小さく、伸ばされた指先も頼りなかった。しばらく体調も崩していた彼女は、少し痩せたように思う。
そこが、限界だった。聖司は彼女に強く抱きついた。抱きしめて、縋り付いて、腕の中で囲って怪物から隠すようにして、声を上げて泣いた。あのとき自分が彼女から目を離したから、あの男に、あの怪物に彼女が見つかってしまったのだと思った。怪物から彼女を隠さなければ、怪物から彼女を守らなければ。そういった強迫観念が、聖司の全てを支配した。
それからの聖司は、片時も彼女から離れようとはしなかった。彼女に近付こうとする男性は、全て怪物に見えた。彼の尋常ならざる様子と、検索履歴もそのままのパソコンを見つけた双方の両親は、二人を引き離すことに躊躇った。環境を変えた方がいいのではないかと相談し、今住む町に引っ越すことになったのだ。
聖司はただ、彼女を怪物から守りたかった。彼女が傷つけられることが恐ろしかった。彼女を守らなければ、と思うことで彼は自身の中に燻ぶる怪物への恐怖に抗うことが出来ていた。彼自身を守るためにも、彼は彼女を守らなければならなかった。怪物が全ての敵で、何よりも醜悪な存在だったのだ。
転機が訪れたのは、彼が中学二年生のときだった。二次性徴を迎えた彼は、理解して、納得して――――――絶望した。
小学校高学年の頃、保健の授業で習って以来、いつかくるかもしれないその日が恐ろしくて仕方がなかった。そして、いつかは来た。聖司はあれだけ恐れた怪物に、自身も変わってしまったことを知ったのだ。
ちょうどその頃から、背もよく伸びるようになっていた。喉仏が出て、声がずっと低くなった。極めつけが夢だった。彼は何よりも誰よりも怪物から遠ざけたい彼女の、みだりな夢を見た。それが、もう、限界だった。すっと、極々自然に、死にたいと思った。
食事を摂ることが恐ろしくて、それによって自身の血肉となり、成長を促されることが恐ろしくて、彼は見る見る内に痩せ細っていった。食べ物を口に入れ、自身が怪物へと変容する想像をしてしまえばもう、無理だった。何かを食べようとする度に胃の中のものが逆流した。
『どうしちゃったの、聖司。食べなきゃだめだよ』
今にも泣き出しそうな顔でそう縋ったのは、彼が何よりも守りたいと思っている彼女だった。問いつめられて、心配されて、結局泣かれて。そうして聖司が漏らすことのできた本音は『大人になるのが怖い』というそんな些細なものだった。
今よりずっと身体が大きくなって、今よりずっと力が強くなって、今よりずっと危険な存在になる。その手が、彼女を傷つけてしまうかもしれない。どうかその前に消えてなくなってしまいたかった。
俯いてしまった聖司に、わざとらしいくらい明るい声で彼女が口を開いた。努めて明るく振る舞う彼女の気遣いを感じた。
『大人に変わっちゃうのが怖いの?大丈夫だよ、聖司はずっと変わらないでしょ。昔からずっと優しい聖司のままだったこと、私は知ってる。だから大丈夫だよ。大人になっても、聖司は変わらないよ』
稚拙な慰めだっただろう。彼の変容を何も知らないからこそ言える言葉だと彼は思った。けれど稚拙だからこそ真摯で、真っ直ぐで、まるでそれが真実のように思えた。否、思いたかった。彼女はこんな自分を、無条件で信じてくれるのだ。
彼女の言う通り優しいままでいたいと思った。彼女の言う優しさというもので、自身の怪物を抑えこんでしまうことができるのではないかと夢を見た。これまで通り、彼女の一番近くで、彼女を傷つけるものから遠ざけ、自身もまた、彼女をただ慈しみ守り続けるだけでいたいと願ったのだ。
そうだ、と閃いた。自分のことは自分で抑えることができる。きっと、できる。けれど、自分が強くなり、長く彼女のそばで生きなければ、どうやって他の怪物から彼女を守れると言うのだろう。聖司は怪物から彼女を守るため、自ら怪物へと成り果てる覚悟を決めなければならなかった。
初めは胃が受け付けずに苦労したが、根気強く堪えたことが身を結び、彼は適切な食事を摂り、順当に変化を受け入れた。それと同時に、彼女を守らなければという使命感と強迫観念はより強くなった。彼女を守れなければ、一体彼は何の為に怪物となることを受け入れたというのか。怪物の癖に、どうして彼女のそばにいられると言うのか。
聖司はただ、怖かった。彼女を傷つけられることが怖かった。怪物も、これから怪物になるかもしれない周囲の人間も、全て怖くて仕方なかった。けれど、いつしか、彼が一番怖いのは自分自身になっていた。
そばにいるにちょうどいい理由になるからと、恋人同士という枠組みに収まった。けれど、そんなものは、自身の心に対する言い訳でしかない。そんな自分が、彼女に指一本触れられるはずがないのだと、聖司は思った。




