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記憶と今



 その日は、聖司と聖司のお母さんが私の家に遊びに来ていた。私達の両親は家族ぐるみで仲が良く、一人っ子同士だった私たちはいつも一緒に遊んでいた。その日も、家で話をしている母親に一言告げて、行き慣れている公園に二人で向かったのだ。私は小学校二年生で、聖司は小学校三年生だった。一人でだって何度も通っている公園に行くのに、母親たちは快く私たちを見送った。


 向かった先の公園で、私と聖司は些細なことで喧嘩をした。その内容までは思いだせない。けれど、きっと私がつまらないわがままを言ったのだと思う。私は思ったことをそのまま口に出すタイプで、当時の聖司は引っ込み思案で大人しい子どもだった。私はいつも聖司に我儘を言って、聖司を困らせては好き勝手に振舞っていた。


 そして、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったのだろう。聖司は私に拒絶の言葉を向けた。


『ちほちゃんなんてもう知らない』

『ちほちゃんなんて大嫌い』


 子どもの喧嘩だった。聖司は昔から優しかったから、私が素直に謝るだけできっと仲直り出来ただろう、と今になって思う。けれど、当時の私にそこまで考えることは出来ず、ただただ初めて聖司を怒らせてしまった、拒絶の言葉を口にされてしまったことがショックで、悲しくて、情けないことに反発心を覚えてしまったのだ。


 怒って私を公園に置いていった聖司の背中を見送って、私は立ち尽くしていた。謝らなくてはならない、仲直りしたいと思うのに、足は素直に動いてくれず、意地を張ってその場に留まっていた。

 そのときその公園に、他の大人や子どもがいたのかは覚えていない。ただ、そんな私に声を掛けたのは、その人だけだった。


『喧嘩しちゃったの?』


 特別体格がいいような記憶はない。太っていたか、痩せていたかも分からない。よく覚えているのは、指が父親より太くしっかりしていたことくらいだ。あとは、口元が三日月のように弧を描いていたような気がするけれど、嫌な印象が勝手に作り上げた不気味なイメージかもしれない。


 その人は私と聖司のやり取りを見ていたらしく、喧嘩をした私に対し、しきりに可哀想にと呟いていた。何度も何度も私の頭を撫で、可哀想に可哀想に、と繰り返した。仲直りがしたいね、とゆっくりとした口調で言われれば、意地を張って拗ねていた私も素直に頷けた。


『一緒に謝ってあげるから、仲直りしようね』


 その人はそう言って私の手を引いた。当時の普段の私なら、それで大人しく手を引かれることは無かっただろう。知らない人について行ってはいけないと、学校でも家でもよくよく言い含められていた。それなのにそうも容易く付いて行ってしまったのは、聖司に嫌われたと思って心細かったからだろう。不安で寂しくて、誰かにそばにいてほしかった。私の事を甘やかしくれる人に寄りかかっていたかったのだ。


 異変に気付いたのは、聖司が歩いて行った方向とは別の方へ手を引かれたからだ。そっちじゃないよ、と言えばその人は車を停めてあるからそれで追いかけようね、と言った。別方向へ向かうことで小さな不安が生まれ、そこで私はようやく『ついていっちゃいけない』と気付けたのだ。


 手を引くその人に、やっぱりいい、と断りの言葉を向けて手を引こうとした。その人はそれを許さなかった。どうして、一人じゃ言いにくいいだろう、一緒に謝ってあげるから。次第に語気は荒くなり、腕を引く手にも力が籠もった。そうなれば本格的に危機感が募り、咄嗟に声を上げようとした。


 ―――――――思い出すのも、そこまでが限界だった。









「おーい。大丈夫か?」


 木陰のベンチに腰掛け、顔の上にタオルハンカチを載せて天を仰ぐ私の隣に座り、仁見先輩が手で私の顔を扇いでくれる。その気持ちは嬉しいけれど、この炎天下の中、手のひらで扇いでも大した風は起きなかった。

 昔この公園であったことを思い出した私は、気分が悪くなって目眩を起こした。とても立っていられなくなってその場に蹲ってしまったのだ。仁見先輩に手を貸してもらってなんとかベンチまで歩いたのだが、そこで力尽きてしまった。


「自販機で冷たい物でも買ってくるか?」

「…………今、私のそばから離れたら泣くか吐くかしますよ」


 ただでさえ頭の中がぐちゃぐちゃな今、一人かもしれない、と一瞬でも思えば恐怖で身が竦む。私はもう、あの頃のような子どもではないのに。


「思い出したのか?」


 しばらく黙って私の顔を扇いでいた仁見先輩が、潜めるような声で私に問いかけた。その声は少し気遣わしげで、ともすれば申し訳無さそうにも聞こえる。何となく、似合わない声だな、と思った。


「…………………誘拐、されたんですか、私。手を引かれたところまでしか思い出せなくて」

「いいや、突き飛ばされて頭を打ったらしいが、引き返してきた夏目がそれに気付いて助けを呼んで、周りの大人が助けてくれたらしい」


 ということは、私が思い出せた部分の直後に頭を打ってしまったのだろう。あのとき感じた恐怖心を思い出せば血の気が引き、身体が震えそうになる。その恐怖と頭を打ったことで、私のこの町で暮らしていた頃の記憶は、曖昧になってしまったのだろう。

 そしてきっと両親も、聖司も、聖司の両親も、私にそれを思い出させないようにと過去を遠ざけてくれていたのだ。私がこれまで、何も考えずに笑って生きてこられたのはそのお陰なのだ。


「ひどいなあ、私」

「ん?」

「ずっと、隠し事をされていることに、ひどいと思ってたんです。そんな風に考える私の方がずっとひどいのに」


 隠し事をされていることに関して、口にこそ出さないけれど、私の中にはいつも責めるような気持ちがあった。こんなに知りたいのに、どうして隠されてしまうのかと、問い詰めたい気持ちがあった。全部全部私のためだったのに。


「それも承知で隠しておきたかったんだろう。それで、水島は知らなかったんだ。仕方がない」

「それでも、それでももう少し、って思ってしまうんです」


 どうしてもっと、優しい気持ちで信じることが出来なかったのだろう。

 情けなくて、申し訳なくて、嘆く気持ちが浮かんでくる。私を扇ぐそよ風はそのままに、仁見先輩が口を開いた。


「……………夏目は、ずっと自分を責めていたんだ。あのとき自分が置いていったから、だから水島があんな目に遭ったんだって。目を離すことが怖くて仕方がないって」

「聖司のせいな訳がないのに」


 犯人を除けば、誰が悪いということはないだろう。この公園は何度も一人でも来たことのある場所だった。そこでいつも通り遊んでいただけだ。あえて言うならば、我儘を言って聖司を困らせた私が悪かったのだ。


「だから聖司は、私のそばにいて、男の人が近付くのを嫌がっていたんですね」


 それは恋慕ではない。聖司の優しさだった。やはり彼は、とても優しい人なのだ。かつて私が犯罪に巻き込まれかけ、聖司はその責任感の強さからずっとそれを悔いている。だから、守ってきてくれたのだ。何も知らずに過保護だ何だと文句をつける私に、けして真実を語る事なく、黙って守り続けてくれたのだ。そのおかげで私はこれまで、何も知らずに能天気に生きてこられた。

 聖司には、感謝してもしきれない。それでも、


「私、今、悲しいです。それの理由が、私を好きだからって理由じゃなかったことが。……………ダメだなあ」


 嬉しくて、有り難くて、申し訳ない気持ちも全部本物なのに、それでも、どうしても、私の抱える恋と同じものを聖司が抱いてくれていないことが、切なかった。

 ああもう、どうしようもないなあ、なんて叫びたくなる。私が、私のことを好きなのか、と問うてそれを肯定したのも、今思えば私のことを守ろうとしてくれていた聖司にとって、近くにいる為の手段の一つだったのかもしれない。そう考えてしまうと余計に虚しさが募った。

 顔にハンカチを載せていてよかった。過去の記憶への恐怖や嫌悪ではない、情けなさで滲む涙を仁見先輩に見られたくなかった。


「僕は経験がないからはっきりとは言えないが、それだけ水島が夏目を好きだという事だろう。ダメな訳じゃない」

「やめて下さいよ。今自分の気持ちと向き合うと苦しくなります」

「難しいなあ」


 仁見先輩が軽く笑う。落ち込みがちな私への慰めで口にしてくれているのは分かっていたのだが、ついついそれを拒絶してしまった。気を遣ってくれているのに不義理なことをしていると思ったが、咄嗟に出た言葉は今更消えてなくなってくれるはずがなかった。仁見先輩がこうして、せっかくの夏休みを潰し、聖司の逆鱗に触れることを承知で私をここへ連れて来てれたのは、間違いなく聖司と、そしておそらくは私の為であったのに。

 申し訳無さと同じだけの気まずさを感じて口を噤んでいると、仁見先輩から悪い、と一言断りが入った。


「電話だ」


 そう言われてよくよく耳を澄ませてみれば、蝉の大合唱の中で微かに携帯電話のバイブ音らしきものが聞こえてきた。顔に乗せていたタオルハンカチを避けて仁見先輩の様子を伺えば、彼はお願いした通り私から離れないままこちらに背中だけ向けて開いた携帯電話の受話口を耳に当てた。


「もしもーし、あはは。悪い悪い。うん?…………うん、ああそうそう。今そこにいるから。はいはい、じゃあなー」


 短い通話時間だった。通話を切った仁見先輩は携帯電話を折りたたんでジーンズの後ろポケットにしまう。ふう、と珍しい溜息のように大きな息を吐いてこちらを振り返った。


「お待たせ、水島。迎えが来るぞ」


 仁見先輩は、そう言っていつものように笑った。






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