伴わない行動
今年は梅雨入りが遅れているらしい。教室の窓から、六月上旬を迎えてもまだ晴れ晴れとした青い空を見上げ、ぼんやりと朝観た天気予報を思い出した。今はまだ、朝夕に薄手のカーディガンが欠かせないが、梅雨が明ければどんなに薄着をしても暑い日々が始まるだろう。それでも半袖のシャツを着るつもりはないけれど。日焼け止めを塗るのが億劫なので、その代わりである。
「本当、夏目先輩は相変わらずだねえ」
中学からの友人である三倉智美は、そう面白そうに口にした。今日の智美は肩までの髪を緩く編みこみにしており、元々の可愛い顔を更に引き立てている。どちらかと言うとさっぱりした性格だが、容姿自体は愛らしい部類である。乾燥しやすいと言っている唇にはリップを欠かさず塗っているので、いつもツヤツヤしていた。
先日聖司に空き教室でお説教を受けた際、智美と話しているところを拉致されたので、その後の詳細を尋ねられたのだ。
中学一年生のときから智美とは仲がいいので、当然彼女は聖司の私への執心ぶりを知っている。聖司にヤンデレという称号を与えたのも彼女だった。
「夏目先輩を見てるとさあ、私あれ思い出す。ただしイケメンに限る。イケメンじゃなかったら通報もんでしょ」
「いや別に、聖司が格好いいから文句を言わない訳じゃ…………」
「そんな綺麗事に興味はないんですぅ」
智美は容赦なく切り捨てた。彼女の明け透けな性格を好ましく思っているが、こういうときは少々耳が痛い。聖司の顔が好きか嫌いかと言われれば、もちろん好きである。それはでも恋人の顔だからで……………これこそ綺麗事か。
「まあでもさ、千穂はすごいなって思うよ。四六時中監視されてよく耐えられるね。私絶対無理ー。一人の時間が欲しいタイプー」
「あー、智美はそうだろうね」
「そうそう。あ、でも相手が石油王なら許す」
だから迎えに来てくれないかなー、と智美は夢があるんだかないんだかよく分からない事を呟く。いや、石油王が迎えにくるとか、夢のまた夢でしかないと思うのだが、彼女の言っていることを要約すると『金』になるので、悩ましいところである。
「それにしても、千穂がこの高校に来たのは意外だったな。夏目先輩は女子校に行かせたがると思ってたし」
「あー、その辺悩んでたみたいだけど、目が届く方がいい、って結論に至ったみたい」
私としては、私の進路なのに何故聖司の意見を取り入れなければいけないのか、と思わない訳ではなかったが、最早当たり前のこととして聖司の意見を参考にしていた。
「あ、千穂。青ペン貸して」
「細いの?マーカー?」
「細いのー」
私の前の席の椅子に後ろ向きに座った智美が手を差し出す。二日ほど風邪で学校を休んでいた智美は、その日の分のノートを写していた。よく文字を書きながら、ここまで滑らかに会話ができるものだと感心する。
「色ペン使うとカラフルで何となく綺麗に纏まったような気がするけど、それで勉強が捗るかというとまた話が別だよね」
「智美、時々そういう胸に刺さること言うよね」
時々どころかいつもかもしれない。物事の本質に切り込みを入れては、ケラケラと笑うようなところが智美にはあった。
「いいじゃん、千穂は。別に成績悪い訳でもないし、分かんなかったら夏目先輩に教えてもらえるじゃん」
「まあ、その辺は…………すごい微妙な気分になること思い出した」
思わず呟けば、何々、と智美は興味深そうな目を私へ向ける。
「聖司、頭いいけど、別に昔から勉強得意だった訳じゃないのね。それが、小学校高学年くらいから必死に勉強し始めたの。この間その話をしたらね」
「うんうん」
「千穂に専業主婦をしてもらえるほど稼ごうと思うと、やっぱり学歴があった方が有利だと思ったから、って言われた」
智美がノートの上を滑らせていたペンの動きを止める。それから、ふはっと噴き出した。
「計画的!千穂はもう、結婚したら家から出れなくなるね」
「その後、今は通販で食料も買えるしね、って言われたんだけど反応に困った」
「やばい、ヤンデレ彼氏やばい。ウケる」
くっくっく、と智美は肩を揺すりながら笑い声を立てる。妙にツボに入ってしまったのか、笑い続けた智美はとうとう噎せてしまったようで、私は慌ててその背をさすった。
「精々今の内に引きこもりでも楽しめる趣味でも探しときなよ」
智美から考えたくもない未来へのアドバイスを頂き、余計なお世話、と言って額をペチッと叩いておいた。
私の自宅である水島家と聖司の自宅の夏目家はお隣さん同士である。元々両親同士が学生時代の友人だったらしい。私の家と聖司の家が偶然同じタイミングでこの町に引っ越すことになり、せっかくだからと二階建ての一棟が左右で仕切られているタイプの住宅に引っ越したのだ。住むと普通の二階建ての一戸建てで、外から見ると二軒が一つの建物でくっついているように見える。こうして、晴れて両家は同じ建物でのお隣さん同士となったらしい。
家が隣同士なこともあり、毎朝一緒に登校するのは当たり前。そして、もちろん下校もいつも聖司と一緒だった。基本的に下校を迎えると聖司が私の教室まで迎えに来るのだが、どちらかに用事があるときは、それぞれの教室で待つことが常だった。
「来週試験だけど、調子はどう?」
「んー?ん?んー……って感じ」
「それじゃあ分かんないよ」
聖司はおかしそうにそう笑った。こうして二人で話しているときは、聖司は普通の男の子だった。いつも同じ物を見て過ごしているので、話題は合うし、盛り上がるし、冗談だって言う。他の男が絡まなければ、聖司は優しくて格好良くて、素敵な理想の彼氏だった。
母親似の容姿は整っており、にこにこと細められた目は柔和で、弧を描く唇はいつも優しい印象を人に与える。背もすらりと高く清潔感があって、彼氏という贔屓目をなしにしたとしても、十分魅力的だった。
「また一緒に勉強しようか」
「そうしたら、私が教わるばっかになるでしょ」
「大丈夫だよ。俺もほら、復習になるし」
そんな風に、いつものように聖司は私を甘やかす。そして私は、彼に甘えることが心地よくて嬉しくて好きだった。
だから、多少理不尽に束縛されても彼のことを好きでいられたし、ぞっとするような将来の話をされても、何だかんだと心から拒絶している訳ではない。
「ねえー?」
聖司の振る舞いに不満はあれど嫌悪はない。だからこそ、引っかかる点があった。
「聖司は、私のこと好き?」
隣で並んで歩きながら彼を見上げれば、聖司は少し目を瞠って私を見下ろしていた。けれど、すぐに彼は柔らかく微笑んで迷うことなく答えた。
「好きだよ」
骨身に沁みるような、甘い言葉。私は聖司からその返答がくると確信して問いかけたし、実際にその期待は裏切られることなく好意を告げられた。
それなら、ねえ、なんで。
「知ってるう」
「うん、知られてることを知ってる」
聖司は軽やかに笑う。恥じらうことなく、息をするかのように当たり前のこととして。
――――それならどうして、私に触れようとはしないのか。
手さえ繋ごうとしない彼の手を、気付かれないようにこっそりと盗み見て、思わず溜息を漏らしてしまったのだった。